Re: 閑話休題 ( No.1 ) |
- 日時: 2005/03/10 18:41
- 名前: 上級槍騎馬
- 竹中半兵衛はかなりの切れ者だからもともと切れ者がさらに経験を重ねている訳だから関ヶ原の戦いの時は兵力が多少少ない東軍が苦戦した可能性が・・・・
上杉謙信が生きていたら・・・・・あの兵力では簡単に上洛していたということがあるのかもしれませんね。 武力も知略も整った上杉軍はなんと強いことか。 注意? 2ちゃんねるのように○○(略)と言わないように。
|
Re: 閑話休題 ( No.2 ) |
- 日時: 2005/03/10 19:01
- 名前: そーそー
- 信玄も謙信も上洛には成功すると思われるが、結局天下は取れない気がする。
半兵衛、氏郷が生きていてもやはり徳川幕府が成立すると思う。結局西軍の実質総大将は三成ですからね。
|
Re: 閑話休題 ( No.3 ) |
- 日時: 2005/03/10 21:24
- 名前: 微々美々
- もしも”あの武将が存命していたら”のシミュレーションは、自分的には難しいので・・・
考えて頂く時の参考になればと思うので、それぞれの史実的なものを。 謙信公の軍勢です。 石火矢 3604丁 手明石火矢650人鉄砲316丁大小旗368本 騎馬566騎 合計5509人 「天正三年上杉家軍役帳」より。 ”意外に少ない”と思われますが、謙信公自らも「精鋭八千があればいかなる敵もなし」と言っていますので、謙信公の強さは別のところにあると思います。 例として、 たった23人で唐沢山城を救出に向かって成功したこと、永禄4年(1561)のあっという間の関東攻略ぶり、さらには最晩年の織田信長の軍勢を見事に追撃している事実。しかも謙信は迎撃戦と言うよりも、相手の虚を突いて一気に攻勢をかける戦いぶりが目立ちます。なので、長期に及ぶ対陣を嫌い、戦況優位と見たら一気に畳み掛けて攻撃し、その代わり戦況不利と見たら早期に撤退している、これが徹底しているのである。戦略家と言うよりも実際の戦闘における軍事手腕、采配に卓越しているように見えます。 信玄公の戦についても 信玄公の戦は引き分けが多く、「五分の勝ちでよい」という考えであったそうです。孫子には「百戦百勝は善の善なるものにあらず」と書かれています。また第四次川中島のような白兵戦は少なく、常に戦の前に謀略があり、必ず勝てる状況を生み出してから開戦したといいます。「戦わずして勝つ」状況を作り出すことに、信玄公は最も優れていたと思われます。
竹中半兵衛(竹中重治)について 信長公記で確認できるのは、手勢を率いてどこぞの城を攻めたとかいうのがたった三つ。(上月攻め、天正6・5・24の記述、天正7・6・22死亡記事)でした。 彼の活躍が最も記述されているのは甫庵信長記、豊鑑、武功夜話、絵本太閤記の史料となっています。 「三顧の礼」のエピソードも・・・ 栗原山中七度通い(1560年代?) 豊臣秀吉が天才軍略家・竹中半兵衛重治に対し礼を尽くして庵を通った名場面として演目になる。「三国志演義」の翻案として描かれた架空の場面。 出典「絵本太閤記」
シミュレーションの際の参考になると良いのですが^^
|
Re: 閑話休題 ( No.4 ) |
- 日時: 2005/03/10 21:29
- 名前: 微々美々
- 続きです^^
蒲生氏郷について 文武両道に優れた人というのは皆様ご存知だと思いますので・・・それ以外を。 キリシタン大名としても知られ、茶の道でも利休七哲の一人。キリスト教の洗礼を受け、洗礼名を「レオン」といいます。 信長亡き後には妻・冬姫の妹を、養女として引き取って秀吉の側室に送り込み(三ノ丸殿)、さらに自分の妹・とらを秀吉の側室とし(三条殿)、秀吉との関係を強化している。また自らの娘を前田利家の次男・利政の室にするなど、槍働きだけでなく閨閥も大いに利用しています。 伊勢より陸奥会津に92万石の大領を与えられた時、松阪時代の賦秀から氏郷と名乗りを改めていますが、しかし氏郷はこのとき、「たとえ大領であっても、奥羽のような田舎にあっては本望を遂げることなどできぬ。小身であっても、都に近ければこそ天下をうかがうことができるのだ」と激しく嘆いたと「常山記談」には伝えられているそうです。 政治的手腕に優れていたのではないでしょうか。
参考になれば幸いですが・・・^^;
|