Re: 史実 ( No.1 ) |
- 日時: 2005/03/08 14:30
- 名前: 微々美々
- 何か面白そうなので、便乗してみました^^
帰蝶 別名を奇蝶、有名なのは濃姫。 あるいは美濃御前とも。 安土城に移ってからは「安土殿」と呼ばれたそうです。 濃姫の史料は少ないのですが、濃姫=安土殿とすると、安土殿は慶長十七年(1612)に亡くなられたそうです。 大徳寺総見院に墓所にある養華院殿要津妙法大姉という戒名で供養されており、その過去帳に命日が記されています。 余談で「吉乃」も・・・ 「武功夜話」が公開されるまで吉乃の事も不明確であったといいます。 最愛の側室であったはずなのですが・・・
長篠合戦 現在は「設楽が原の戦い」とも言われています。 有名な鉄砲3000丁と3段撃ちが出てくるのは、江戸時代に小瀬甫庵が書いた「信長記」です。 「甲陽軍鑑」には長篠での騎馬軍団突撃説は織田方が宣伝したもので、現地の地形からしてもそれはなかったと主張しているそうです。 また騎馬軍団ですが・・・ 故黒澤監督の映画がモチーフではないのでしょうか。 実際、宣教師のルイス・フロイスは「騎馬武者は西洋では騎乗したまま戦うが、日本では騎馬から降りて戦う」と記しています。つまりほとんどの武田軍将兵は下馬して突撃を行っていたと思われます。 また、「甲陽軍鑑」にも武田軍将兵の詳細な記載があります。
そして戦いそのものですが・・・ 長篠の戦いが、実は「八時間に及ぶ激闘」だったことが知られています。 「長篠合戦図屏風」で描かれている通り、槍兵が馬防柵の前で武田軍と一定の戦いを行い柵の近くに誘い込んだ後鉄砲隊が射撃を行い武田軍が退却、というのが延々と八時間繰り返されたのではないでしょうか。
長文ですみません^^
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Re: 史実 ( No.2 ) |
- 日時: 2005/03/08 19:28
- 名前: 上級槍騎馬
- すごい詳しいですね、僕ももっと勉強しなくては!!
ルイス・フロイスってあの人のことですか。 あと
その槍隊でおびき寄せて鉄砲で攻撃を決戦Vで再現して見ました。
槍隊は可児才蔵、前田利家で鉄砲隊は大谷さん、吉乃。 その他の上級鉄砲足軽。 信長に新当流刀衆(下馬戦再現?)
1 敵が来ます。宝蔵院流槍衆で撃破します。 2 前田利家と敵が交戦。少しずつおびきよせます。 3 上級槍足軽じゃ駄目かな?被害多し。 4 なんとかおびきよせて砲撃でダメージ。 5 柵が破られ鉄砲隊が壊滅状態。他の味方は交戦中。 6 石川五右衛門来て助かった。 7 一斉射撃で一掃。
以上が再現をした時のメモです。あんまり再現が・・ ということは武田騎馬隊が出ている戦国無双は・・・ (戦国無双で騎馬隊とか言っていても武将とその他の兵士数人が騎馬に乗っているだけ、簡単に落とせる)
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Re: 史実 ( No.3 ) |
- 日時: 2005/03/08 23:34
- 名前: 微々美々
- せっかくなので・・・
武田騎馬軍団について自分が知っている部分も載せておきますね^^ 武田軍の強さというのは、騎馬戦術が優れていたからではなく、優れた軍制と指揮系統、それによってもたらされる変幻自在の陣形というところにあり、ゆえに野戦で無類の強さを誇ったといいます。 「甲陽軍鑑」より武田信玄の上洛出陣直前の総兵力の内、馬上は約9000騎強、侍・足軽が6000人強でした。馬上には4〜6人程度の歩兵が付き添っていたので、少なくとも戦闘員は約50000〜60000人いたと考えられます。そのうち、約9000強は馬上ですので、約18〜20%、つまり、通常の軍団でも2割近くが馬上であるのではないかと考えられます。(他家の倍の量と言われています) つまり他家の兵が武田軍と戦う時はほぼ騎馬隊と当たる計算になるので、これが武田騎馬軍団の元ネタなのではないでしょうか。 映画で言えば、「影武者」のあの”名シーン”ですね。 もうひとつの武田軍の戦い方の特徴は集団戦法です。これは、「抜け駆けの功名」を禁止し、常に兵科単位、備単位、つまり、必ず集団で動くことを徹底した戦術です。一糸乱れず整然と立ち並び、常に集団で動く武田軍は風林火山の理念に基づくかのような動きであり、どんな戦況でも整然と集団で動くため無類の力を発揮するのです。バラバラと評された三方ヶ原の戦い時の徳川軍はこの点「集団戦法」でも大きく劣っていたのではないかと推測されます。 最後に細かな点ですが、武田軍は相手を殺すことに着目せず、敵の指や足元を攻撃するように徹底していました。兵力を削ぐのではなく、戦力を削ぐ方法は剣の戦いでも有効と言われています。 (まともに斬ると刀の腰(反り)が伸び、使えなくなること、また刀に血脂が付き、切れ味が鈍るため単純に敵の耳、指を切り飛ばし、戦意喪失させるほうが早いため)
実は自分も武田信玄公は好きなので・・・
再度の長文を失礼しました。
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Re: 史実 ( No.4 ) |
- 日時: 2005/03/09 15:46
- 名前: 上級槍騎馬
- 凄いですね・・・・
集団戦法
1人の豪傑より10人の足軽と信長が言っていたように戦国時代は集団戦法が重要だったんですね。 決戦Vも2000人規模ぐらい操作できないものかな・・・(黙れ
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Re: 史実 ( No.5 ) |
- 日時: 2005/03/10 13:15
- 名前: 織田信勝(信行×)
- 明智光秀の本能寺の変の後の光秀の計算ミス
一つ 170`以上離れてた秀吉が、本能寺の変からわずか10日で戻ってきたこと。 二つ 娘婿の細川忠興 筒井順慶が味方にならず、 指揮下の池田恒興 中川清秀 高山右近らが秀吉に寝返ってしまったこと。 三つ 戦いの拠点となる(山崎の合戦)天王山を光秀が、手放してしまい中川清秀に取られてしまったこと。 光秀が、三日天下で終わってしまったことの最大原因’11日天下だけど・・・ でも決戦Vの光秀は。。。成功するんだから三日天下じゃないな・・・
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Re: 史実 ( No.6 ) |
- 日時: 2005/03/10 18:46
- 名前: 上級槍騎馬
- 確か羽柴軍のほうが兵力はかなり上だったはず。
天王山を取り返そうとして返り討ちになって大敗。 たしかこんなんだった気がする。
11日天下でしたか、それにしても短いですね。 羽柴秀吉はやはり速い。あの時もかなり早かったですね。多分 さ○ということだけはある と誰かがつぶやいた事がありそうで面白い(嘘
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