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策士真田
日時: 2005/04/08 17:38
名前: 戦国マニア

真田昌幸について、教えてください。

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Re: 策士真田 ( No.1 )
日時: 2005/04/08 22:05
名前: 精鋭槍騎馬

1547年
真田幸隆の三男として生まれその8月に晴信が佐久郡志賀城を落とす。
幸隆、武田方に加勢。戦乱のまさになかですね。
天文19年 (1550年)昌幸が4歳の時に晴信が幸隆らと共に村上義清の戸石城を攻める。そして数ヶ月で落ちる。
弘治1年 (1555年)昌幸9歳の時には川中島の戦い、第2ラウンドが発生。4ヶ月ぐらいで両者撤退。そしてその数年後。元服をとっくに終えたはずの昌幸は三方ヶ原の戦で織田の援軍を破る。その数年後(天正9年 (1581年)昌幸36歳の時)には、甲斐新府城の普請奉行を務める。天正10年には武田家が滅亡。真田家は織田信長に臣属。
あんまり細かくないですがあきらかに凄い策士みたいです。徳川家康殿の息子の軍を足止めして関が原の戦いに遅れさせたりしています。のちほど書きます。天正13年には秀吉に臣従しています。天正18年の小田原城を包囲しに昌幸、信幸、幸村、前田利家、上杉景勝とともに小田原城攻めに参戦。慶長5年 (1600年)昌幸55歳の時、秀忠軍が昌幸、幸村の篭る上田城を攻めて策にハマリ敗れる。そして関が原ら遅れてしまう。西軍が敗れると重い罰を受けたようです。領地没収など。
そのあとに色々あり。慶長16年には病死。昌幸は66歳でした。このあとに大阪城を徳川軍を包囲して最後には塀を埋められてしまい、打って出て死ぬしかなくなり、その時に息子?の幸村は敵本陣へ突入しましたが逃げられてしまい、ある寺で首をたまたま見つけた名あり武士にあげたとのと。真田家は徳川側についた人達がいたので滅びませんでした。 細かく書いてないです。

Re: 策士真田 ( No.2 )
日時: 2005/04/09 12:54
名前: 微々美々

便乗してみました^^
史実については精鋭槍騎馬さんが詳しく書かれていますので、それ以外について。
まずは、策士「真田昌幸」の異名から。
「表裏比興の者」
昌幸が従属先を上杉・北条・徳川・豊臣と乗換え三昧?だった事から。

信玄公いわく、「我が両眼の如き者」
武田信玄が伊豆で北条氏政の軍と対陣した際に、馬場信房の敵情視察の進言に対し、「すでに、「我が両眼の如き者」を物見に出してある」と言ったとか。この時物見に出ていた武藤喜兵衛こそ、後の真田昌幸のことでした。

息子の奥方も策士?
戦国無双猛将伝・決戦3に登場する「稲姫」こと「小松殿」のことです。
夫の信幸が徳川秀忠軍に従い、上田城攻めに掛かった時の事です。父と兄が敵であり、さぞかし肩身の狭い思いをしているだろうと案じた小松殿は「ひょっとしたら、上田城に籠城している者たちの親類縁者がどのような行動をおこすともかぎらない」と思い、家臣たちに秘計を授け、諸士の老母・女房・子供たちをなぐさめるためと触れさせて、城へ招き入れてしまいます。不安だった上田城の家族は喜びました。小松殿は女性や子供を終日饗応し、こうして、上田籠城衆の人質を、小松殿は一手に握ってしまったのです。「関原軍記大成」に記述のある、「真田信幸の妻の奇計」と言われています。
実は「キツイ」一面もあったようですが・・・

「大蓮院伝御事蹟稿」によると、息子二人が無事に戦場から城へ帰陣するごとに「兄と弟、二人いるのだからどちらか討死して忠節を尽せばよいものを」
と言ったそうです。
・・・キツイ「一言」ですね^^;
Re: 策士真田 ( No.3 )
日時: 2005/04/09 20:48
名前: 戦国マニア

ありがとうございます!真田昌幸は個人的に好きな武将の一人なので・・・。信之の奥方の稲姫の事もとても
参考になりました。息子に討死して忠節を尽くせだなんて、すごいこといいますね

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