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決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編)
日時: 2005/05/05 21:49
名前: 微々美々

決戦3「史実」探検スレッドに多くのご質問を頂きましたので、第4弾のスレを立てて見ました。
書き込んで頂いた方や、御覧になって頂いた方、管理人様には本当に感謝しております。
(興味のない方には本当に申し訳ないスレでもあるのですが・・・)
前回同様「決戦3」に関わる「史実」「時代背景」の疑問・ご質問であれば、自分の知っているもの、調べて何とかなるものであれば、可能な限りお答えしたいと考えておりますので、どしどし書き込んで下さい。

前回との変更点
・人物についてのご質問については「逸話」のみ回答させていただこうかな・・・と考えています。

・ゲーム中に登場するイベント・台詞等の由来・元ネタのご質問もOKです。

これから決戦3を始める方にも楽しんで頂けたら幸いかな・・・と思っています^^
メンテ

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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.33 )
日時: 2005/05/18 07:39
名前: 謙信

三河決戦との関係で、武田信玄の上洛の意思について質問します。

ゲーム中では、都に上って「天下布仁」を信玄は目指していたことになってますが、私の得た情報では信玄に上洛の意思はなかったのではないか、となっていました。その理由は、以下の通りです。

1.兵士の帰国問題
 武田軍は信長軍と違い、兵農分離がされていませんでした。このため、たとえ信長軍を破って上洛しても、稲刈りの時期になれば兵士を甲斐に帰国させなければいけません。これは、信玄ほどの名将なら分かっていたはずですから、別の目的で軍事行動をしていたのではないでしょうか?

2.信玄自身の健康問題
 ゲーム中に自分でも言っていたように、三方が原前後の信玄は、病に犯されていたようです。こんな状態で上洛しても、信玄が死んでしまえば政権を維持できなかったと思います。

以上の理由から私は、信玄が本気で上洛しようとしていたとは考えていませんが、徳川軍と戦った本当の理由は何か、微々美々さんに教えていただきたいと思います。

メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.34 )
日時: 2005/05/18 14:39
名前: 微々美々

「武田信玄の上洛の意思」について、回答させて頂きますね(今回は多分に自分の見解が入ります)

>兵農分離がされていませんでした
武田軍も軍役衆と百姓身分は”区別されていた”ようですよ^^;
農繁期に出兵をあまりしなかったことは確かだそうですが・・・
山崎一さんの「上毛古戦記」では
「信玄や謙信が天下を取れなかった原因として、兵農分離ができていなかったために農繁期に闘いができず長期戦を苦手としていた。
闘いに敗れ多くの武将を失うと直ちに領国の勢いが衰退する」と解説していますので、謙信さんの仰る理由もかなり有力な説だと思います。

兵農分離
織田信長の兵農分離は”もっと後”のことです^^
1575年頃までは、信長は他の戦国大名と同様、兵の大量動員に努め、諸役を免除するなどして農民からも大量に動員していますが・・・。
なので、信玄公の西上作戦時の時は明確な兵農分離は無かったと考えています^^

2.信玄自身の健康問題
陶龍寺の古文書によると・・・
信玄公は野田城攻めの時負傷を受けた(目に矢が刺さる)そうです。そして信玄は、足助を通り尾張瀬戸(海上)に入り、サクラ池のほとりで山田佐右衛門庄に助けられますが、長い間の高熱の末、他界しました。
このおりの礼金七百五十両、村人一戸あたり十三両を配布し、手厚く埋葬され墓は隠されたとか。その後は信玄公家臣の鈴木(足助の方)が墓を守っていたそうです。
自分も、信玄公の”本当のお墓”と言われる場所を訪れた事があります。
※陶龍寺に信玄公の側室、”あかね”姫のお墓があると聞き、彼女の生涯の一部分でも見聞きできたらと思っていたら、ついでに見つけてしまったわけなのですが^^;
健康問題としては、肺結核・胃がん説が有力ですね^^
その次に言われているのが鉄砲に当たったという説ですが、いずれもはっきりしないようです。
肖像画別人説などもあり、詳細はまだ不明と言うところでしょうか?
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.35 )
日時: 2005/05/18 15:01
名前: 微々美々

上洛について自分の見解も^^
謙信さんと同じく、自分も信玄公の西上作戦は「上洛」目的ではないと考えています。
実際は「駿河」を自身の領土として、上洛の”足がかり”を作りたかったのではないでしょうか?
※信玄は上洛に先駆けて信長と戦えるだけの勢力を築く必要を感じており、駿河侵攻に踏み切ったと思われます。
駿河侵攻のメリットとしては・・・
・安部金山を始めとした金山獲得による財源拡充
・東海道を押さえることにより、上洛時の補給路・進軍路の確保が可能
・海路確保による、貿易、海産、水運、通商による経済基盤の確立→民政策の充実
が考えられますが・・・。

当時の勢力図
北に浅井・朝倉連合軍(約120万石・兵力約3万人)、畿内に本願寺・雑賀衆等の一向一揆及び三好・松永の諸勢力、そして東の武田軍でした。

この時の信玄公の本当の狙いは、徳川軍を粉砕、滅ぼすか配下に収めるかして、”織田軍に脅威を与える”ことではなかったかと思います。
※信長との”直接決戦”は考えていなかったと思います。何しろ「強きを助け、弱きを挫く」を地で行く戦略が信長の良いところでもあったので、信玄公はそんな信長に対し、無駄に兵力を消耗する戦を仕掛けないと思うので・・・

西上作戦の不味かったところ
駿河の外交工作も念入りにやっていたことですね・・・。
相模の北条氏政と同盟を結んだり、また、本願寺と意思の疎通を図り、越中や北関東の豪族を取り込んで謙信を牽制したり、さまざまな外交工作を綿密に張り巡らせて、1571年、ようやく信玄公は西上の途についた訳ですから・・・。
とは言え、コレばかりは仕方ないですね^^;
北条・上杉に囲まれた状態では気軽に「京見物」というわけにも行かなかったでしょうし^^
このぐらいでしょうか。あまりまとまりが無く申し訳ないのですが・・・。
「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.36 )
日時: 2005/05/18 17:30
名前: 孫悟空2
参照: http://linking.sakura.ne.jp/

┏━━┓                                ┏━━┓
┃掠疾┃                                ┃掠疾┃
┃如如┃                                ┃如如┃ 「主、いずれか有道なる?」
┃火風┃                                ┃火風┃ 「武田!」
┃不徐┃                                ┃不徐┃ 「将士、いずれか有能なる?」
┃動如┃                                ┃動如┃ 「武田!」
┃如林┃            ミ《,M,,》シ             ┃如林┃ 「理法、いずれか得たる?」
┃山侵┃           <ゝ(`∞´)ノ>            ┃山侵┃ 「武田じゃ!」
┣━━┛           彡ミ・д・ミ ミ              ┣━━┛ 「軍令、いずれか行わる?」
┃        ∧_.ヘ     /~( ソ )~ヽ      ヘ_∧    ┃      「武田と織田互角と見る!」
┃       / \※>∩ ./ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ∩<※ /ヽ   ┃      「兵衆、いずれか強き?」
     ∧_.ヘ ・д・ミ /              \ ミ・д・| ヘ_∧        「圧倒的に武田だな」
     / \※>∩ ./                \ ∩<※ /ヽ        「士卒、いずれかならいたる?」
   ∧_.ヘ ・д・ミ/                     \ミ・д・| ヘ_∧     「武田じゃ!」
  / \※>∩/                      \ ∩<※ /ヽ    「賞罰、いずれか明らかなる?」
//≡/ ・д・ミ                        \ミ・д・|≡ヽ   「互角かのう」
i^i( ⊃  /                           \⊂  )i^i
| | (  ⌒| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|   )| |
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メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.37 )
日時: 2005/05/19 07:21
名前: ブー

では今川義元の上洛はそれと同じで尾張とるためなんですか
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.38 )
日時: 2005/05/19 14:29
名前: 微々美々

「今川義元の上洛」の目的は?について回答させて頂きますね^^

「信長の戦国軍事学」と言う本を読んだことがありますが・・・
近年の研究によると、尾張出兵自体は、”上洛の意思”を持って合戦に挑んだわけでは無いとされているようですよ。
桶狭間の戦いの研究が進むにつれてハッキリしたらしいのですが・・・
理由は、「桶狭間の戦い」がいわゆる「奇襲戦」ではないとされるからですが^^
事実、史料を見ても、「奇襲」とする説は「甫庵信長記」ぐらいでした。
※江戸時代の書物で史料価値は低いと言われています。
第一級史料の「信長公記」には、「奇襲」の史実はありませんし^^;

少し桶狭間の合戦について義元サイドを。
この時の「桶狭間の戦い」における義元の戦術に「死角」は無かったと自分も考えています。
義元は世間で言われるほどの愚将ではありませんし(人物像は過去スレで述べてあります)、低地に陣を布いたというのも間違いではないかと思っています。
史料では「信長公記」では「おけはざま山」と記されていますし、他の史料には信長が低地→高地にある今川軍を攻撃と記述があるので、義元が定石通りの布陣をしたことは間違いないと思います。
さらに中嶋砦の方向に陣を向けて攻撃に備えてもいました。とても油断があったとは思えないのですが・・・。
兵力の分散を指摘する人もいますが、今回の出兵の目的は後詰の救援と思われるので、信長との決戦など考慮外だと考えています。
主目的は違うところにあるので、兵力分散が油断の証拠というのはいささか違うような気がするのですが・・・。
容易周到に大兵力をもって一挙に5つの付け城を叩く。そして当日の布陣も備えは万全。今川義元に油断も無ければ死角も無かったと思いますよ。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.39 )
日時: 2005/05/19 14:30
名前: 微々美々

義元の尾張出兵の根拠
・三河・尾張国境付近への示威的軍事行動
※「今川家の格の違いを・・・見せ付けてやるのぢゃ! 」from「戦国無双」ですかね^^
・西尾張方面までを奪取して併合する目的
・今川方の鳴海城奪取→後詰の救援目的→現在最有力説と言われている「鳴海城―大高城確保説」のこと
(鳴海・大高城への補給と、織田方封鎖の排除)

上洛説の否定根拠
・第一に上洛目的の工作をした形跡がない
・京の民衆に対する宣伝工作もない
・信頼できる史料に明記されていない(上洛の記述があるのは「甫庵信長記」や「武功夜話」のみ。
第一級史料「信長公記」には記述なし)
・この時家督を氏真に譲っていた

上洛説の根拠
・当時今川は、北の武田信玄、東の北条氏康と同盟を結んでおり、後顧の憂いが無く西へ向けての経略に専念できた。

大体こんな感じにまとまっていますね・・・。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.40 )
日時: 2005/05/19 17:38
名前: ブー

そんなんですか
よくわかりましたありがとうごじいます

メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.41 )
日時: 2005/05/19 19:42
名前: ブー

まちがいましたありがとうございますです
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.42 )
日時: 2005/05/19 21:14
名前: ブー

あのぱーと3はどこにあるんっでしょうか
さがしてもみつかりません

メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.43 )
日時: 2005/05/19 22:19
名前: 微々美々

ぱーと3はどこに・・・?ですが、
実は・・・
スレの書き込み数が”100件に達した”ので、どうも自動的に「過去ログに移動」してしまったらしいですね^^;
案内をすっかり忘れていました。
大変失礼いたしました^^
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.44 )
日時: 2005/05/20 07:09
名前: ブー

教えてくれて、ありがとうございます
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.45 )
日時: 2005/05/21 12:04
名前: 謙信

返信が遅くなりましたが、毎回詳しい情報を
教えていただき、有難うございます。
信玄の西上作戦に上洛の意思は無かった
ようですし、兵農分離もずっと後だったようです。
それにしても、今まで教科書やドラマで見てきた
歴史というのは、嘘や曖昧な情報に基づいて
作られていたと思えてきましたが、微々美々さんは
どう思いますか?
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.46 )
日時: 2005/05/21 15:22
名前: 微々美々

「今まで教科書やドラマで見てきた歴史」について、自分なりの考えを・・・

教科書で教えられる歴史の史実、ドラマで展開される史実の解釈はあくまでも「史実の一部分」である、と考えています。
※子供の時はドラ○もんの「タイムマシン」があったら、当時の歴史を見聞出来るのに・・・などと真剣に考えたこともありました^^;


事実、自分が小学生の頃教わった「1192(いいくに)作ろう鎌倉幕府」の年号語呂合わせは、今では間違いですし(今は頼朝の征夷大将軍襲名の年号として教科書では紹介しています)、時代の流れによって自分の知る歴史の史実の解釈が変化していくのは”仕方のない”ことと思っています^^;

ですが、自分なりに当時の歴史について考えるきっかけになる事もまた然りだと思います^^
あるいは、ドラマから歴史が好きになったとか、登場する武将が好きになったとか、そうした事もあるのではないでしょうか?
※史実は意外と残酷な面もありますので、自分のイメージが覆される事も多々ある訳ですが^^;
こんな感じですね・・・。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.47 )
日時: 2005/05/24 15:52
名前: ゆん

こんにちは、始めまして。
最近決戦3を始めまして、色々気になった事があったので質問させていただきます。

1.蒲生氏郷。この人の事を詳しく教えてください。
2.光秀の親友とも言えるべき細川藤孝が山崎の戦いに参戦しなかった理由は?
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.48 )
日時: 2005/05/25 02:02
名前: 微々美々

回答が遅くなりました・・・
「蒲生氏郷」について回答させて頂きますね^^

会津領主。近江国日野城主蒲生賢秀の子です。13歳の時織田信長の人質に。
しかし、信長にその才を買われ次女冬姫を妻に迎えています。
本能寺の変で信長が亡くなると秀吉と信長の弔い合戦で戦功をあげました
※このとき安土城より安土殿(帰蝶の事だとか)を脱出させています。
天正18年(1590)小田原討伐の功で豊臣秀吉より会津拝領となり、秀吉の奥羽仕置を助けました。
文禄元年(1592)黒川城を七層の大天守閣として鶴ヶ城と命名。郭内の町屋敷を郭外に移し新しい町つくりを行っています。
また地名を若松に改め、酒・漆器などの殖産政策を行った人でもありました。
またキリシタン大名としても知られ、茶の道でも利休七哲の一人に数えられています。
しかし40歳の若さでこの世を去ってしまいました。
ここまでが「簡単」な紹介です^^

逸話がたくさんある人なので、多めに紹介しますね^^
武勇伝
天正15年(1587)の九州攻めの巌石(がんせき)城合戦(福岡県田川郡)では、苦戦していた秀吉の命令を受け、難攻不落といわれた巌石城を攻め、見事落城させて勇名を上げました。
この合戦では銀鯰尾(ぎんなまずお)兜の氏郷が、弾丸の飛び交う中、一騎先頭をきって敵陣へと単騎駆けを行ったそうです。
駿馬を駆りながら得意の矢を幾重にも放って進撃する氏郷。この大胆不敵な勇姿を見た兵たちは多いに志気をあおられて、「氏郷殿に続け、遅れるな。」と後を追って突撃し、みごと巌石城を落としたそうです。

頑固親父も思わず納得?
信長の前では、毎回武辺(武勇伝)の話があったそうです。
氏郷は13歳の若さで常にその席に参加していました。
話が深夜に及んでも、飽きることなく、一心不乱に語るものの口元を見つめていたそうです。
稲葉一鉄(一徹者の語源になった人)はこの様子を見て「蒲生の子は並の者ではない。彼がひとかど優れた武勇者にならなければ、
他になるものがあるまい」と言ったそうです。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.49 )
日時: 2005/05/25 02:07
名前: 微々美々

人を見る目の確かさ・・・氏郷>秀吉?
玉川某という世間で評判の智者がいました。
氏郷はこの人物を紹介されこれを雇います。
最初は大いに喜んで10日ほど夜話に彼を迎えたが、その後追い出してしまったとか。
家臣が不思議に思い「謀臣にでもご登用なさるかと思っていたが、暇を出したのは何か考えがあったのか」と尋ねます。
これに氏郷は「世の智者というものは、見てくれだけで言葉巧みに人の目をたぶらかすものに過ぎない。今の世は文字に暗い時代だからこのような者が智者に思えてしまう。
奴は最初自分を大いに誉め、次に諸将をそしり、自分に気に入られようとした。また交友のよいことを並べて自分を良く見せようとした。このような人物は智者だとしても、身辺に置くにはよろしくない。だから暇を出したのだ」と答えました。
その後玉川某はその後他家に仕えますが、忠臣を退け、おのれの威を振るったので、その家は衰退していったそうです。

人の上に立つ者は?
氏郷は常々こう言っていたそうです。
家臣には、「主将たるもの人を使う時は自ら先頭に立たねばならぬ。後ろから、ただ、かかれ、かかれというだけではうまくはいかぬ」と言い、
新参者には「わが旗本には銀の鯰(なまず)尾の兜をいただき、先陣に進むものがいるから、この者に劣らぬ働きをせよ」と言っていました。
人は一体誰だろうと思っていると、まさにそれは氏郷自身であったそうです。

実は女性の敵?(申し訳ありません^^;)
信長亡き後には妻・冬姫の妹を、養女として引き取って秀吉の側室に送り込み(三ノ丸殿)、
さらに自分の妹・とらを秀吉の側室とし(三条殿)、秀吉との関係を強化しています。
また自らの娘を前田利家の次男・利政の室にするなど、閨閥も大いに利用していました。
こらー^^;

次の天下人はワシだ!!from「戦国無双」
聚楽第で諸大名との雑談の中でのことです。
秀吉の後継者についての話題が出た時に、「徳川家康」という意見を退けて「前田利家である」と言い放ち、「利家がダメなら次は自分の天下である」と豪語したそうです。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.50 )
日時: 2005/05/25 02:10
名前: 微々美々

”獅子”の瞳が輝いて♪
彼はクリスチャン大名でもありました。
イタリア人宣教師を家臣に迎え、ローマヘ使節団を送ろうとしたほどの熱烈なキリスト教信者でもありました。
そんな彼の洗礼名は「Leon(レオン・レオ)」です。
彼の資料館の名前も「レオ氏郷南蛮館」と言います。なかなか良いところですよ。

実は前田家と仲良し?
本当です^^
前田利長とは義兄弟とも思えるほどの間柄だったとか。

秀吉君、思わず「なぁ〜むぅ〜」^^
秀吉君が日野城に立ち寄り、冬姫に会った時の事です。
秀吉君は、戦国一の美女お市の方と重なり合う冬姫の姿が忘れられなくなり、冬姫の夫・氏郷が病死したのをきっかけに上洛を強要しました。
しかし、冬姫もまたお市の方と同じく気丈な女性であったとか。信長の下人であった、そんな男の為に都へなど!と拒み続けます。
その後蒲生家に災いが及ぶと心配した家老に説得され、仕方なく京都へと出発しました。
がっ、しかし!
そこで、秀吉君が見た冬姫は、黒染めの尼衣をまとい、手には念珠が握られていました。
なんと”尼”になっていたのです。コレには秀吉君も内心”怒り心頭”でした。
秀吉君は、怒りを抑え悔しさを隠し、その場をなんとかとりつくろい表面上は礼を尽くしてもてなしたそうですが・・・
その後蒲生家を一挙に五分の一の石高に落として、振られた鬱憤を晴らしたそうです。

茶の達人?
氏郷は、茶道に強い関心を持っていました。
利休が、秀吉の怒りを買い死を命じられた後、その子である小庵を匿っています。
茶道が途絶えることを惜しんだ氏郷は、三年後、千家復活のため家康と一緒に、
秀吉に働きかけました。これにより小庵は、秀吉に許され千家を復興することに。
茶道は小庵の子、宗旦にひきつがれ、3人の孫によって表、裏、武者小路の三千家が興されたそうです。
ちなみに・・・
小庵の茶室に麟閣と言う室がありますが、これは氏郷への感謝のために作ったとされています。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.51 )
日時: 2005/05/25 02:14
名前: 微々美々

細川藤孝の山崎決戦不参加の理由

義理人情説として、
藤孝にとって織田信長とは、一幕臣から丹後国主にまで取り立ててくれた主君であり、裏切れないとするものがあります。

しかし・・・
かなりヒドイ説のほうが多いようです^^;
・聡明な藤孝は光秀に天下人としての器量があると考えていなかったとする説。
事実秀吉にも重用され、秀吉の死後はいち早く、忠興を補佐して家康に接近している事が理由だとか。

・情報収集に長けていたため、負け戦には参加したくなかったとする説。
事実、細川家は愛宕山の修験者を情報源としていました。
本能寺の変のときは、細川家家臣米田求政の家来で早足の持ち主早田道鬼斎(1時間に11キロも歩く)が、洛中相国寺門前の米田の屋敷で察知した光秀謀反の知らせをもたらし、「変」勃発後6時間あまりの速さで藤孝はこれを知ったそうです。
と同時に、藤孝は備中高松における講和と 秀吉の動向をつかんでいました。明智光秀に味方しなかったのはそのためとも言われています。
裏付けとして、
播州三木城(兵庫県三木市)前野長康(秀吉家臣)は6月2日午後10時半に藤孝より密書が届き、信長の最期を知らされたそうです。
長康は秀吉に、「藤孝が光秀より同心の誘いがあったが、これに合力しない旨の心底を告げて来たので、まず丹後は味方であろう」との連絡を秀吉に速報しています。(「武功夜話」)
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.52 )
日時: 2005/05/25 02:15
名前: 微々美々

「変」後、光秀が藤孝に出した文書は偽物?
真偽は不明ですが、「私と一緒に戦ってくれ」との申し入れ文書は、光秀の文字でなく、又、花押(かおう)もおかしいと言われており、光秀の花押ではなく偽造であるらしいと言う説があります。

「愛宕百韻」の謎?
光秀が愛宕参詣のおりに詠んだ「愛宕百韻」に、細川藤孝も参加するはずでしたが、藤孝は参加しなかったそうです。
ときは今天が下しる五月哉(光秀)
から
脇句の、水上まさる庭の夏山(行裕)
と続き、
三句の花落ちる池の流れをせきとめて(紹巴)
が一連の流れですが、実は・・・
この脇句の行裕の句は、1年前に丹後宮津で藤孝が詠んだ句、
「夏山うつす水のみなかみ」のひっくり返しの句であることはあまり知られていません。
実は本能寺の変の後・・・
藤孝と里村紹巴と吉田兼見とが密談して、「今度の仕合(しあわせ)、あらあら相談しおんぬ」(兼見卿記:天正10年7月6日条)と述べています。
光秀とは懇意であったが秀吉に処罰されなかった幸運を喜び合ったものだと思われます。
そして藤孝と紹巴は、7月20日頃に本能寺において、信長追善の百韻連歌会を開催しています。
いうなれば紹巴も、光秀とも実に親しく、愛宕神社の愛宕百韻にも参加し、本能寺の変の当日に二条御所で、誠仁親王脱出のための輿を用意したりして、
変を予測していたような行動をしているので、自分としてもちょっと不思議なのですが・・・。
大体このぐらいですね・・・。
長文で大変申し訳ないのですが^^;
メンテ

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