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やぁ!ボク仙石秀久
日時: 2005/03/25 18:02
名前: 仙石秀久

 今日は、僕、現在ヤングマガジンで好評連載中の「センゴク」の主人公仙石権兵衛秀久と申します。
 こちら、決戦Vでも活躍中の可児才蔵君も出ています。舎弟分の坂井九蔵や、好敵手である堀久太
郎ともいろいろ人間関係が密になってきて、楽しくなってきましたよ。
 ちなみに、今姉川の合戦まっただ中。是非、覗いてみてね。

 ところで質問なんだけど、マイナーランクのかなり高い僕たちなんだけど、何方か親切な方、僕たちの
人となりを教えてくれませんか?

 教えて欲しいのはこの3人
 @は私、仙石秀久
 Aは好敵手、堀久太郎
 Bは舎弟の、坂井九蔵

 では、何方か親切な方、ご教授のほどよろしくお願いします。

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Re: やぁ!ボク仙石秀久 ( No.1 )
日時: 2005/03/25 21:19
名前: 微々美々

一応、自分の知っている史実を載せておきますね。
仙石秀久
織田信長の命で羽柴秀吉の家臣に。また秀久自身は戦目付という立場にありながら真っ先に逃げた(結果として十河存保や元親の子信親らを戦死させることに)為、秀吉の怒りを買い、所領を没収され高野山に謹慎の身となったと言います。
当時の資料としては・・・
秀吉による九州島津攻めの先発隊として出陣中の秀久に宛てた秀吉の令書。
「改選仙石家譜」によると、豊後(大分県)の大友義統より救援を求められた秀吉は、秀久と長曽我部元親とに先陣を命ずる。そこで秀久は三千余の兵を率いて、9月12日豊後の府内に着陣している。この書状は、そのおりの秀久よりの注進に対する秀吉の指令書である。
 その第4項では、毛利(輝元)吉川(元春)小早川(隆景)その外の中国筋の軍勢が門司に在陣していれば、島津は薩摩へ帰るわけにもいかず、くたびれはてて困るだろう。そこへ段々人数を派遣し、そのうえで秀吉自ら出馬すれば、「悪逆人」(島津)は「ひとりころび」をするだろう。手間も入らず、一人も残さず首を刎〔は〕ねることができると、いかにも秀吉らしいものの言い方をしている。
 この後の秀吉の令書にも繰り返し、豊後の陣地を固めることだけに専心し、上方よりの本軍の到着を待つように、としている。
 しかしそれにもかかわらず、島津軍の挑発にのってしまった秀久は、この年12月その大軍と戦い、大敗を喫してしまうのである。そして秀久は秀吉の怒りをかい、讃岐(香川県)高松を没収され一浪人となってしまう。
 なお秀久は初め権兵衛と称し、また姓についても、初めはこのように「千石」としたものが多い。慶長初年以降は、ほぼ「仙石」に統一されている。

その後小田原の役の時に徳川家康を頼って参陣、甲冑に鈴をつけて走り回るというパフォーマンスにより秀吉の許しを得、信濃小諸城5万石となり、名誉を回復した。
しかし、1600年の関ヶ原の戦いにおいては、徳川秀忠率いる中山道軍に加わったが、上田城攻撃を進言し、秀忠もこれに乗ってしまったので結果的に関ヶ原の本戦に間に合わなかった原因を作ってしまいました。
ゲームとの関連
ちなみに有名な盗賊”石川五右衛門”を捕まえたのは秀久だとも言われています。
Re: やぁ!ボク仙石秀久 ( No.2 )
日時: 2005/03/25 21:23
名前: 微々美々

堀久太郎(秀政)
「堀秀政」の方が名前としては知られているのでは?
永禄八年(1565)頃、信長に仕える。当時は小姓として仕えたと思われます。
また、「織田信長公三十六功臣」によれば、秀政が信長に仕えたのは木下藤吉郎のおかげだとか。
「寛政家譜」によれば、当初信長の家臣大津伝十郎に仕えていたがここを去り、藤吉郎の元へ世話になっている時、信長に認められ直臣になったと記されています。
戦歴としては、小谷攻め、雑賀攻め、有岡城攻め、伊賀攻め等数々の戦場にも赴いたとか。
ゲームとの関連
ゲームで登場する、「鬼武者」明智左馬之助秀満に関わるエピソードがあります^^
秀政は山崎の戦いの後、坂本城へ向かう明智秀満を追撃しますが、この時に明智秀満の有名な湖上渡の逸話が生まれました。(秀政の軍に追われた明智秀満が単騎、琵琶湖の湖水を馬で渡って逃げ切った
というものです。石碑も残っていますが、本当はどうだったのでしょうか?)
他には・・・
小牧・長久手の古戦場跡に行ったことがありますが、そこでこんなものを見つけました^^
堀久太郎秀政本陣地跡
桧ヶ根に陣を張り、徳川勢を打ち破った堀秀政。本陣地跡の石碑は、現在桧ヶ根公園内に移されています。
三好秀次の軍を破って追撃してきた、徳川方榊原康政・大須賀康高の軍を迎え討ち、この桧ヶ根(ひのきがね)の戦いが局地戦で唯一の秀吉側の勝利だったそうです。
Re: やぁ!ボク仙石秀久 ( No.3 )
日時: 2005/03/25 21:28
名前: 微々美々

坂井久蔵
信長の小姓の一人。
久蔵は観音寺・箕作・和田山攻めにも従軍、戦功を立てたそうです。
美童と言われ信長の寵愛をも受けていたとか。
しかし・・・元亀元年(1570)六月、姉川の戦いで戦死。
この時久蔵は父政尚と共に参戦、政尚の隊は第一陣。兵力約三千。この政尚の陣に浅井先鋒磯野員昌が襲いかかり、政尚は防ぎきれず後退します。
ですが、久蔵は退かず奮戦しますが、(誰の手によるものか記録は見あたらず)戦死してしまいます。
享年十六歳でした。
若年ながらも屈強の勇士であり、美形でもあったので、皆、彼の死を惜しんだそうです。戦が終わった後、彼の戦死した場所の土を持って帰るものが多く、皆それに続いた為、そこに大きな穴が開けられてしまった逸話があります^^
ゲームとの関連・・・姉川の戦い?(こじつけでしょうか^^)・信長(蘭丸、利家との関係に似ている?)
長文で大変失礼いたしました。
Re: やぁ!ボク仙石秀久 ( No.4 )
日時: 2005/03/26 00:25
名前: 微々美々

>信長(蘭丸、利家との関係に似ている?)
↑の部分だけ補足させてください。

信長の寵愛した小姓として有名なのは、「森蘭丸」というのは大半の方がご存知だと思いますが・・・
実は・・・
「亜相公御夜話」という加賀藩の資料によると、
若き日の信長の寵愛した小姓に「前田利家」がいたからです^^
※ただし、ここで載せるのは「武人」としてのエピソードではありません。
信長が安土城完成パーティを開いた時に末席にいた利家に対して「そなたはワシの秘蔵っ子であったな」「若い頃はよく側に寝かせたものだ」と声をかけ周りの武将を羨ましがらせたという内容が記されています。(利家ファンの方には非常に心苦しい内容なのですが)

・・・この史料を見た時は、正直驚きましたし、爆笑してしまいました。
Re: やぁ!ボク仙石秀久 ( No.5 )
日時: 2006/03/25 01:07
名前: 佐々木小次郎

こんにちわ!信長は本能寺の変で自害と本に書いてあるんですが、それを見た人も死体も発見されてませんよね。なんか、こういう資料を見たりすると歴史って深いですね
Re: やぁ!ボク仙石秀 ( No.6 )
日時: 2006/05/13 23:57
名前: 金柑ヘッド

ヤングマガジンの「センゴク」おもしろいよね!俺には刺激が強すぎる!

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