Re: 上杉派?武田かのぅ? ( No.1 ) |
- 日時: 2005/03/17 13:21
- 名前: 独眼竜
- 大谷吉継はたしかハンセン病か何かにかかっていたとおもいます。
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Re: 上杉派?武田かのぅ? ( No.2 ) |
- 日時: 2005/03/17 14:22
- 名前: 鈴木家拾壱代
- >上杉派?武田派?
武田の有名なフレーズ?に「人は石垣 人は城」というのを聞いたことがあります。 これは信玄が人材を大切に思っていたからでしょう。 一方、上杉は戦国の世にあって勢力拡大の野望は抱かず、 また、配下の武将が何度も謀反を起こしてもその度に許しています。 というわけで、私としては引き分けという感じでしょうか。
>大谷吉継 彼は義に生き、義に死んだ人ですね。 石田三成との出会いのエピソードがすごいです。 ttp://ww3.tiki.ne.jp/~yang/b3-ootani.htm
>スケート選手 子孫達のスレでも書きましたが、 確かに彼の家は信長の七男にたどりつくようです。 しかしながら途中で養子を入れたり、幕末以降の系図が明らかでないなど、 今は子孫とは明確に言い切れないようです。 選手の周囲の売り込みをマスコミが検証もせずに鵜呑みにしたのでしょうね。 粘着なようで申し訳ない(^^;
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Re: 上杉派?武田かのぅ? ( No.3 ) |
- 日時: 2005/03/17 17:25
- 名前: 静
- 史実にそんっなに詳しくないのでアレですが…
「上杉謙信」か「武田信玄」かではなく 「上杉」か「武田」かであれば絶対上杉です。 謙信の後を継いだ景勝は名将だったらしく、側近の 直江兼続も言わずとしれた名将で、後にかの猛将 前田慶次も彼らに仕えたと言いますから。 天下分け目を乗り切って家を残してますし。 武田の方は言うまでもなく信長に滅ぼされてしまいますから… それにどうも勝頼だけでなく信玄にも自分の死後大丈夫なように ちゃんとしておかなかった責任があるということなので、 いろんな意味で上杉ですかね。
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Re: 上杉派?武田かのぅ? ( No.4 ) |
- 日時: 2005/03/17 21:32
- 名前: 信蘭
- 俺は謙信ですかね。
謙信は城下に間者として忍び込み、虚無僧の格好で尺八を吹いていた蘭丸を見つけたが、それも許してしまうような人ですからねぇ。しかも城下の見学まで許しちゃって。 あと、『謙信は女だった?』と聞いた事があります。全然信じていませんけど、そうなると凄い事になりますよね;;
俺は信長です。ホントに信長は好きなんです。 でも、最近は光秀が嫌いなのも治まってきましたけど。 信長を殺したのが本当は光秀じゃないんじゃないかって思い始めたからです。 代わりに秀吉が嫌いになりました;;
ちょっと無駄話を失礼しました。
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Re: 上杉派?武田かのぅ? ( No.5 ) |
- 日時: 2005/03/17 22:19
- 名前: まぁまぁ
- 自分は両方ですねぇ
武田は勝頼が鉄砲の力を侮っていたから滅亡までになってしまいましたから あと武田で一番好きなのは武田二十四将です 上杉は手取川で戦うことなく柴田軍を撃退して凄いと思いました あと景勝は秀吉の五大老ですし どっちも凄いのですよ
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Re: 上杉派?武田かのぅ? ( No.6 ) |
- 日時: 2005/03/18 23:26
- 名前: 上級槍騎馬
- 両方戦国最強同士ですからねぇ・・・しかしやっぱり武田ですかね。風のように速く動き、林のように静かで、火のように進み、山のように落ち着いている。風林火山、信玄公はやっぱ名将ですね。滅びてしまったことが少し悲しいですがね。上杉謙信はそんなに好きではないんですがやっぱり人格が優れています。同盟者から塩の輸送が途絶えたときに領民当てに塩を送ってますから。
両方凄いですね。この二人が協力していたら凄いことになっていたんでしょうね。
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Re: 上杉派?武田かのぅ? ( No.7 ) |
- 日時: 2005/03/19 02:08
- 名前: 鈴木家拾壱代
- 「敵に塩を送る」補足
もう少し詳しく書くと、 今川氏真と北条氏康が結んで武田領に塩を搬入することを禁止したので 武田の領民が困ったのを見て、上杉謙信が武田の領民に塩を送ったという 話ですね。
ttp://www.m-network.com/sengoku/sen-epku.html
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Re: 上杉派?武田かのぅ? ( No.8 ) |
- 日時: 2005/03/19 19:59
- 名前: 微々美々
- 「敵に塩を送る」さらに補足
川中島古戦場跡を訪れたことがありますが、 そこにある「首塚」にこの逸話が載っていました^^ 実際に確認できるのはこれしかないと思いますが・・・ 合戦後、武田方の海津城主高坂弾正が、激戦場となったここ一帯の戦死者(6千余人)の遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚だそうです。 この処置に感激した上杉謙信は、後年塩不足に悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれ、乱世に咲いた美挙と称えられたといいます。 もちろん、ことわざ「敵に塩を送る」の語源もこれです^^ ちなみに自分も武田・上杉家両方好きですね・・・
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Re: 上杉派?武田かのぅ? ( No.9 ) |
- 日時: 2005/03/23 15:54
- 名前: 単純な忍者
- 僕は武田ですかね。
やっぱり「人は石垣人は城」と言う言葉や 風林火山などが好きです。 勝頼のアホのせいで滅亡してかなしいです。 でも、上杉が嫌いではなく、 やはり、塩が不足していた武田家に塩を送ったのが好きかな〜とおもいます。
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Re: 上杉派?武田かのぅ? ( No.10 ) |
- 日時: 2005/03/23 18:55
- 名前: 八尋
- べつに勝頼はアホではないような・・・・
勝頼は信玄でも落とせなかった城を落としたのですから(落とせなかったではなく落とさなかったのかも)言いたいことはこれだけです
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Re: 上杉派?武田かのぅ? ( No.11 ) |
- 日時: 2005/03/24 00:45
- 名前: 微々美々
- せっかくなので・・・武田勝頼の人物像を。
元の名を諏訪四郎勝頼といいます。 母は、信玄の側室諏訪御料人(諏訪頼重の娘。天文11年(1542)父頼重が信玄に滅ぼされたのち、信玄の側室となる。天文15年勝頼をもうけるが同23年?(1554?)に没。新田次郎さんの小説「武田信玄」では湖衣姫)です。 母が諏訪氏である勝頼は家中から白眼視されている上、諏訪氏は南信濃の豪族で信玄によって滅ぼされた一族。その滅ぼされた家の娘と信玄の間にできたのが勝頼だった訳ですから、そのような生い立ちから彼は「武田に災いを為す不吉な存在」として疎まれていました。信濃の豪族を懐柔するため諏訪姓を名乗っていたことも、不幸であったと思います。所詮は「敵の子ども」である。そんなものを諏訪一族とは誰も認めなかったようです。 単に生い立ちが不幸だったのかも知れないと自分的には思っていますが・・・
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Re: 上杉派?武田かのぅ? ( No.12 ) |
- 日時: 2005/03/24 00:47
- 名前: 微々美々
- 続きです^^;
また、不出来の人物とか”あまりな”評価を受けている勝頼ですが、近年の研究によると、実は有能な人物だったと言われています。 勝頼嫌いの史料として知られる「甲陽軍鑑」ですら、「気が短くなることもなく、騒ぎたてることもない。いかにも静かで奥が深いように見える、利根過ぎたる大将」として勝頼の才能を一応は(笑)認めています。 また、彼の活躍ですが、天正二年(1574)勝頼の進撃には目覚ましいものがありました。東美濃に進撃すれば織田方の支城を一度に18も攻め落とす勢いを見せ、家康の遠江では、信玄でさえも落とせなかった要害・高天神城を攻め落としています。この城ですが、「高天神を制すものは遠江を制す」と言われた戦略上の重要拠点だったそうです。 これを見た信長による勝頼評として、謙信に当てた書状の中に「四郎は若輩に候といえども、信玄掟を守り、表裏たるべくの条、油断の儀なく候」と記しています。 その翌年には、徳川家の家臣である大賀弥四郎に主家の簒奪を働きかけたとも言われ、計画そのものは事前に白日の下にさらされ、弥四郎は極刑に処せられましたが、一般に言われているような猪武者ではなく、勝頼の謀略家としての一面を伝えるエピソードと言えるのでは?
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Re: 上杉派?武田かのぅ? ( No.13 ) |
- 日時: 2005/03/24 00:49
- 名前: 微々美々
- 最後です(本当に長々すみません)
武田家の滅亡の原因が勝頼であると思われがちですが・・・ 武田氏が滅んだのは”勝頼の無能のせい”ではありません。むしろ、内部崩壊というのがぴったりで、穴山梅雪、木曾義昌といった武田家の親戚筋に当たる武将まで悉く信長の調略を受けて寝返ったことこそ原因かと。 所領にしても、勝頼が獲得した石高は10万〜20万石。武田家の元の石高で130万石。ちなみに信長の所領の石高はこの2倍以上は優にあったといいます。 つまり、このときの状況が勝頼にとって不利であったことも原因のひとつではないでしょうか。 (周囲を北条・徳川に囲まれていたこともありますが)
余談で、ゲームで聞ける勝頼の台詞に逸話があるので紹介も^^ 勝頼は長篠合戦の軍議が平行線の袋小路に迷い込んだ時、決戦にのぞむ決断を下しました。そして「御旗楯無、ご照覧あれ」の言葉を口にしたという逸話があります。 御旗は平安の頃から伝えられる源氏の白旗で武田家の家宝である。楯無の鎧もまた、重代の家宝だった。この二つの前で誓った言葉は決して覆せないと言うのが、武田家の不文律であったといいます。 「御旗楯無、ご照覧あれ」の台詞ですが・・・ 甲斐平定戦で勝頼に接近すると聞くことができます。 楯無の鎧は装備品として入手可能ですし^^;
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