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決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1)
日時: 2005/05/05 14:13
名前: 戦国マニア

微々美々さんが史実全般について質問や疑問を募集しているのを見ていて、ジャンルが多すぎて大変かなーと思いまして(私事なんですが)人物史スレッドをたててみました。

題名のとおり、決戦3以外の人物でもかまいませんし、決戦3に登場してくる武将達についての史実を分かる範囲で詳しく説明したいと思っています。

目的はやはり登場してくる武将や歴史上の人物に親しみを持ってもらい、楽しく決戦3をプレイしてもらいたいからです。よろしくお願いしまーす!

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Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.61 )
日時: 2005/05/20 21:26
名前: 戦国マニア

久々の質問です(ありがたいです)
では、人物史北条氏綱について

北条氏綱
長享元年(一四八七)生
天文十年(一五四一)没
伊勢宗瑞(早雲)の子。幼名伊豆千代丸。新九郎を名乗る。永正九年(一五一二)、相模岡崎城合戦での父早雲との連署状が初見。同十三年、関東の三浦氏を滅ぼして相模一国を平定。翌十四年、早雲と伊豆三島社に太刀奉納。平姓を称す。この年、渡海して上総国を侵す。同十五年、早雲から家督を継ぐ。翌十六年、早雲が死ぬ。大永元年、父を偲んで早雲寺を建立。また、相州太守と名乗る。同四年、氏綱は武蔵江戸城、さらに翌五年に岩付城を落とす。「関東の副将軍」と呼ばれる北条姓に改む。このころより、甲斐の武田信虎(信玄の父)としばしば戦う。天文元年、歴史ある鎌倉の鶴岡八幡宮の造営に着手。前関白の近衛尚通の娘を後妻に迎える。同二年左京大夫に任ぜられる。同六年、駿河富士川以東を占拠し、武蔵河越城を落とす、同七年下総国府台で小弓御所(足利)義明を破る。氏綱の娘(芳春院)が古河公方晴氏に嫁した。同九年、鶴岡八幡宮完成。翌十年、氏康に置文を与え、五十五歳で死んだ。早雲寺に葬られる。法名、春松院殿快翁活公。

ご質問、疑問はどんどんおよせください!!!
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.62 )
日時: 2005/05/20 21:39
名前: 戦国マニア

勝手ですが、柳生一族の中でも剣法柳生新陰流の祖となった柳生宗厳について・・・

先ほど述べたように柳生新陰流の祖。通称、新介、新次郎、新左衛門。但馬守。石舟斎と号した。柳生家の家系では七代目にあたる。筒井順慶や松永久秀に仕えていたが、織田信長が大和に進攻してからは沈黙。豊臣秀次から百石の知行を与えられたともいわれる。文禄三年、徳川家康に拝見し、剣法を長く世に伝えるように命を受けた。関ヶ原合戦の前後から徳川方の謀報活動を行い、その功によって、二千石を知行。宗厳の剣法はまず、戸田一刀斎に学び、つぎに新陰流の上泉秀綱に学んだもので第八子宗矩は徳川秀忠の指南役となって、勢力をのばした。

幕末になってからですが、柳生新陰流を流派としたのは幕末の風雲児、高杉晋作がいます。

Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.63 )
日時: 2005/05/21 03:58
名前: franz

微々美々さん、戦国マニアさん早速の返信ありがとうございます。
勉強になりました。最近、いや決戦3でこの掲示板を愛用しはじめてから勉強し始めたもので、中々奥が深いですね。またお願いします。
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.64 )
日時: 2005/05/21 06:59
名前: ブー

微々美々さん戦国マニアさん、ありがとうございます
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.65 )
日時: 2005/05/24 01:52
名前: 微々美々

自分のスレの方に、お市に関するご質問を頂き、ありがとうございました^^
正直なところ、あまり”内容の無い”回答になってしまい、大変申し訳なかったのですが・・・。
そこで、自分自身も勉強のために、「お市」「帰蝶(濃姫)」について戦国マニアさんの知る彼女たちの人物像などをお聞きしたいのですが・・・
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.66 )
日時: 2005/05/24 13:20
名前: 戦国マニア

ご質問ありがとうございます!お市に関する件もありがとうございました!では、人物像を・・・

お市 天文十六年(一五四七)〜天正十一年(一五八三)

織田信秀女、別称、小谷の方

夫、浅井長政、柴田勝家

子、万福丸、茶々、初、江、他に一男

正室。天下一の美女といわれたお市は兄信長(従兄妹とする説もありますが)の天下制覇の野望のため、はじめは小谷城主浅井長政に嫁ぎ、五人の子を産んだが、元亀元年(一五七〇)、信長に攻められて小谷城は落城。長政は自刃して果てた。この時、お市は三人の娘と城を出て信長に庇護されたが、天正十年六月二日の本能寺の変で信長を失うと、信長の三男信孝(本来、信孝は次男信雄より二十日あまり早く生まれたそうですが、母の身分が低かったので三男にされてしまったそうです)の協力で柴田勝家と再婚。勝家は六十二歳、お市は三十七歳だった。しかし、半年後、居城北ノ庄城も仇敵秀吉に攻められて落城。お市は三人の娘を秀吉に託すと、夫勝家に殉じた。

こんなところでしょうか・・・
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.67 )
日時: 2005/05/24 13:53
名前: 戦国マニア

えー、次に濃姫についてです。(前編)

濃姫、美濃から来た姫の意。織田家臣団の中では彼女は「鷺山殿」と呼ばれていたそうです。

美濃のマムシといわれた斎藤道三の娘で、織田家に嫁入り前は帰蝶といった。母は小見の方という女性で道三が
晩年愛した女性である。道三は濃姫を間諜として送りこませたそうです。

明智光秀と濃姫は小見の方を通じて血縁関係になり、光秀と濃姫は身内ということになる。

信長と濃姫が不和だったという記録は見あたらないので本能寺の変の数年前の二人の仲は仲睦まじいものであったと思われる。

本能寺の変の際について

「信長公記」の本能寺の変のくだりを見てみる。「信長初めには御弓を取合ひ、二・三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の絃切れ、御肘に怪我を被られ引き退き、是れまで御そばに女共付きそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け焼来たり候。御姿を御見せ有間敷と思食され、殿中奥深く入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て無情に御腹めされ、」とある。

この「女」という記述が濃姫である可能性が高く、この時、濃姫は信長より「追ひだされ、」た可能性が高い。

あえて、「女はくるしからず、急ぎ罷り出でよ」と口にしたということはこの女が信長にとって大事な人間である事を意味するからである。

あまり史料がないので。。すいません。
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.68 )
日時: 2005/05/24 14:10
名前: 戦国マニア

続いて後編

異説もあります。

濃姫があまりにも史実に出てこないことから、美濃から織田家に来た後、ある時期に死んだ(病死)、殺されたという説である。

この時、「追ひださせられ、」た女が濃姫なら記録によると濃姫は慶長十七年まで生きていたとされているので、その後の秀吉や家康の政治工作には関与せず、ひっそりと暮らしていたことになる。信長死後、織田家の政権構想の中では一番実権を把握している人間だったに違いない。

だから、家康や秀吉が彼女を利用しないはずがないというのである。

濃姫は信長の正室でありながら、謀反人光秀の血縁者という微妙な立場にあり、秀吉や家康が利用しづらかったという一面もある。しかし、彼らであればそういう面は簡単にカモフラージュできるはあずである。

しかし、いっこうに表舞台にでてこない。

このことから、「追ひださせられ、」た女は秀吉や家康にとって利用価値のない女であった(濃姫ではなかった)という推測が生まれる。

しかし、本能寺の変の前夜、信長が正室と同席しなかったはずがない。なぜならば、あの夜は織田家の京都における公式の晩餐会なのである。次期政権担当者の京都財界へのお披露目パーティーなのである。主催者である夫婦ともどもが出席するのが出席者達への最低のマナーというものである。

濃姫があの夜、本能寺にいないということは正室の座から外されたことになる。しかし、そんな記録はどこにもない。

ということで謎多き女性濃姫についてでした。長々とすいません。ご質問などはまだまだまーだ募集しております!!
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.69 )
日時: 2005/05/25 02:19
名前: 微々美々

返信が遅れました・・・

ありがとうございます。非常に勉強になりました。
彼女たちの資料が少ないので、参考になる部分が多く助かりました^^;
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.70 )
日時: 2005/05/29 21:16
名前: ブー

柴田勝家が、死んだ後の柴田家のことお、教えてください。
あと、勝家とお市に子供はいたんですか、教えてくだい
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.71 )
日時: 2005/05/30 20:59
名前: 戦国マニア

返信が遅れて申し訳ありませんm(__)m質問ありがたいです。では、早速・・・

柴田勝家死後の柴田家と勝家とお市の子について

まず、柴田勝家についての人物像

勝家は斯波氏の一族柴田土佐守義勝の子とされているが定かではない。尾張国愛知郡の生まれで通称を権六といい、修理亮とも称した。妻は織田信長の妹お市のみよく知られている。織田家には信秀(信長の父)の頃から仕え、その没後は織田信行づきの家臣となった。そのため、当初は信長の家督相続を快く思わず、同僚の林秀貞(通勝)や林美作守らと図って信長廃嫡を画策した。その陰謀はやがて信長の知るところとなり、弘治二年(一五五六)八月、信長は信行一派打倒の兵をあげた。この一戦において勝家は一千余の軍勢を指揮し、いったんは信長軍を突き崩したが信長の巧みな用兵の前に破れた。これを境にすっかり信長に心服し、翌年信行が再び謀反をくわだてると、その旨を信長に報告した。信長も勝家の武将としての手腕を評価していたため、早速直臣にとりたてて優遇した。以後、勝家はつねに先鋒を務め、「鬼柴田」といわれるほどの猛将ぶりを発揮することになる。越前朝倉攻略その他各地に転戦し、天正三年に越前一国を与えられ北庄に城を構えた。能登・越中の進出をはかり、魚津に上杉景勝の軍と交戦中に本能寺の変に接した。天正十年六月、信長の後継者を決める清洲会議で信長の三男信孝の擁立を主張した。
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.72 )
日時: 2005/05/30 21:18
名前: 戦国マニア

続きです。

しかし、会議の主導権は信長の弔い合戦をした秀吉に握られており、織田家の新当主は嫡孫三法師と決まった。そのうえ、勝家は信長の遺領配分でも秀吉に遅れをとった。そこで、勝家は秀吉に不満を持つ滝川一益や織田信孝を誘い、秀吉抹殺を企てた。あけて十一年三月、勝家は二万数千の兵を率いて北庄城を発し、北近江の柳瀬に陣を敷いた。戦いは四月二十日未明にはじまり、勝家の甥佐久間盛政の活躍によって緒戦の勝利は柴田軍の上に輝いた。しかし、盛政が撤退をおこたっているうちに岐阜城の信孝を攻めていた秀吉が猛スピードで引き返し、電撃的な強襲を加えたため、形勢は完全に逆転した。盛政は敗走、応援にきていた柴田勝政も秀吉軍の猛攻に耐えきれずに敗走。味方の前田利家が兵を退いたため、柴田軍は混乱した。手勢はみるみる三千程度に減り、やむなく勝家は家臣毛受勝助の勧めに従い、わずかの手勢をつれて北庄城に退いた。そして、四月二十四日、城中で別れの酒宴を催した後、天守閣に昇って火を放ち、妻お市と共に無念の最後を遂げた。その一ヵ月後、子の勝敏も近江佐和山城で斬首に処された。

まあ、人物史はそんなところですか・・

では本題
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.73 )
日時: 2005/05/30 21:25
名前: 戦国マニア

あっ、すいません逸話を一つ

「瓶割り柴田」

元亀元年(一五七〇)のことだった。勝家は信長から、近江長光寺城を与えられていた。浅井長政と結び、信長に抵抗する六角承禎の制圧が使命である。承禎は一ヶ月もしないうちに長光寺城へ押し寄せ、厚く包囲して城の水源を絶った。すると、勝家は城中の水瓶をすべて打ち砕き、部下の士気を鼓舞して城外にうって出た。その結果、承禎の軍は雪崩をうって潰走し、近江国の過半は信長の支配下に帰した。

すいません、改めて本題へ
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.74 )
日時: 2005/05/30 21:45
名前: 戦国マニア

もう一つ

北庄城の陥落

勝家敗残の身で北庄城にたどり着くといち早くお市の方が迎えに出た。勝家はお市の顔を見ると無様な身を恥じて一言「かかる醜態をお目にかけ面目ない」と頭を垂れた。お市は「覚悟はできております」と言ったきり言葉が続かなかった。

勝家は配下に命じ、篭城の準備をさせた。城内の兵は三千といっても、非戦闘員もいたために戦う能力を持ったものは二千ほど。これではとても広い城内を守る事は困難なので、二の丸、三の丸だけに兵員を配し、ここに立て篭もった。

賤ヶ岳で破れた勝家は府中城に立ち寄った勝家は、利家の裏切りによって柴田方が破れたのではあるが、それに対しても恨みがましき事は一言も言わず、ただ長年の交友を謝し、何も酬いることができないことを詫び、今後は秀吉を頼られるようにと話をして立ち去った。

秀吉は次第に包囲を縮め、激しい鉄砲合戦の末、本丸の土居際までは押し詰めていった。そして城内に聞けよとばかり、「御子息権六殿(勝敏)ならびに玄蕃(佐久間盛政)、山中にて生捕利他離、痛わしき御事よ」と城内に向けて怒鳴った。城内でこれを聞いた勝家も、もしやとまだ心頼みにしていた盛政も勝敏も捕らえられたとあり、力を落としてしまった。そしてこれ以上戦うのも無駄、いよいよ最後と覚悟を決める。
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.75 )
日時: 2005/05/30 21:57
名前: 戦国マニア

続きです

勝家はお市の方に向かい、「勝家の念願叶い、そなたを迎えたが束の間の縁でござった。そなたは主君信長公の妹御なれば、秀吉とて疎略には致すまじ。早く城を出て、秀吉を頼られよ。」

これに対しお市の方は

「去年の秋岐阜よりここに参り、今日の日まで厚きお情は、宿世浅からぬ縁と存じます。さきに浅井の元に死すべき身、今またかかる欺きを見るは、我が身にまとう運命と存じますれば、この後筑前殿にすがればとて、良き月日に逢えるとも思われません。短き御縁とて百年の契の思い、身にしみて忘れ得ませぬ。なにとぞ、死出の道にお連れ下さい。ただ三人の子女だけは助けて、果敢なき父や母の菩提を弔わせとう存じます」

「それほどまでに勝家を思うて下さるのであれば、共に手を取り六道の辻を越え申そう」

と二人の心持は固く結ばれて離れなかった。
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.76 )
日時: 2005/05/30 22:15
名前: 戦国マニア

辞世の句

さらぬだに 打ち寝る程もなつの夜の 別れをさそう 時鳥(ホトトギス)かな  お市の方

夏の夜の 夢路はかなき跡の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす  勝家

柴田一族は

勝家の子、勝敏は斬首。甥の佐久間盛政も斬首。養子の柴田勝豊は病死と柴田一族は滅亡となった。しかし、青森県津軽岩木山のふもとに、柴田勝家の末裔を称す家がある。一帯は湯段という温泉地で、柴田姓を名乗る家が小さな集落をなしている。勝家は北庄城で自刃したことになっているが、実は焼跡から勝家とお市の死体は発見されていない。秀吉は「勝家ともあろうものが、逃げるはずはない」といってこれを許したという。

勝家はお市と共に前田利家のはからいではるばる津軽まで落ちのび、岩木山のふもとの温泉場に隠れ住んだというのがその家の伝承。江戸時代に建てられた石碑にもその伝承が書かれている。

津軽藩には関ヶ原合戦で破れた石田三成の子もかくまわれているから、この話は案外本当かもしれない。

一般的には勝家とお市の間には子はいなかったとされています。(まあー、なにしろ勝家五十七歳(六十二歳とも)、お市の方三十七歳でしたからねえ)

こんなところでしょうか、長文でしかも他のことも書いてしまってすみません。質問などはどんどんどうぞ!!
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.77 )
日時: 2005/05/31 18:59
名前: ブー

ありがとうございます
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.78 )
日時: 2005/06/05 20:59
名前: ブー

大河ドラマ義経にででくる。朱雀の翁(すざくのおきな)のことお教えてください。
決戦3のことじゃないけどいいですか?
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.79 )
日時: 2005/06/10 21:39
名前: 戦国マニア

返信遅れましたー。朱雀の翁についてですが資料はありませんでした。ご期待に答えられなくてすみません。資料は引き続き捜索します。見つかり次第述べたいと思っています。本当にすみません。

御質問、疑問はどしどしどうぞ
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.80 )
日時: 2005/06/10 22:16
名前: ブー

戦国マニアさん。べつにいいんですよ、ここは、
決戦3のことを書くことなので、無理をいっつて
すみませんでした。

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