Re: 南光坊天海 ( No.6 ) |
- 日時: 2005/02/12 17:01
- 名前: 馬子
- 当然よ♪己の手は汚さない爆死
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Re: 南光坊天海 ( No.7 ) |
- 日時: 2005/02/12 19:20
- 名前: 微々美々
- とりあえず、自分の知っている説を載せておきますね^^
まず、義経=ジンギスカン?について。 1.記録に残る義経の生まれた年は西暦1159年。 ジンギスカンの生まれた年は、ちゃんとした記録が残っていないため、はっきりしないが、学者の研究によると、1158年〜1162年ごろらしいので、同時期に生まれたのでは 2.義経が殺されたとされるのは(つまり歴史上から姿を消したのは)、西暦1189年。 ジンギスカンが初めて歴史上に登場してくるのが1193年〜1194年ごろなので、矛盾しない? 3.水戸光圀(つまり水戸黄門)編纂の『大日本史』によると、当時からすでに、義経は衣川で死なず蝦夷へ逃れたという言い伝えがあった事がわかる。 4.東北地方から北海道までの特定のコース上(宮古→八戸→三厩→福山→日高)に、義経ゆかりの遺跡といわれるものがいくつも存在している。 衣川を脱出した義経一行がたどった経路だと考えられています。 5.ジンギスカンは旧名をテムジンといった。 日本では偉い人を天神様というが、テムジンとは、日本語の天神(テンジン)がなまったもの? 6.源義経を音読みすればゲンギケイとなる。 それがなまってゲンギス→ジンギスとなったのでは? また、汗(カン)という称号も上(カミ)が変化したものと考えられる。 つまり、ゲンギケイカミ→ジンギスカン。
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Re: 南光坊天海 ( No.8 ) |
- 日時: 2005/02/12 19:32
- 名前: 微々美々
- 続きです^^;
『天海=明智光秀』説の根拠として、光秀の木像と位牌のある慈眼寺の寺号と、天海の諡名が同じ「慈眼」であることが上げられます。 さらに、比叡山・松禅寺には、光秀寄進の石灯籠が現在でもあります。寄進日は慶長20年(1615年)つまり光秀はすでに死んでしまってるはずの年代です。これは光秀が慶長20年(1615年)まで生きていたことの明らかな物証でしょうか。 また、日光東照宮の近くの中禅寺湖や華厳の滝が見える平らな場所を明知平といい、天海が命名しています。さらに日光東照宮の陽明門の入り口の脇にある二対の大礼服の随身の座像は二対とも着物に明智家の桔梗紋があります。
謙信公は「女」だった? 説としては・・・ 1.謙信は「おこそ頭巾」をかぶっていた。 (春日山城の謙信銅像を思い浮かべてください) →「おこそ頭巾」は越後の昔の女性用防寒姿である。 2.謙信は毎年10日以後、戦争中でも一定期間馬に乗らなかった。 →女性の生理現象である スペイン国王フェリペ2世には「会津の上杉景勝が伯母の上杉謙信が開発した佐渡の黄金を運び隠し持っている。」と報告されているのである。 これは手紙に「Tia」と表記されているが、これは「女性」に付くもので、男性は「Tio」と表記されるとのこと。(手紙は現存します)
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Re: 南光坊天海 ( No.9 ) |
- 日時: 2005/02/12 19:39
- 名前: 微々美々
- キリストが青森で死んだ?
「東方聖骸布」のことならば、ローマ法王庁認定の聖遺物として現存します。 説としては・・・竹内巨麿(たけうちきよまろ)というキリスト研究家の『竹内文書』という謎の古文書によれば、ユダヤに生まれたイエス=キリストは、21歳の時に来日し、そして12年間今の富山県で言葉や文字などを習い、さまざまな修行を重ねたと言います。 33歳の時にユダヤに帰りそこで聖書に書かれてある一連の行動(布教活動)を行いましたが、ユダヤ教パリサイ派の反感を買い、ローマ政府よりに反逆者として磔(はりつけ)の刑に処せられました。 ですが・・・実はその後青森県三戸郡戸来(へらい)村でミユ子という女性と結婚し106歳で天寿を全うしたと言います。 この伝説には何と!証拠(?)もあります。 (1)まず戸来(へらい)という地名が「ヘブライ」から来ている。 (2)生まれた子供の額に「+」のマークを付けること (3)この村に伝わる歌『ナニャドヤラ』はヘブライ語で「聖前に主を讃えよ」の意味を持つ
いずれの説もも真偽はともかく、スケールが大きい伝説で、自分としては”歴史って面白いなぁ”と感じています^^ 長文、連続レスで申し訳ないのですが。
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Re: 南光坊天海 ( No.10 ) |
- 日時: 2005/02/12 21:19
- 名前: 微々美々
- すみません、東方聖骸布は小説や漫画などの設定とごっちゃになっていました。大変失礼しました。
正確には、「トリノ聖骸布」が最も有名な聖遺物でした^^; また、キリスト関係では、食べ物として「キリスト餅」がありますよ。場所は十和田湖の東、十和利山の麓にある迷ヶ平(まよがたい)の売店で買うことができるようです。
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Re: 南光坊天海 ( No.11 ) |
- 日時: 2005/02/13 20:00
- 名前: 上級槍騎馬
- 上杉謙信は女ということはないだろうと思う。
女だと「ー姫」(稲姫とか)や「おー」(お市とか)という名前になるだろう。 名前からして男。軍神という点でもう決まり。 一体誰が言ったのだろうか。
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Re: 南光坊天海 ( No.12 ) |
- 日時: 2005/02/13 22:14
- 名前: 微々美々
- 上級槍騎馬さんへ
謙信公が女だった?と言う説はこちらの本で知りました^^; 上杉謙信は女だった 八切意外史 八切止夫 著 この方は実は小説家ですが、根拠がなかなか素通りできそうに無い部分もあったので、あえて載せてみました。(なにしろ笑えますし^^) 根拠1 「越後景虎四十九歳歿、大虫という」と歴史資料に書き残されていますが、大虫とは「しゃくの虫。婦人の血の道を起こす」とされています。 つまり今では死語?の「婦人病」のことを指し、歴史資料とは「当代記」といい、伊勢亀山城主松平忠明が戦国末期から江戸初期まで克明につけたもの。その天正六年の条に書かれています。 根拠2 毎月十日か十一日になると、ピタリと戦争を止めている。女性・謙信の生理日だったのだ? なにしろ永禄四年六月の時は、小田原勢に攻め崩されて危機一髪の時なのに、六月十一日になると上州厩橋城へ「腹痛」と称してひきこもり、十日ほど出て戦おうとしなかったそうです。 生涯唯一の例外はあの”川中島の決戦”敵将・武田信玄の大虫(アンネの日)大作戦が成功した。生理というハンディキャップのために謙信は九分九厘まで勝っていた戦果をもう一息のところで逸してしまったといいます。 根拠3 上杉神社所蔵の謙信公が着たという「紅地雪持柳繍襟辻ヶ花染胴服(くれないじゆきもちやなぎぬいものえり・つじがはなぞめどうふく)」はどう見ても、男性が着るものではなさそう・・・。 こんな説があるのも歴史の”もしも”でよいのではないでしょうか? もちろん、自分も謙信公は”男”だと思いますが。
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Re: 南光坊天海 ( No.13 ) |
- 日時: 2005/02/13 22:34
- 名前: 前田慶次
- 上杉謙信が女だと言うのは今は亡き異色の歴史作家八切止夫(やぎりとめお)先生です。1970年ごろに「上杉謙信は女人だった」を出版されています。微々美々さんの書かれている理由に+αして書かれています。
他の理由の一例を挙げると 江戸時代に入るまでの戦国時代では女城主は少ないながらも存在していたそうです。 例を挙げるとゲームでも仲間になる立花闇千代(ぎん千代)、秀吉から山城国淀城を貰った淀殿(茶々)。 そういった理由や他の述べられている理由から、上杉謙信が女性の大名であったとしてもおかしくないそうです。
真偽のほどは定かではないですが、謙信女性説にとどまらず、他のいろんな説でももしかしたら何々だったかもしれないと考えると面白いものです。
調べている内に微々美々さんのとダブってしまいました。スイマセン。
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Re: 南光坊天海 ( No.14 ) |
- 日時: 2005/02/13 22:52
- 名前: 微々美々
- 前田慶次さん、補足をありがとうございます^^
勉強になりました。 稽照殿という宝物館に行かれると、謙信公の書物がありますが、ほとんどが仮名づかい、和歌が多かったと記憶しています。これも根拠の1つかも知れないですね。 もう1つ、根拠2の歴史資料は「松平記」に記されています。
しかし、謙信公が「男である」根拠もあった方が良いと思いますので、そちらも載せておきますね。 1.女人禁制の高野山に2回登山した。 2.謙信の位牌に権大僧都・居士などと明記されている。(女性には付かない戒名) 3.生前、法印大和尚に任ぜられ、自身、愚僧と署名している。 こんな感じでしょうか。
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Re: 南光坊天海 ( No.15 ) |
- 日時: 2005/02/14 10:47
- 名前: たいぞう
- 軽い気持ちでトンデモ系を2つばかし例示しただけだったんですが、詳細な情報が書き込まれる事になろうとは…。
情報書き込まれた方、お疲れ様です。今後はもう少し気を付けますね。(それともこういったネタ、もっと出した方が良いの?)
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Re: 南光坊天海 ( No.16 ) |
- 日時: 2005/02/14 11:46
- 名前: 微々美々
- 自分的には、”何か面白そう”と思い、気軽な気持ちで載せてみました^^
こういう「攻略?」もあっても良いのでは? (楽しみ方の1つとして) もし他の皆様や、管理人様のご迷惑でなければ、と言うのがありますが。
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Re: 南光坊天海 ( No.17 ) |
- 日時: 2005/02/14 11:57
- 名前: あああ
- 微々美々さん、 たいぞうさん、 前田慶次さん、 上級槍騎馬さん、 馬子さん、 イエローモンキーさん、 馬子さん、 そーそーさん、 まあさん、
ここまで掘り下げてくれてありがとうございました。
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Re: 南光坊天海 ( No.18 ) |
- 日時: 2005/02/23 21:17
- 名前: たまさん。
- お初です。数々の歴史のIFがありますが、まず、義経=チンギス・ハーンはあり得ませんね。だって、チンギス・ハーンは誕生年は、はっきりしないけど
先祖からの系譜があり、そこに他国の人間が入り込む隙間は無いです。なぜ誕生年がわからないかというと、当時モンゴルは、文字が無かったからです。 だから、後年の人間のデマでしょうね。 上杉謙信=女は、まったく信じません。当時の男尊女卑の社会で女性が君主になるのは、あり得ませんからね。これも、デマ。 最後に明智光秀=南光坊天海は、かなり本当っぽいですよね。俺は、同一人物だと思います。 でも、一番知りたいのは、やはり本能寺の変の真相ですね。長くなってすみませんでした。
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Re: 南光坊天海 ( No.19 ) |
- 日時: 2005/02/24 02:26
- 名前: 真田源ニ郎信繁
- 便乗でひとネタ・・・。
森蘭丸は・・・・、佐々木小次郎という名で生きていた。
某漫画やN○K放送のドラマでは、小次郎は武蔵とほぼ同年代ですが、一説では巌流島の決闘で小次郎は70代↑であった説もあるらしぃです。(何かの小説で見ました。詳細な本の名前は忘れました。すみません;;) 小次郎と言えば物干し竿のように長い刀。蘭丸の愛刀も物干し竿のように長い刀です。蘭丸の長い刀は見つかっています。(戦国無双で蘭丸が長すぎる刀を使用しているのはそのせいです。) もし、蘭丸が信長の首を敵に発見されるのを恐れて生き延びていた可能性があれば考えられる話です。
あくまでも昔、聞いた話&チラ見しただけなので厳しい突っ込みは勘弁してください(;・∀・)
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Re: 南光坊天海 ( No.20 ) |
- 日時: 2005/02/24 20:16
- 名前: 微々美々
- 森蘭丸と佐々木小次郎の共通点を1つ載せておきますね^^
それは・・・名刀”備前”シリーズの刀です。 小次郎の愛刀と言われるのが、備前長光4尺6寸です。 剣豪が使用した刀でも3尺と言われているので・・・。 また、蘭丸が信長より拝領した刀も備前友成刀というものがあります。
>蘭丸の愛刀も物干し竿のように長い刀です。
京都の本能寺宝物館に”蘭丸使用背負太刀”が展示されていますが、実際物干し竿のように長かったと記憶しています。
すみません、便乗してしまいました^^;
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Re: 南光坊天海 ( No.21 ) |
- 日時: 2005/02/26 09:06
- 名前: 微々美々
- 本能寺の変について、光秀の有名な句から、自分の知っているものを・・・
諸説は50以上もありますし、皆さんご存知だと思いますので、視点を変えてみました。
時は今天が下しる五月哉 通説 1:はじめから「天が下しる」だった 2:もともとは「天が下なる」だったのを「天が下しる」に改竄した
意味は『天下をしろしめす、天下を知行する、天下を支配する』
脇句に「水上まさる庭のまつ山」とあり、「水上」は源氏、「庭」は朝廷を表し、『朝廷は源氏(:光秀)が(平氏=信長に)勝る事を待望されています』と続き、三句「花落つる流れの末をせきとめて」は「栄華を誇る(信長が)凋落するように勢いを止めて下さい」と流れ、大善院宥源の四句「風は霞を吹おくる暮」は「信長を打ち破って暗黒政治を吹き払うときです」と解釈されています。
新説 光秀の発句を「天が下しる」とした上で下の句の「五月哉」に着目し・・・ 1:「平家物語」における平家に源頼政が反旗を翻した対した宇治川合戦 2:「増鏡」における後鳥羽上皇が鎌倉幕府(執権は北条氏:平氏)に対して討幕の挙兵を行った承久の乱 (このとき土岐氏は上皇側についた者が多数居た) 3:「太平記」における足利尊氏の六波羅探題陥落と新田義貞の鎌倉襲撃
と絡めて「平氏」を名乗った信長と源氏=光秀?の対立とする説もあるようです。
長文で申し訳ないのですが。
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Re: 南光坊天海 ( No.22 ) |
- 日時: 2005/02/26 09:23
- 名前: 微々美々
- 追加を。本能寺の変の諸説一覧です^^;
「光秀単独説」 1.極的謀反説 野望説、突発説 2.消極的謀反説 怨恨説、不安説、ノイローゼ説、内通露見説、人間性不一致説、秀吉ライバル視説 3.名分存在説 救世主説、神格化阻止説、暴君討伐説、朝廷守護説、源平交代説 4.複合説 不安・怨恨説、怨恨・突発説、不安・突発説、野望・突発説、不安・野望説、怨恨・野望説、複合説 「主犯・黒幕存在説」 1.主犯存在説 秀吉実行犯説、斎藤利三実行犯説、徳川家康主犯・伊賀忍者実行犯説、複数実行犯・複数黒幕存在説 2.黒幕存在説 朝廷黒幕説、秀吉黒幕説、足利義昭黒幕説、毛利輝元黒幕説、家康黒幕説、堺商人黒幕説、フロイス黒幕説、高野山黒幕説、森蘭丸黒幕説 3.黒幕複数説 秀吉・家康・光秀共同謀議説、足利義昭・朝廷黒幕説、近衛前久・家康黒幕説、毛利輝元・足利義昭・朝廷黒幕説、堺商人・家康黒幕説、上杉景勝・秀吉黒幕説、家康・イギリス・オランダ黒幕説、足利義昭・秀吉・毛利輝元黒幕説 4.従犯存在説. 近江土豪連合関与説、長宗我部元親関与説、濃姫関与説、光秀の妻関与説、秀吉関与説 「その他」 信長の対朝廷政策との関連、家臣団統制との関連、信長自滅説、信長不死説 です。 ちなみに天海は明智平にてあの有名な「かごめ、かごめ」の童謡にちなみ「篭の中の鳥」を光秀に例えたとも言われています。 長文駄文で本当にすみません。
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Re: 南光坊天海 ( No.23 ) |
- 日時: 2005/02/26 18:38
- 名前: 微々美々
- ・・・光秀の戦死記録?を載せておくのを忘れました。(今頃気付きました)
「天正十年夏記」(勧修寺晴豐の日記)天正十年六月十五日条 「(前略)明智くひ勧修寺在所にて百性取候て出申候。本能寺ニむくろト一所首おかれ候。見物衆数しらぬ也。首共を信長はてられ候跡ニならへ候。三千程有之由候。」
「兼見卿記」天正十年六月十六日条 「(前略)向州頸・筒体(ママ)、於本應寺曝之云々、」 と公家の残した日記に記されています。 史実通りであれば天正10年に亡くなっています。
もう1つ。 天海が明智平で残した逸話に・・・ 天海は明智平に来たときに「良い名だ。とても懐かしく遠くの事のようだ」とい う意味のことを言ったという伝説が残っているといいます。
「歴史」は夢があっていいですよね・・・^^
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Re: 南光坊天海 ( No.24 ) |
- 日時: 2005/02/27 13:20
- 名前: そーそー
- 天海=光秀説ってのはおもしろいですよね。
家康さんは光秀さんと面識はあったはずなので、 知ってて使っていたならやはり黒幕は家康だったのかも?
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Re: 南光坊天海 ( No.25 ) |
- 日時: 2005/03/20 15:42
- 名前: こうすけ
- それはないでしょーーーーーーーー
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