ごく私的解釈ですが... ( No.1 ) |
- 日時: 2005/08/09 13:47
- 名前: 作左ェ門
- 信長と帰蝶ことお濃の方に子はありません。
嫡子(長男)は妾に産ませた子供の信忠。 しかし信忠は本能寺で信長と共に死にます。この時すでに織田家当主は信忠でした。(信長は御隠居ということ)
さて話はもどって、
信長の妹お市は浅井家の後に柴田勝家に嫁します。 長政との間のつれ子の三姉妹と一緒にです。 秀吉はお市に岡惚れしています。 本能寺後、秀吉こと筑前守は鮮やかな手腕で織田家中の実力ナンバーワンになります。
越前の柴田権六はこれに従わず、反目します。 当然織田家の主筋にあたる織田(神戸)信孝を後押ししてです。 秀吉は寝返った前田利家らと共に柴田を討ちますが、北の庄城で勝家とお市は自害してしまいます。 しかし三姉妹は(前田利家によって?)救出されます。 後に太閤(朝廷のエライ役職)となった秀吉はこの次女に手を出します。 この時の子供とされるのが「お拾い」こと豊臣秀頼です。 (後の関白にして大阪城主)
その後太閤秀吉の病没によって、お市の方の次女の茶々姫こと淀君が「お拾い」の後見役状態になります。 淀君は才気煥発で何事にも口出しします。 しかし所詮はお金持ちの偉い人でしかないので、不満分子も出て来ます。 豊臣家中実力ナンバーワンの実力をすでに築き上げていた、徳川内府がこれをまとめて紆余曲折。 ついに徳川幕府開闢となるのです。わかるかしら?
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Re: 信長の子ではなくなぜ秀吉なんですか? ( No.2 ) |
- 日時: 2005/08/09 15:15
- 名前: 亀
- 作左ェ門ありがとうです。
すごくよく解りました。
私の考えはもしかしたらひねくれているかも知れませんが、秀吉って光秀と同じくらい卑怯じゃないですか? 寝首をかいた光秀も許せませんが、信長に大恩がありながら、恩を仇で返すなんて酷すぎませんか? 信長の領地を自分のものにしたばかりでなく、お市の娘にまで手を出すなんて。 家臣として、この行為は許されるでしょうか? 本能寺の変で一番おいしい思いをしたのは秀吉ですか? 更なる疑問で恐縮ではありますが、
1.信長には子供は一人だけではないですよね? 彼らこそ正当な信長の後継者ではないでしょうか?その彼らを差し置いて秀吉は半ば強引に主君になったのですか? 信長の子供達のその後の人生はどうなったのでしょうか? 秀吉に殺されたのか、家臣になったのか。
2.秀吉が天下どりをしている最中、家康は何をしていたのでしょうか? 秀吉と家康の関係は良好だったのでしょうか? 家康はただただ、指をくわえて秀吉が天下統一するのを見てたんですか? 豊臣政権時の家康はなにをしてたのでしょうか? 秀吉は家康の事をどう思っていたのかも気になります。ライバル視していたのか、眼中になかったのかなど。
3.家康が天下とりをはじめた動機って豊臣政権の奪還だけなんでしょうか? 恨みとか信長への報復とかそういうのって考えられないでしょうか?
4.話がずれて申し訳ないんですが、秀吉は朝鮮半島に出兵しますよね? なぜ朝鮮に出兵したんですか? 朝鮮が日本に攻め入る気配でもあったんですか? しかもこの戦費のせいで豊臣政権はかなり財政が苦しくなったと聴きますが。
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Re: 信長の子ではなくなぜ秀吉なんですか? ( No.3 ) |
- 日時: 2005/08/10 13:07
- 名前: 島津日新斎
- 割り込んですいません。発売当初からたまに覗いてましたが書き込むのは初めてです。知識不足ながら回答させていただきます。
1について・・・ この頃の織田信長の子で有力なものに信孝と信雄がいました。この二人の子が跡を継ぐことも考えられるのですが、清洲会議で秀吉はこの二人を跡取りとせずまだ幼児の信長の嫡孫(信忠の子)の秀信を跡取りとし、実質上権力を掌握しました。信孝・信雄のその後ですが、信孝は美濃、信雄は伊勢・尾張を与えられますが、信孝は柴田勝家に与し秀吉に反発したため信雄に攻められ自刃、信雄はその後豊臣の御伽衆まで零落しています。
2について・・・ 家康は本能寺の変の当時、少数の供回りを連れて観光をしていて命からがら逃げたことは有名ですが、その後甲斐にいた川尻秀隆を一揆によって殺し、武田旧臣に所領安堵をして地盤を固め、また、仇討ち(地位を高めるためといった方が良いかもしれませんが)のため軍を進めますが、光秀討伐の途中、秀吉が光秀を討伐したことを知り、軍を返しました。 豊臣政権の中での家康は自己の権力の蓄積に努めたといっていいでしょう。(朝鮮出兵にも参加していませんし)秀吉のことをどう思っていたかは分かりませんが、あまり快くは思っていなかったのではないでしょうか。
3について・・・ 家康の気持ちは分かりませんが、信長とはあくまで同盟であり、同盟はお互いを利用するため、利用価値が無くなったらそれで終わり、という程度のものなので信長の報復、とはあまり考えられないでしょう。
4について・・・ 朝鮮が日本を侵略、とはかんがえられないでしょう。当時の朝鮮は儒教社会で軍人は蔑視されていましたし、実力・思想からしてもほぼその確率はゼロでしょう。それに明への進攻の案内を拒否したため攻めた(もっとも朝鮮が明への進攻に協力するはずもなく、ただの理由付けとも考えられますが) また朝鮮(明)への進攻は秀吉の自信過剰からきた誤った判断(尤もうまくやれば朝鮮を征服することも十分可能でしたが)とされていますが、恩賞不足や当時の戦の無くなった事による経済流通の停滞の改善とも考えられます。
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Re: 信長の子ではなくなぜ秀吉なんですか? ( No.4 ) |
- 日時: 2005/08/10 14:36
- 名前: 亀
- 島津日新斎さんありがとうです。
自分よりも遥かに教養のある方なのでとても勉強になります。 自分、あまり歴史の授業とか真面目に受けてこなかったですけどこういうふうに授業でやってくれたら結構好きになれたのになって思いますね。 でも何でこういうのって教科書には載ってないんでしょうね。 また疑問があるんですが宜しいでしょうか?
1.決戦3でもそうですし、横山光輝さんの書いた織田信長でもそうなんですが、家康と信長は幼少期より仲が良く、捕虜の身であった家康、家中で孤立状態にあった信長にとってもお互い絶大な信頼関係であったことは解ります。 本当の兄弟のように、信長は弟のように可愛がったと伝えられてます。 頭の切れるところや度胸のあるところは男として信長はかなり見込んでいたようですし。 でも二人とも大人になってもその関係は継続してはなかったんですか? 死人に口なしなので真相は解らないかも知れませんがちょっと気になりました。 伝記や書物からは幼い頃の信頼関係は解らなかったんでしょうか? 織田家を廃した秀吉に対して嫌悪感は全くなかったのでしょうか?
2.秀吉は太閤になりましたが、家康に対する恐れなどはなかったのですかね。 太閤の死を見計らって家康は出兵しますよね? 驚いたんですが、元々一国大名だった家康が日本を統一した超一大勢力の豊臣勢力に対抗できる兵力をなぜ撃退できたのかなっておもうんですよ。 それに豊臣家もこれだけ家康が兵力を蓄えていたのに何の警戒もせずほったらかしにしてたんですか?
3.安土城といえば日本史上最高の木造建造物ですよね? 信長が生きていたろには確かにあったんですよね? それが今では跡形もないんですよね? なぜなくなったんですか?
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Re: 信長の子ではなくなぜ秀吉なんですか? ( No.5 ) |
- 日時: 2005/08/10 14:40
- 名前: 亀
- 4.思いつく限りで構わないんですが、元々織田家に従っていた将軍方は織田家の事実上の崩壊と共にその後どうしたかが知りたいのです。
まず秀吉にそのまま使えたという人で有名な人って誰なんでしょうか? 島左近や黒田ジョ水は知ってるんですが。
5.逆に反旗を翻したので有名なのは勝家ですが有名な将軍では他にはいなかったんでしょうか?
6.徳川家に下った将軍っていなかったんでしょうか?
7.徳川家も足利家も源家も天皇をあくまで頂点としながらも、事実上の実権は自分達幕府が握ってましたよね?天皇家は何も実権も持たない飾りのような地位でした。この3家はなぜ天皇家を頂点としながらも実権は自分達で握ったんですか? 天皇家を廃して自分達が日本の頂点になればよかったのでは?もちろんいつでもなれる事は可能でしたでしょうに。中国でも曹操の子息の曹不は帝の地位を略奪して皇帝になりましたよね? なぜ幕府という体制を選んだのでしょうか?
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発展し過ぎ〜大変でした。 ( No.6 ) |
- 日時: 2005/08/10 21:31
- 名前: 作左ェ門
- なんか錯綜して来たなぁ、最初にレスったからにはまた長文レスする。
本能寺のカゲバンは秀吉なんて言う人もいる。 信長が右大臣にしかなれなかったのは、自分が平家の出身ということにしてあるからなのですが、本能寺後になんと秀吉は平家の血筋を名乗り主君のをきっちり受け継いでいたと言う話もあります。 (憧れの殿のまねしちゃったのかな?後に朝廷工作かなんかで源氏ということにしてなっちゃうみたいですが。) つか、三郎信長も弟殺したり、将軍殺したりして天下人になったわけだし。
光秀こと惟任日向守はインテリ(当時はだいたい坊主)だから、数々の仏閣を焼き虐殺をくり返し仏敵と恐れられた信長に、正義の鉄槌をぐらい思っていたでしょう。しかも将軍家とも通じていたようですし。(ゲームでもそうですよね)
1.織田家主君というより元織田宿老連立政権与党第一党ぐらいが正解。 お家はお家。実力は実力だったのでは?切り取り勝手は戦国の習いですし。 ちなみに織田家は幕末まで藩は残っています。 (上杉鷹山を扱った小説などによくでてきます。小藩ですがきっちり存続してます。) 豊臣家の芸術肌の茶坊主織田有楽斎なんて信長の弟だし。 (今僕はこの有楽斎や古田織部に結構興味があるのですが)
2.太閤秀吉は徳川内府を恐れていたでしょう。と極論したりして。 朝(旭?)日姫(秀吉の妹、姉だったか?)の逸話があります。 筑前時代に嫁いでいた自分の異父兄妹の婿を「しい虐」して、朝日姫を内府に嫁がせる(政略結婚)というもので、いわゆる人質を差し出したわけです。当然徳川は豊家の親戚となり豊臣一門衆となります。 さらには、天下人の自分に臣従させるために上洛(京都の秀吉と面会すること)をせがみます。 渋る内府家康に、最後の手段としてなんと自分の母を人質として差し出します。当然朝日姫に会いに行くという名目でですが。 そんなこんなで上洛は成るわけですが、そこは内府もさしたるもので、何万という軍勢を率いて上洛します。ほとんどいつでも天下はいただくという恫喝のようなモノです。
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大変その2 ( No.7 ) |
- 日時: 2005/08/10 21:33
- 名前: 作左ェ門
- 3.徳川内府は秀吉に転封(領地替〜引っ越し)を強要しますが、意に反してあっさりと受け入れられます。
徳川旧領三河、駿河、遠海、いわゆる駿遠三の三国から関八州(関東地方)に領地替えしろというもので、まあ秀吉にすれば無理難題だったのでしょう。しかし内府はあっさりと引っ越し、当時田舎だった関東を中世期最大都市江戸の礎を作る程、発展させてしまいます。徳川の強さは、三河者の一徹さと我慢強さ、野戦の妙味だけではなく、この転封にもあったようです。なにせ未開の土地ですから、やりようによっては、莫大な禄高(石高〜当時の経済は米本位制)に化けても不思議ではありません。
4〜6.いっぱいいます。自分でしらべれ。
7.幕府というのはそういうものです。しらべれ。 幕府キーワードは、「東鑑」(吾妻鏡)、「源頼朝」、「小栗判官」(←これはよけいか?) 朝廷キーワードは、「かみながら」「万世一系」「ふとまに」「日本書紀」 危険思想だなぁ。日本政府から狙われるよ。(激嘘) 一応当時は神様だし、古代で「氏神」って習ったでしょう?御先祖様が神様っていう...それの拡大解釈版といえば、噛み砕けるかなぁ?
3.安土城に関しては良く知らん、以下。 http://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m161.html
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Re: 信長の子ではなくなぜ秀吉なんですか? ( No.8 ) |
- 日時: 2005/08/10 21:45
- 名前: 作左ェ門
- 訂正
3.※秀吉は※徳川内府に転封(領地替〜引っ越し)を強要しますが、意に反してあっさりと受け入れられます。
あー大変(^^;
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Re: 信長の子ではなくなぜ秀吉なんですか? ( No.9 ) |
- 日時: 2005/08/11 08:38
- 名前: 島津日新斎
- すいません。自分が割り込んでしまって。
回答されていない4〜6と安土城について少々。 4〜6、 柴田勝家とそれに与した滝川一益、前田利家、 佐々成政以外は大規模な反乱は行うことは無か ったと記憶しています。政治は信長亡き後、一 応は旧臣達が協力して織田家を盛り立てるとい う形をとっていましたし、実際、京都の政治は 有力家臣が代表を出し合って行うという形をと っていました。そのため、勝家の反乱は織田家 への反乱ということになるようです。 そのためか意外とすんなり大部分の有力家臣は 当時秀吉に従ったようです。それに、単独で反 抗を行えるだけの力と名を持つものはそれじた い少なかったとも考えられます。 7、 明智秀満は光秀の敗報を聞いて安土を発った (一部には敗報を聞く前)とされていますが、 「秀吉事記」「太閤記」にはその際秀満が、ル イス・フロイスの書状には信雄が焼いたと書い てあります。秀満には安土を焼いてもあまり意 味が無い事や作左ェ門さんの述べられている理 由から信雄説がやや有力のようです。なにか有 力な資料でも出ない限り確定はされませんが。
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歌舞伎の左馬助湖渡りのクダリですな ( No.10 ) |
- 日時: 2005/08/11 18:07
- 名前: 作左ェ門
- どういたしまして日新斎さん。不祥の自分なんかより御指摘、適確です。
織田家への反乱かぁ、ナルホド
ところで、左馬助秀満ってそんなにイケメンだったのだろうか...
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自分のためにレスしていいすか ( No.11 ) |
- 日時: 2005/08/12 22:24
- 名前: 作左
- 秀吉が朝鮮に出兵したのはやることがなかったから、とまた極論。
教科書でも習ったと思うが、太閤検知って知ってるよね。 日本の農作地を調べ直して、どっかか不届けなところから税金とれないかってやつ。 もともと360町歩で一反というのが太閤検知までの税収の単位だったんだが、一気に家臣が増えた秀吉は、褒美をやる領地がもうほとんどなかった。 太閤はそこで一反を300町歩で再検知するわけ。 同じ30石二人扶持でも検知前と後ではだいぶ違うっしょ。 信長なんかは、領地ではなく刀剣類に付加価値をつけて与えていたようだ。 (付加価値というのが重要) 秀吉も功賞を与えないと自分の懐を怪しまれるし、もう日本国の領土は家臣に分割しちゃったし、どうしようかというところ。
そんじゃ、外国があるじゃんつって、国交も昔からあったし、帰化人もたくさんいて多少は事情の分かった手軽な朝鮮半島に進出するわけだ。
文永・弘安の役、最初は破竹の勢いだった。 加藤虎之介なんて、秀吉の淀君との夜の強精剤として虎狩の成果を送ったりしてる。
出兵の失敗は楽観的だったところ。 明国を甘く見ていた。 国力は衰えていても、(実際征服できたかもしれません、やり方によってはね)外交手腕と国外事情にはさすがに明るい。
五奉行も悪かった、特に石田佐吉。 交渉にあたった外交官も悪かった。
失敗するわな。
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