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決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1)
日時: 2005/05/05 14:13
名前: 戦国マニア

微々美々さんが史実全般について質問や疑問を募集しているのを見ていて、ジャンルが多すぎて大変かなーと思いまして(私事なんですが)人物史スレッドをたててみました。

題名のとおり、決戦3以外の人物でもかまいませんし、決戦3に登場してくる武将達についての史実を分かる範囲で詳しく説明したいと思っています。

目的はやはり登場してくる武将や歴史上の人物に親しみを持ってもらい、楽しく決戦3をプレイしてもらいたいからです。よろしくお願いしまーす!

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Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.21 )
日時: 2005/05/08 16:38
名前: ブー

快川じょうきと                   加藤清正と福島正則について、教えてください
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.22 )
日時: 2005/05/08 16:40
名前: ブー

なんかへんになりましたすみません
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.23 )
日時: 2005/05/08 19:48
名前: 戦国マニア

質問ありがとうございます。早速、答えさせていただきます。

まずは

快川紹喜
生年は不詳、天正十年(一五七二)に没しています。美濃国の人で、俗姓は土岐氏。京都にある妙心寺という寺の法を継ぎ、のちに美濃の崇福寺、南泉寺の住職となります。美濃を治めていた斎藤道三の子義龍と対立し、甲斐の武田信玄の招きをうけて、塩山の恵林寺の住職となる。恵林寺は夢窓疎石の開山で、信玄は菩提寺として手厚く庇護しました。天正元年に信玄が死去すると、三年後に快川が導師となって恵林寺で葬儀を行った。天正九年、当時の天皇の正親町天皇から「大通智勝国師」という号が与えられます。翌十年に織田信長軍に攻められ、武田勝頼が自刃。快川がその供養を執行したこと、信長が攻め滅ぼした、近江佐々木氏の残党を匿ったことをとがめられ、東光寺・長禅寺などの衆僧約百人と山門楼上に封じ込められ、焼殺されました。

余談:焼殺された際、有名な名言を残しています。
「心頭滅却すれば、火も自から涼し」
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.24 )
日時: 2005/05/08 20:47
名前: ブー

ありがとうございます。
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.25 )
日時: 2005/05/08 21:07
名前: 戦国マニア


加藤清正(語ります(笑))

加藤清正の生まれは豊臣秀吉と同じ尾張国愛知郡中村で、父は清忠、母は秀吉の母と従姉妹だった。幼名夜叉丸、のちに虎之助と改めた。三歳のときに父が没したので、五歳になると長浜の地で五万貫を領していた秀吉に預けられた。十五歳で元服、加藤虎之助清正と名乗り、百七十石を食む身となった。初陣は天正九年(一五八一)因州鳥取城攻め。以後、清正は秀吉の出世とともに各地を転戦。

「清正記」や「太閤記」がその間の清正の活躍を伝えているが、なかでも有名なのが「賤ヶ岳の七本槍」である。甲子夜話」が、このときの清正の心境を伝えている。「相手がなにか闇夜のように茫然としていて、一向にはっきりしない。そこで、拙者は目をつむり、念仏を唱えて、ただ一気にその闇の中に槍を突っ込んだ。なにか手応えがあったなと思い、槍先を見ると敵を組み伏せていた」と。

秀吉の九州制覇で、清正は一挙に肥後国半国二十五万石の大名に列せられた。

清正の武勇の象徴でもあった「片鎌の槍」について。肥後土着の豪族は新領主となった清正は行長に従おうとしなかった。とくに天草民部は志岐城に拠って行長を悩ませた。志岐城を攻めた際十文字槍の片刃を折るほどの奮闘ぶりだった。

朝鮮の役でも、清正は行長と共に先鋒となって功を争った。明軍の南下で日本軍は窮地に立ったが、清正の捨て身の奮闘で明軍を大いに破った。

ところが、在戦四年目の文禄四年(一五九五)、清正は秀吉の帰国命令で伏見の自邸に蟄居の身となった。石田三成との不仲によるもので、秀吉の家臣団が清正らの武断派と三成らの文治派に分かれて争う因ともなった。幸い秀吉の勘気も解け、第二次朝鮮出兵。しかし秀吉の死によって朝鮮の役の幕を閉じた。関ヶ原役で徳川方となった清正は、戦後、肥後一国五十一万五千石の大身となった。

清正が日本三大名城の一つに数えられている熊本城の造築にかかったのは慶長六年のことで、七年がかりで城は完成をみるのだが、明治期に西南戦争でも西郷軍を寄せ付けず、清正苦心のほどを実証してみせた。

秀吉の遺児秀頼と家康の会見の大役をつとめ、熊本へ帰国の途中に船の中で病み、熊本へ帰ってまもなく世を去った。六月二十四日のことで、家康毒殺説もあるが真偽のほどは分かっていない。

長いですね・・・すいませんm(__)m
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.26 )
日時: 2005/05/08 21:24
名前: 戦国マニア

続いてラスト福島正則です。

福島正則

安土・桃山、江戸初期の大名。尾張国に生まれる。正信の子。通称、市松。佐衛門大夫と称す。幼児より、秀吉に仕えて、鳥取城攻め、山崎の戦いなど転戦。賤ヶ岳合戦では殊勲をたてて、七本槍筆頭の高名をあげ近江、河内で五千石の恩賞を得た。天正十三年(一五八五)、雑賀攻めのとき、和泉畠中城で軍功をたて、伊予湯月十一万余石に封ぜられ、従五位下に任ぜられた。また、文禄の役でも功を挙げ、文禄四年(一五九五)、尾張清洲二十四万石を領す。関ヶ原合戦では石田三成と対立し、東軍の先鋒として働き、安芸、備後二州四十九万八千石の大封を与えられ、広島城主となる。しかし、豊臣恩顧の将であったので、大坂冬の陣には江戸城留守居を命じられた。元和五年(一六一九)、広島城の無断修築をとがめられ、安芸・備後二州を没収され、信州川中島四万石五千石に大減封され、蟄居。寛永元年、病没。六十三歳。

質問ありがとうございます。これからもよろしくおねがいします!
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.27 )
日時: 2005/05/08 21:59
名前: ブー

ありがとうございます
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.28 )
日時: 2005/05/09 19:40
名前: ブー

幕府滅亡ごの足利義昭のことおおしえてください
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.29 )
日時: 2005/05/09 20:53
名前: 戦国マニア

幕府滅亡後の義昭について(質問ありがとうございます!)

まずは足利義昭について軽くふれておきます。

足利義昭
天文六年(一五三七)に生まれる。父、十二代将軍足利義晴の次男として生まれる。最初、興福寺という寺の門跡となり、覚慶と名乗る。永禄八年(一五六五)に兄、義輝が松永久秀・三好三人衆に殺されると奈良を脱出。
近江・若狭を経て、越前一乗谷の大名朝倉義景のもとに身をよせ、そこで還俗。名を義秋と称し、後に義昭と改名する。上杉・武田・毛利らの戦国大名に上洛の援助を頼んだがが同十一年、織田信長に奉じられて入京し、十五代将軍となる。やがて信長と不和になり、反信長勢力の毛利・朝倉・武田氏や石山本願寺などを頼って打倒信長をはかるが、天正元年(一五七三)京都を追われ、幕府は滅亡。

(では本題へ)その後の義昭
京都から追われた義昭は河内の三好氏のもとに寄寓。三好(十河)義継が自刃し、三好が滅びると安芸へと逃れて毛利氏の庇護を受け、備後に滞在。同十三年には豊臣(羽柴)秀吉から義昭の養子となって将軍になりたいとの要請があったが義昭はこれを拒否。同十六年、帰京し、秀吉の保護を受けて一万石を給される。この年、参内して三宮となり、出家して昌山と称す。文禄の役では秀吉に従って肥前名護屋に出陣。慶長二年(一五九七)大坂にて没。

ご質問ありがとうございます。まだまだ募集中です。ささいなことでも全然構いませんのでよろしくおねがいします!!
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.30 )
日時: 2005/05/09 20:53
名前: ブー

織田信ただと徳川信康は、どっちが、すぐれているんですか。「バラで書いてすみません。信ただの、ただの字が、わからないので、ひらがなで書いています。」
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.31 )
日時: 2005/05/09 21:15
名前: ブー

ありがとうございます。
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.32 )
日時: 2005/05/09 21:51
名前: 精鋭槍騎馬

織田信長と徳川家康の同盟はおたがい敵にまわすと厄介で、手を結んだほうが天下が近いので同盟したとか。
のちに家康が信長の命令を聞くか試したそうです。両家に問題が起って両家の女性と対立。織田家側の女性が偽の文書を作って提出。そして信長が家康の息子?に腹を切れと命令。命令に従うか?を調べたそうです。
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.33 )
日時: 2005/05/09 21:51
名前: 戦国マニア

信長の長男、織田信忠と家康の長男、徳川信康はどちらが優れているかという質問(ありがとうございます)について自分の見解と二人の人物像から照らし合わせてみます。

初編です。

まずは二人の人物像

織田信忠
信長の長子。幼名、奇妙丸。のち管九郎。元亀三年(一五七二)元服し、七月、信長に従って小谷城を攻めたのが初陣。天正三年、長篠戦後、武田の属城美濃国岩村城を攻め、城主秋山信友を虜にした。(秋山信友は武田の将で幾多の合戦に出陣し、信玄の有力な将の一人として活躍した猛将。その信友を虜にしたのだから、相当な器量の持ち主だったのでしょう)翌四年、従四位下に進み、さらに信長が安土城に移ったので、岐阜城主となり、尾張・美濃の領主となった。(尾張、美濃はいずれも信長が居城とした城、清洲や稲葉山(岐阜城)などがある。そこの治安を任されたのだから、信長にかなり将来を期待していたのだと思う。まあ、信長の長子なのだから当然という声もあるでしょうけど・・・)天正五年、雑賀攻めでも活躍。同年秋、松永久秀を信貴山城に攻めて滅ぼし、武名を轟かせた。また、この功により従三位左近衛権中将。天正十年武田勝頼を天目山に滅ぼす。後に中国地方で戦う秀吉救援のため、京都妙覚寺に宿した。信長は本能寺に入ったが、明智光秀に襲撃されて死んだので信忠も二条城に篭もって明智軍と戦ったが自刃して果てた。
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.34 )
日時: 2005/05/09 22:22
名前: 戦国マニア

中編です。

松平(徳川)信康
幼名、竹千代。父はもちろん有名な松平元康(徳川家康)。永禄十年、信長の長女徳姫と結婚。ともに九歳。徳姫が五日早生まれだった。元亀元年(一五七〇)、十二歳で元服して岡崎次郎三郎信康と名乗り、家康が浜松城に移ったため、岡崎城を預かる。天正元年九月、初陣。初陣にして内武節・足助のふたつの城を攻め取り、めでたしと家臣に賞賛される。(初めての戦でふたつの城を攻め取るのだから相当な統率力や軍事力があったのだと思われる)また、武田方が長篠城を攻めた際に信康も参陣。武田方は大敗を喫す。この時、勝頼は近臣にこう語りかけています。「今度三河には信康という小冠者のしゃれものいできたり、指揮進退のするどさ、成長ののち思いやられる」(勝頼は駿府や三河の諸城を落とした猛将)敵将をも賞賛させる信康の采配ぶりは信長もみていたことだろう。このころから信康は少年血気に任せて横暴な振る舞いが多くなり、老臣たちと対立するようになる。ここででてくるのが徳姫である。徳姫は信康の母築山殿(今川義元の娘)と対立していた。さらに徳姫は夫の信康の振る舞いにも不満を抱いていたので(目的は築山殿を排除したかったらしい)父信長に書状を出した。「三河後風土記」がそれを伝えている。要約すると、「信康は武田の家人の女の色香に溺れ、日夜遊行にふけっている。さらに築山殿は甲斐の武田勝頼と内通を企て、かつ信康をもその陰謀に加担させようとしている」である。信長にこの書状を届けた徳川重臣酒井忠次はこれを肯定。信長は酒井に「信康に腹を切らせたまえと家康へと申されべく」という。家康は信長の尋問に対し、酒井が肯定しなければ信長も切腹までは申さなかっただろうと嘆いたという。この事件は信長が将来の信康が自家を攻め滅ぼそうとするだろうと恐れたからだという。天正七年九月十五日、信康切腹。
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.35 )
日時: 2005/05/09 22:56
名前: 戦国マニア

終編です。

織田信忠は信長の長子で美濃岩村城攻略を始め、松永久秀の討伐、武田勝頼討伐など戦歴が輝かしい。幾多の合戦の総大将もつとめた。また、家臣達の信頼厚く、将来を有望されていた。ただ、ときどき思慮に欠け血気にはやる一面もあったという。

徳川信康は家康の長子。初陣は早くもふたつの城を落とし、大将の器を見せ付けた。また、武田勝頼をもうならせた軍事手腕、采配はとても優れていた。しかし、その采配ぶりを信長に恐れられ、切腹においこまれてしまっている。

以上のことにより、戦においての軍事力、統率力、指揮采配などの面では戦歴からみると信康のほうが優れていると思われる。信長や勝頼をも恐れさせたのだから相当だろう。信忠も十分戦歴はすばらしいが信康には劣ると思う。(見方によっては相違もあるが)信康を切腹させたのは自らの子(信忠)の器量を持っていても不安だったのだから・・。しかし、人望、名声、政治的手腕においては信忠が優れていると思われる。信康は粗暴な振る舞いが目立った。武田方に内通していると他の家臣団にも思われていたらしく、それだけ人望には欠けていた。

まだまだ受け付けておりますので、私で良かったらできるかぎり答えさせていただきたいと思うので、どうぞよろしくおねがいいたします。
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.36 )
日時: 2005/05/10 06:37
名前: ブー

ありがとうございます。
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.37 )
日時: 2005/05/10 13:59
名前: 微々美々

決戦3には登場しないのですが、決戦3の信長と帰蝶を考えた時に、光秀とその正室 煕子(ひろこ)
の関係が思い浮かんだので、光秀に献身的な愛を捧げた妻、煕子(ひろこ)について、その人物像をお聞きしたいのですが・・・
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.38 )
日時: 2005/05/10 21:48
名前: 戦国マニア

光秀の妻ひろこ(漢字が分からないので・・・あと、ご質問ありがとうございます!)についての人物像について答えさせていただきます。

光秀の妻、ひろこ

光秀の妻であるひろこは、光秀浪人時代(明智城を脱出した後から信長に仕えるまで)の光秀を支えた女性です。光秀はひろこをたいそう愛し、生涯側室を持たなかったといわれています。1553年に、ひろこは光秀に嫁ぐことになりますが、嫁ぐ直前、疱瘡にかかってしまい、命こそ助かったものの、左頬に醜い痕を残してしまいました。父である妻木広忠はそれをひどく気にし、容姿が似ているひろこの妹をひろこの代わりに光秀のもとに嫁がせようとしました。しかし、光秀はそれを制止し、ひろこを優しく迎え入れました。

明智城落城の際には、ひろこは身重でした。そこで光秀は自らひろこを背負って難所油坂を越え、越前に向かったといわれています。

このように光秀に愛されたひろこ。彼女もまた、光秀の愛に答えました。

光秀は朝倉家に仕えましたが、ある日、光秀は朝倉家の連歌の会の当番を任ぜられました。それは酒肴を用意しなければならないことを指しています。しかし、光秀はまだ貧しく、毎日の食事にも困る有様でした。ひろこはそんな光秀の苦しみを察し、自分の黒髪を売って、酒肴を整わせたといわれています。

さらに1576年、光秀が重病に倒れると、ひろこは身を粉にして看病を続けます。二ヶ月もの闘病生活の末、光秀はようやく回復しました。が、看病疲れからか、今度はひろこが病にかかってしまいました。病は悪化の一途をたどり、光秀は祈祷などにもすがり、妻の回復を願いましたが、結局病は癒えず、ひろこは1576年11月7日、亡くなってしまったといわれています。

こんなところでしょうか・・・。質問ありがとうございます。これからもどんどん募集しております!!
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.39 )
日時: 2005/05/10 21:49
名前: ブー

竹中半兵衛と黒田官兵衛は、どっちがすぐれているんですか。
Re: 決戦3(以外でもOK)人物史スレッド(1) ( No.40 )
日時: 2005/05/10 22:04
名前: 微々美々

ありがとうございます^^

非常に勉強になりました。何冊か、彼女にまつわる本を読んだこともあり、実際どんな人物かな・・・と思っていましたが、やはり史実に伝わる通り、光秀君に献身的な愛を捧げた女性のようですね・・・。
勉強になりました。本当にありがとうございます!

お礼を兼ねて1つ逸話を載せておきますね^^

”松尾芭蕉”もこの話に非常に感動したそうです。芭蕉が伊勢を旅した時に、宿泊先の又玄と言う者の妻が健気に夫に仕えかいがいしく世話をしていた様子を見て、芭蕉はその事に感動し、一句読んだとか。
「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」
ご質問が増えて”大変”かと思いますが、あまり無理なさらないように・・・^^;

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