Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.21 ) |
- 日時: 2005/04/24 01:05
- 名前: 微々美々
- 続きです^^
信長と帰蝶、光秀の”因縁”の始まり? 1540年に、三河だけでなく美濃へも進攻していますが、美濃では守護の土岐氏は斉藤道三に追われ、土岐盛頼は越前の朝倉氏へ、土岐頼芸(ときよりなり)は尾張の信秀の許へ逃れました。 天文13年(1544)に信秀は朝倉氏と同盟を結び、斉藤道三を挟撃する作戦に出るも、信秀・朝倉軍は敗れました。天文16年にも信秀は美濃の道三を攻略したが大敗を喫しています。 しかも、この年三河の岡崎城攻めにも失敗しており、2カ国と同時に戦うのは分が悪いと思っている矢先に、道三から和睦の話が来た訳です。 道三も又、信秀と戦う事を避けたからです。信秀を恐れたわけでなく、土岐頼芸を擁した信秀と戦うと美濃の領国支配が安定しない事を危惧した事が理由だとか。 そして翌年の秋、信秀が土岐頼芸を手放し、道三の娘・濃姫が信長に嫁ぐことで、信秀と道三の和睦は結ばれました。
決戦3では・・・ ”吉乃は見た! わが君、信長様と恋敵・帰蝶、そして(吉乃的には)どーでもイイ人・光秀の愛の3角関係(ほとんど光秀の横恋慕^^;)”が始まってしまうわけですが・・・。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.22 ) |
- 日時: 2005/04/24 01:08
- 名前: 微々美々
- 続きです^^
信秀の死後、信長が位牌に灰を投げつけた訳は? ほとんど推測になりますが、 信秀の限界は、「一族の序列を突き破れなかった」一点ではないかと、自分的には思っています。 信定の家督は信康に譲られますが、その弟である信光・信次・信秀がそれぞれ分家として居城を持ち、事実上の分割相続をしたようです。譜代の家臣団を持たない織田氏にとって、一族しか信頼できなかったのか、一族で城を持ち合ったようです。その結果、一族としての纏まりを維持できませんでした。信秀の場合も、庶子・信広に居城を与えていた記録(三河安城城主)がありますし、嫡子・信長、信行(学説では、信勝が正しいようです)にもそれぞれ居城を与えています。家風というのか、悪しき慣例です。 彼が本気で織田一族の一本化に乗り出していたなら、それは可能であったでしょうし、 朝倉氏と同様に、尾張一国を横領することも難しくなかったと思われます。その歯痒さを、信長が痛感していたのではないかと思われます。彼の革命的な思想は、信秀の生き方の裏返しであったと考えています。
実は子宝に恵まれていた? 本当です。信長の兄弟はほとんどが女性でした。 姉 犬山殿 くらの方 妹 お市(有名ですね) お犬(女性なのに・・・ひ、ひどい^^;) 織田信直室 異母姉妹(側室より) 織田信成室 神保氏張・稲葉貞通室(一度離縁経験アリ) 飯尾尚清室 牧信清室 津田元秀室 遠山勘太郎友勝室 ですね・・・ 「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.23 ) |
- 日時: 2005/04/24 10:12
- 名前: 丸目蔵人
- 史実では、吉乃がゲーム内のイメージと違って信長より年上で、信長に恋い慕われていたと聞きました。これって本当なのですか?
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.24 ) |
- 日時: 2005/04/24 16:47
- 名前: 微々美々
- 「吉乃がゲーム内のイメージと違って信長より年上で、信長に恋い慕われていた」か?について回答させて頂きますね・・・。
ご質問の通りです。本当の話で、史料にも残っています。 年齢は信長より4歳年上でした。また、信長の最も寵愛した女性でもありました。
以前、「決戦3登場の女武将の史実?」と言うスレに吉乃の事を載せた事があるので、再度こちらにも載せておきますね^^ ※アマリアを除く6人の女武将の史実についても知る限りの史実を載せてありますので、もしよろしければ参考にしてみて下さい^^;
吉乃 別名を芳野、生駒夫人、生駒久昌庵とも 1566(永禄9)年,39歳で没。没年齢に諸説あって定かではない。なお「吉野」とする文献もあることから,読みは「よしの」とする説もある。また,「吉乃」の名は信長の幼名「吉法師」からとったともいわれ,信長の愛妾が代々その名を継いだという説もある。 信長より4才ほど年長でした。嫡子である信忠(奇妙)・信雄・五徳を生み、「御台」と称され正室格の扱いを受けたようです。 信長には24人の子がいましたが、「織田」の姓を名乗らせているのは、吉乃の産んだ”信忠と信雄”の二人だけです。 小牧城において39才で病死。生駒家の菩提寺・龍徳寺(後に九昌寺)に葬られました。 武功夜話の公開がされるまで、彼女の詳細は不明であったとか。
参考までに、吉乃が信長の子供を産んだ時の史料も^^
吉乃様が男子をお誕生遊ばされし時、弘治元(1555)年正月、一陽来復雲球殿(生駒屋敷)扶養の浪人衆、親類縁者の家人、召使いの下男下女、さては若党小者に至るまで無礼講のお触れに付、馬場前の溜まり場に夜の更け行くを忘れて、”乱舞の狂態、さてもめでたきと信長様が明け方まで歌い踊られた”子細を話された。 だったとか。 かなり嬉しかったようですね・・・。 とは言え、信長も公式の場では、「正室」である帰蝶を立てていました。 決戦3では「堺攻略戦」の軍議前に入るムービーが該当します。(史料にも残っている話です)
「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.25 ) |
- 日時: 2005/04/24 17:48
- 名前: 丸目蔵人
- 微々美々さん、ありがとうございました。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.26 ) |
- 日時: 2005/04/24 18:40
- 名前: ブー
- 森可成はゲームみたいに死んだんですか
教えてください
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.27 ) |
- 日時: 2005/04/24 19:36
- 名前: 微々美々
- 「森可成はゲームみたいに死んだ」のか?について回答させて頂きますね・・・。
浅井長政との”一騎打ち”は・・・ありませんでした。 また、近江坂本の戦いにおいて、斉藤龍興の参戦も、同様に記録としては残っていません。 ゲームとしての”演出”かも知れないですね・・・(残念)
史料として残っているその時の状況はこんな感じでした・・・。 元亀元年(1570)の浅井離反により、近江南に浅井朝倉連合の防衛線として、柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、中川重政、木下秀吉ら層々たる城主たちとともに、5月近江宇佐山城主となった時の事です。琵琶湖南端の宇佐山城は湖西から上洛するためには、重要な拠点でした。城主任命直後の6月、姉川の戦いがあり、織田徳川連合軍は辛くも浅井朝倉連合軍に勝利します。しかし、浅井の勢力はいまだ健在であったため、可成は引き続き最前線である宇佐山城主に居座り防衛を続けました。 その後・・・ 姉川の戦いから間を置かず、9月、本願寺決起により織田軍のほとんどが摂津方面で足止めされている隙を見て、3万という浅井朝倉連合軍が南下、宇佐山に押し寄せます。9月16日、可成は兵6千を率い出陣、坂本における「足軽合戦」で数で勝る浅井朝倉連合軍を追い返します。信長の弟信治が救援に来ますが、なおも劣勢のままで20日、敵軍再度の攻撃に、可成はひるまず奮戦しますが、遂に力尽き討死しました。 こんな感じの戦いだったそうですよ・・・。 ちなみに・・・ 桶狭間での合戦では、信長に馬に乗ったまま坂を駆け下り敵本陣に突入し、敵を混乱させることを進言した人でもあります^^ 「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.28 ) |
- 日時: 2005/04/24 19:51
- 名前: 戦国マニア
- 人物史なら任せて下さい!
森可成 大永3年(1523)生 天正十年(1570)没 通称三左衛門。越後守の子で、美濃に生まれました。はじめ斎藤氏に仕えていましたが、のちに織田信長に仕えます。(時期は定かではありませんが)彼の活躍が初めて「信長公記」に表れたのは弘治二年(1556)四月二十日、美濃長良川畔における斎藤道三父子の合戦です。この時、信長は道三方に味方しましたが敗退。可成も負傷してしまいます。以後、同年八月織田信勝(信行:信長の弟)攻め、永禄十一年(1568)九月の近江六角氏攻め、同十二年八月の伊勢北畠攻め等に参加。 永禄八年、美濃金山城を、元亀元年には近江の宇佐山城を預けられ、近江攻略の先鋒として活躍しました。しかし同年九月、姉川合戦後のまき返しを計った浅井朝倉連合軍三万を、わずか六百の兵の手勢で迎え撃って、奮戦して討死を遂げました。享年四十八歳。子に長可、蘭丸がいます。つまり・・・・・浅井長政と一騎討ちはしていませんが浅井朝倉と戦って御臨終となってしまったのは確かなようです。。。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.29 ) |
- 日時: 2005/04/24 20:53
- 名前: ブー
- 遅れました
微々美々さん戦国マニアさん ありがとうございました
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.30 ) |
- 日時: 2005/04/25 21:03
- 名前: ブー
- 第六天魔王のいみお教えてください
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.31 ) |
- 日時: 2005/04/25 21:12
- 名前: 鉄砲五段
- 御挨拶が送れて申し訳ございません。微々美々さん、ありがとうございました。
成る程、信長が灰を投げつけたのもそう考えると一理ありますね。
また質問が出来てしまったので、よろしいでしょうか。
質問:忍術を使う時の「臨兵闘者階陣列在前」(何故は字は知ってる)とは何ですか?
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.32 ) |
- 日時: 2005/04/25 22:49
- 名前: 微々美々
- 決戦3の織田信長のイメージとは全く違いますが・・・
織田信長の異名「第六天魔王」について回答させて頂きますね。
第六天魔王 又の名を第六天悪魔王とも、あるいは仏教では他化自在天とも。 神楽演目「八幡」の中で、「おお我は是、中天竺他化自在天の主、第六天悪魔王とは我が事なり」と名乗り、宇佐八幡宮に祀られる八幡神に、神通の弓と方便の矢をもって退治される悪鬼として登場しています。 この第六天魔王は、元来はヒンドゥー教シヴァ派の主神でもありました。 それが仏教に取り入れられて第六天魔王となったとされ、天道(界)の一つである他化自在天(第六天)を支配するとしています。
記録はあるの? 信長はかつて、信玄からの手紙の「天台座主沙門信玄」という署名に対抗して自分のことを「第六天魔王信長」と名乗ったそうです。 イエズス会宣教師の手紙にも残っています。
仏教では「悪」だけど? 「他化自在天」は、他人の楽しみを自由自在に自己の楽しみとして受用することができる天だとか。 つまり人の楽しみを自分のものにすることが出来る世界だそうです。 五世紀の半ばのインドの世親の著といわれる「倶舎論」によれば、この第六天では、出生に性交といった煩わしい手順を必要とせず、ただ、お互いに見合わすだけで無上の快楽が得られ、子供が生まれるとしています。 欲しいものは思っただけで手に入れることができ、この世界に住む天人は、労働という苦役から解放され、寿命は、人間に換算すると九十二億二千百三十歳といわれ、ほぼ人間が望みうる最高の快楽が自在に得られる世界としています。 この他化自在天こそが「第六天魔王」です。この神は、通常「魔王」と呼称されますが、神楽では「悪」が冠せられ「悪魔王」と呼称されます。 仏教では、仏道を妨げる悪神は総称して「悪魔」と呼ばれることから、このような呼称になったものと思われます。 ちなみに真言宗では「般若理趣経」が該当し、これは欲界(愛欲の世界)の頂上である他化自在天において説かれた、と書かれています。本文は「(般若波羅蜜多では)性の欲望も清浄である」という言葉で始まります。 ただし、”エッチ”な意味ではありません。自分の欲望を第一としているのではなく、「お寺に祈願にくる人の願いも享受する」というのが本当の解釈なので悪しからず。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.33 ) |
- 日時: 2005/04/26 00:42
- 名前: 微々美々
- 続きです^^
本当はいい神様?悪い神様? ある神様がある信仰においては良い神様、別の信仰では悪い神様と言うのは、世界各地に良く見られる話です。 なので、自分の立ち位置(信仰するもの)によってどちらにも取れるのではないでしょうか。
有名大名の自称も載せておきますね^^ 武田信玄の自称「天台座主沙門」でした。ちなみに、上杉謙信は自称「毘沙門天の化身」。 また、豊臣秀吉は公家として関白・太閤となり、諡号は豊国大明神ですし、徳川家康は武家として将軍・大御所となり、諡号は安国院・東照大権現となっています。
最後に自分としては・・・ ”第六天魔王”のイメージは「戦国無双」の信長のほうが「ハマリすぎ」な感じがしますが・・・ 「ふふふ・・・ 無価値。」「是非もなし」ですかね・・・^^; それにどう見ても、”ビームサーベル”としか思えない刀を持ってますし(苦笑)
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.34 ) |
- 日時: 2005/04/26 01:22
- 名前: 微々美々
- どこか”カッコイイ”響きのある、「臨兵闘者階陣列在前」について
回答させて頂きますね・・・。
そもそも「九字法」といわれるものです。 ちなみにご質問で頂いた表記は「忍者」が用いたもので、一種の精神統一法だったとか。
実はいくつも種類がある? 本当です。
元の話は「臨兵闘者皆陣裂在前」で意味は”臨める兵、闘う者、皆 陣裂きて、前に在り” だそうです。 これが真言宗になると・・・ 「臨兵闘者皆陣烈在前」で意味は”臨める兵、闘う者、皆 陣烈(やぶ)れて、前に在り” になり、 天台宗では・・・ 「臨兵闘者皆陣列前行」で意味は”臨める兵、闘う者、皆 陣列(つら)ねて、前を行く” になります。 他には・・・ 方位の守護の九字として 「青龍(せいりゅう)・白虎(びゃっこ)・朱雀(すざく)・玄武(げんぶ)・空陳(くうちん)・南斗(なんじゅ)・北斗(ほくと)・三台(さんたい)・玉女(ぎょくにょ)」 と唱える事もあります。
九字を唱える時の印の意味は? 修験道では・・・ 毘沙門天、十一面観音、如意輪観音、不動明王、愛染明王、正観音、阿弥陀如来、弥勒菩薩、文殊菩薩などを本地仏として配当する説があります。 真言宗などでは・・・ 普賢三昧耶・大金剛輪・外獅子・内獅子・外縛・内縛・智拳・日輪・穏形 の意味を持っています。 陰陽道では・・・ 方位の守護神を意味しています。 各々の印の持つ意味を正しく理解しないと、全く意味が無いそうですが・・・トホホ^^; 理解すると、マンガ「孔雀王」とか、映画「陰陽師」のような事が出来たのでしょうね・・・。
何で九? 九は陰陽道で言うところの”最も極まった数”であり、九天、九地など、九の意味するところは「最大」であり、修験道・兵法では「最強」を意味しています。
それではその由来は? 九字は四世紀の中国の「抱朴子(ほうぼくし)」という仙道書 に「九字を唱えて魔を避けること」が記載されていることから由来しています。 当時の兵法家もこの「九字」を用いました。
九字を切ることの意味は? ”聖なる仏たちの軍団が来ている”から諦めて退くように悪鬼に対して勧告する、という意味があります。 このぐらいですね・・・。 「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.35 ) |
- 日時: 2005/04/26 01:24
- 名前: 微々美々
- もう少しだけ「九字」について追加しておきますね(資料の整理中に見つけたので)・・・
ほとんど余談ですが^^;
神道にも九字はありますが、各文字に対してこのような神様を当てていたとか。 「臨」には天照皇大神(あまてらすおおみかみ) 「兵」には正八幡神(しょうはちまんしん) 「闘」には春日大明神(かすがだいみょうじん) 「者」には加茂大明神(かもだいみょうじん) 「皆」には稲荷大明神(いなりだいみょうじん) 「陳」には住吉大明神(すみよしだいみょうじん) 「列」には丹生大明神(にうだいみょうじん) 「在」には日天子(にってんし) 「前」には摩利支天(まりしてん) です。
歌舞伎の「勧進帳」の中の一場面、富樫と弁慶の問答の中にも九字の真言が登場しています。 「それ九字の真言といつぱ、所謂、臨兵闘者皆陣列在前の九字なり。 将に切らんとなす時は、ただしく立って歯を叩くこと三十六度、先づ右の大指を以って四縦を描き、後に五横を書く。 その時、急々如律令と呪する時は、あらゆる五陰鬼、煩悩鬼、まった悪魔外道死霊生霊、立ちどころに亡ぶること、霜に熱湯を注ぐが如し。 武門にとって呪を切らば、”敵に勝つ”こと疑いなし。」 だそうですよ・・・。 「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.36 ) |
- 日時: 2005/04/26 19:14
- 名前: 丸目蔵人
- 日本の戦国大名たちと中国の諸子百家との密接な関係があったら教えてください。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.37 ) |
- 日時: 2005/04/26 21:19
- 名前: ブー
- 微々美々さんありがとうございます
つぎは風魔小太郎について教えてください
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.38 ) |
- 日時: 2005/04/26 22:37
- 名前: 戦国マニア
- 人物史なら・・・
風魔小太郎 風摩、風間ともいい、相模国足柄山を根城とする乱波。 風魔衆の頭領。頭領は代々、小太郎を襲名し、北条早雲の時代から後北条五代に仕えた。「北条五代記」という書物には「長七尺二寸、手足の筋骨あらあら敷、眼はさかさまに裂け、黒髪にて、口脇両へ広く裂け、きば四つ外に出たり。鼻高し。声を高くだせば五十町聞え」とある。1590年、豊臣秀吉によって北条家が滅ぼされると、風魔一族は江戸に出て盗賊となり、略奪の限りを尽くした。その為、特別警備隊が編成され、大判10枚の懸賞金をかけられた。対立していた甲州透波の残党・高坂甚内に隠れ家を密告され、1603年に処刑されたという。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.39 ) |
- 日時: 2005/04/27 12:52
- 名前: 微々美々
- 回答が遅くなりまして本当に申し訳ないのですが・・・
諸子百家と戦国武将の関連性について回答させて頂きますね・・・。 主だった武将のほとんどが「兵法」つまり「兵家」の流れを汲む軍学を行動原理としていたので、 これを決戦3に当てはめると、「武田信玄」「吉乃(観天望気の達人という設定なので)」 「太原雪斎」「上杉謙信」が該当します。
一番有名なものを例として載せておきますね・・・
「風林火山」と「七計」 「風林火山」はご存知、武田信玄公の旗で有名です。 ちなみに旗の内容は言わずもがなですが・・・ これは戦術面を指したものとされています。
ちなみに戦略面は「七計」の部分で、 一、君主はどちらが善政をしいているか ニ、将帥はどちらが有能か 三、天の時と地の利はどちらが有利か 四、法令はどちらが徹底しているか 五、軍隊はどちらが精強であるか 六、兵卒はどちらが訓練されているか 七、賞罰はどちらが公正に行われているか の部分を決戦3の「三河・軍議前」のムービーで紹介しています。 「主、いずれか有能なる?」 「武田!」 のアレですね・・・^^ これは敵対戦力と自軍戦力の比較です。 本当はこの台詞の前に5つの条件を満たす事が肝要とされています。 「道」とは、戦う大義名分である。これがなければ将兵は動かない。 「天」とは、季節、時刻、天候などの時間的条件である。 「地」とは、地の利、地形的条件である。 「将」とは、軍を率いる将帥の器量である。 「法」とは、軍の編成、人事、補給など軍制に関する問題である。 を挙げています。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.40 ) |
- 日時: 2005/04/27 12:57
- 名前: 微々美々
- 続きです^^;
諸子百家に関連が深い職業といえば、「軍師」になる訳ですが、 意外にもその由来は古いものです。 日本列島に軍師が出現したのは7世紀、白鳳時代のことでした。 朝鮮半島で戦乱が続き、百済・高句麗が滅ぼされる中、多くの百済人・高句麗人が日本列島に亡命してきました。 この中には知識人も含まれており、中国伝来の兵法を学んだ軍師も含まれていたそうです。 百済の滅亡後、谷那晋首、木素貴子、憶礼福留、答ほん春初などの百済人軍師が渡来し、大和朝廷の人々に兵法を伝えたとか。 日本人では、吉備真備が最初の軍師だそうですよ・・・。 また、吉備真備は、陰陽道の先駆者でもありました。 観天望気自体、陰陽道に関連するものでもあるので、 兵法と陰陽道とは、密接不可分の関係にあるのも納得できます。
観天望気のお仕事 出陣の日時・方位を占う 出陣の儀式、凱旋の儀式、首実検 武経七書の兵法を実戦に応用 方位・地相を踏まえて築城 ということもしていました。 ”気象予報士の仕事”だけではなかったようですよ^^ ちなみに武田信玄公の軍にも、観天望気の達人がきちんと存在しています。 駒井高白斎と言う人物です。 山本勘介ばかりが軍師ではなかった訳です。 ちなみに「ヤマカン」の語源は山本勘介である、というのはあまり知られていません^^;
自分の知っているものはコレぐらいですね・・・。 まとまりのない文で申し訳ないのですが^^;
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