Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.13 ) |
- 日時: 2005/05/07 08:03
- 名前: 謙信
- 微々美々さんに聞きたいことがあります。
それは長篠合戦についてです。
教科書的には信長が鉄砲隊を3隊に分けて連射を可能にし、武田騎馬隊をあっという間に倒したことになっています。しかし、私の得た情報では武田軍は合戦当日に数時間戦ったそうですし、これでは連射された割には生き残った時間も長すぎます。さらにゲームにも出てくる武田武将の馬場は織田軍がなかなか倒してくれないので、自分を早く倒すように叫び続けたそうです。
疑問はまだあります。それは数年前のNHKでも取り上げていたのですが、合戦当時の長篠周辺の田んぼには水が満たされた状態だったので、人が歩くのも難しいかったそうです。まして騎馬隊が突進するのは不可能だったと、番組でも結論していました。
まとめますと、長篠合戦で信長が勝利した原因は鉄砲連射ではなく、勝頼に絶望した信玄恩顧の重臣による「集団自殺」ではないかというのが私の得た結論ですが、微々美々さんの見解をお聞きしたいと思います。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.14 ) |
- 日時: 2005/05/07 12:31
- 名前: 微々美々
- 「長篠合戦」の概要と、自分の見解をあわせて回答させて頂きますね。
「長篠合戦」(ご存知かと思いますが・・・) 現在は「設楽が原の戦い」とも言われています。 有名な鉄砲3000丁と3段撃ちが出てくるのは、江戸時代に小瀬甫庵が書いた「信長記」です。 「甲陽軍鑑」には長篠での騎馬軍団突撃説は織田方が宣伝したもので、現地の地形からしてもそれはなかったと主張しているそうです。 また騎馬軍団ですが・・・ 故黒澤監督の映画がモチーフではないのでしょうか。 実際、宣教師のルイス・フロイスは「騎馬武者は西洋では騎乗したまま戦うが、日本では騎馬から降りて戦う」と記しています。つまりほとんどの武田軍将兵は”下馬して突撃を行っていた”と思われます。 また、「甲陽軍鑑」にも武田軍将兵の詳細な記載があります。
そして戦いそのものですが・・・ 長篠の戦いが、実は「八時間に及ぶ激闘」だったことが知られています。 「長篠合戦図屏風」で描かれている通り、槍兵が馬防柵の前で武田軍と一定の戦いを行い柵の近くに誘い込んだ後鉄砲隊が射撃を行い武田軍が退却、というのが延々と八時間繰り返されたのではないでしょうか。 五月二十日深夜、酒井忠次率いる三千の奇襲部隊は廣瀬を渡り、吉川の住人・豊田藤助を案内に船着山を越え、二十一日未明、鳶ケ巣砦(とりで)の武田軍に対して一気に攻めかかったそうです。久間、中山、姥ケ懐、君ケ伏戸などの砦も次々と陥落、 武田軍の退路は塞がれました。 また、「設楽が原は煙が篭りやすい地形である」と言われています。 鉄砲壱〇〇〇丁による射撃と、その煙はどれほどの脅威だったのでしょうか?
実は馬防柵も破られた? 「本多家武功聞書」に「本多忠勝の陣所へ武田軍の内藤昌豊の千五百人の部隊が攻めかかり、三重目の柵を乗り越え二十四人が押し込んだが、撃退した」とある他、江戸前期の幾つかの武家の先祖の武功の書上などに柵が破られた話 があります
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.15 ) |
- 日時: 2005/05/07 12:32
- 名前: 微々美々
- 武田騎馬軍団について自分が知っている部分も載せておきますね^^
武田軍の強さというのは、騎馬戦術が優れていたからではなく、優れた軍制と指揮系統、それによってもたらされる変幻自在の陣形というところにあり、ゆえに野戦で無類の強さを誇ったといいます。 「甲陽軍鑑」より武田信玄の上洛出陣直前の総兵力の内、馬上は約9000騎強、侍・足軽が6000人強でした。馬上には4〜6人程度の歩兵が付き添っていたので、少なくとも戦闘員は約50000〜60000人いたと考えられます。そのうち、約9000強は馬上ですので、約18〜20%、つまり、通常の軍団でも2割近くが馬上であるのではないかと考えられます。(他家の倍の量と言われています) つまり他家の兵が武田軍と戦う時はほぼ騎馬隊と当たる計算になるので、これが武田騎馬軍団の元ネタなのではないでしょうか。
もうひとつの武田軍の戦い方の特徴は集団戦法です。これは、「抜け駆けの功名」を禁止し、常に兵科単位、備単位、つまり、必ず集団で動くことを徹底した戦術です。一糸乱れず整然と立ち並び、常に集団で動く武田軍は風林火山の理念に基づくかのような動きであり、どんな戦況でも整然と集団で動くため無類の力を発揮するのです。バラバラと評された三方ヶ原の戦い時の徳川軍はこの点「集団戦法」でも大きく劣っていたのではないかと推測されます。 最後に細かな点ですが、武田軍は相手を殺すことに着目せず、敵の指や足元を攻撃するように徹底していました。兵力を削ぐのではなく、戦力を削ぐ方法は剣の戦いでも有効と言われています。 (まともに斬ると刀の腰(反り)が伸び、使えなくなること、また刀に血脂が付き、切れ味が鈍るため単純に敵の耳、指を切り飛ばし、戦意喪失させるほうが早いため)
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.16 ) |
- 日時: 2005/05/07 12:35
- 名前: 微々美々
- 勝頼の悲劇?
元の名を諏訪四郎勝頼といいます。 母は、信玄の側室諏訪御料人(諏訪頼重の娘。天文11年(1542)父頼重が信玄に滅ぼされたのち、信玄の側室となる。天文15年勝頼をもうけるが同23年?(1554?)に没。新田次郎さんの小説「武田信玄」では湖衣姫)です。 母が諏訪氏である勝頼は家中から白眼視されている上、諏訪氏は南信濃の豪族で信玄によって滅ぼされた一族。その滅ぼされた家の娘と信玄の間にできたのが勝頼だった訳ですから、そのような生い立ちから彼は「武田に災いを為す不吉な存在」として疎まれていました。信濃の豪族を懐柔するため諏訪姓を名乗っていたことも、不幸であったと思います。所詮は「敵の子ども」である。そんなものを諏訪一族とは誰も認めなかったようです。
また、不出来の人物とか”あまりな”評価を受けている勝頼ですが、近年の研究によると、実は有能な人物だったと言われています。 勝頼嫌いの史料として知られる「甲陽軍鑑」ですら、「気が短くなることもなく、騒ぎたてることもない。いかにも静かで奥が深いように見える、利根過ぎたる大将」として勝頼の才能を一応は(笑)認めています。 また、彼の活躍ですが、天正二年(1574)勝頼の進撃には目覚ましいものがありました。東美濃に進撃すれば織田方の支城を一度に18も攻め落とす勢いを見せ、家康の遠江では、信玄でさえも落とせなかった要害・高天神城を攻め落としています。この城ですが、「高天神を制すものは遠江を制す」と言われた戦略上の重要拠点だったそうです。 これを見た信長による勝頼評として、謙信に当てた書状の中に「四郎は若輩に候といえども、信玄掟を守り、表裏たるべくの条、油断の儀なく候」と記しています。 その翌年には、徳川家の家臣である大賀弥四郎に主家の簒奪を働きかけたとも言われ、計画そのものは事前に白日の下にさらされ、弥四郎は極刑に処せられましたが、一般に言われているような猪武者ではなく、勝頼の謀略家としての一面を伝えるエピソードと言えるのでは?
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.17 ) |
- 日時: 2005/05/07 12:46
- 名前: 謙信
- 素早い解説ありがとうございます。
微々美々さんのおっしゃるように、長篠は教科書の言ってるような戦いではなかったようです。勝頼の力量も世間で言われているほど無能ではないようですし、後世の学者の通説に長い間一杯食わされていたのかもしれません。
今後も疑問が出たときはよろしくお願いします。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.18 ) |
- 日時: 2005/05/07 12:50
- 名前: 微々美々
- 余談で、ゲームで聞ける勝頼の台詞に逸話があるので紹介も^^
勝頼は長篠合戦の軍議が平行線の袋小路に迷い込んだ時、決戦にのぞむ決断を下しました。そして「御旗楯無、ご照覧あれ」の言葉を口にしたという逸話があります。 御旗は平安の頃から伝えられる源氏の白旗で武田家の家宝である。楯無の鎧もまた、重代の家宝だった。この二つの前で誓った言葉は決して覆せないと言うのが、武田家の不文律であったといいます。 「御旗楯無、ご照覧あれ」の台詞ですが・・・ 甲斐平定戦で勝頼に接近すると聞くことができます。 楯無の鎧は装備品として入手可能ですし^^;
武田家の滅亡の原因が勝頼であると思われがちですが・・・ 武田氏が滅んだのは”勝頼の無能のせい”ではありません。むしろ、内部崩壊というのがぴったりで、穴山梅雪、木曾義昌といった武田家の親戚筋に当たる武将まで悉く信長の調略を受けて寝返ったことこそ原因かと。 所領にしても、勝頼が獲得した石高は10万〜20万石。武田家の元の石高で130万石。ちなみに信長の所領の石高はこの2倍以上は優にあったといいます。 つまり、このときの状況が勝頼にとって不利であったことも原因のひとつではないでしょうか。 (周囲を北条・徳川に囲まれていたこともありますが) 最後に自分の見解は・・・前時代の戦術が、近代戦術に代わったきっかけを両者が意図せず作り出したものと考えています。また、勝因は「大坂冬の陣」にもあるように、真田幸村が築き籠った真田の出丸の戦闘にて、真田丸よりの”一斉射撃”によって大勝した事実もあるので、これが勝因かと。謙信さんの見解も、自分としては納得のいくところがありましたので、非常に参考になりました。 あまりの長文で申し訳ないのですが・・・。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.19 ) |
- 日時: 2005/05/07 13:00
- 名前: 微々美々
- 「くるわ」って何?について回答させて頂きますね。
曲輪とは、縄や塀などで囲まれた場所のことです。 簡単に言えば通路と考えて頂いてもよろしいかと思います。 時代劇によく登場する遊郭も「くるわ」といいますが、”囲まれた範囲”で営業していた点では、城の曲輪と同じ意味をもっています。 ※遊郭自体の真実はとても悲惨ですが・・・ 「生きては苦界 死しては浄閑寺(遊女の死体の投げ込み寺)」と江戸の川柳に歌われるほどだったっとか。
近世の城郭(名古屋城や大坂城など)で本丸や二の丸とか言われる場所ですが、中世の城郭ではその言葉は使われません。近世の城郭では当時から○○丸という名前がつけられていたようですが、中世の城郭でも名前のついている曲輪もありますが、地域によって様々なので基本的に曲輪という言葉を使っています。ただし、本丸にあたる中心的な役割を持つ曲輪は主郭と呼ばれていますよ^^
ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.20 ) |
- 日時: 2005/05/07 14:09
- 名前: ブー
- ありがとうございました
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.21 ) |
- 日時: 2005/05/07 19:44
- 名前: ブー
- ゲームにでる蜂須賀ていは現実にいたんですか。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.22 ) |
- 日時: 2005/05/08 13:10
- 名前: 微々美々
- 回答が遅くなりまして、申し訳無いのですが・・・
ご質問の「蜂須賀てい」は”蜂須賀党”のことでしょうか? 一応、蜂須賀党の事として、回答させて頂きますね。
実在の野武士集団です。また、川並衆と呼ばれる土豪集団でもありました。 実は信長の鉄砲の師の橋本一巴は、元は蜂須賀党の出身というのは、あまり知られていません^^
成り立ち 美濃と尾張に国境に流れる大河は木曽川と呼ばれ、古くからその周辺には川に生きる人がいました。 人々は川並衆と呼ばれ、その力は合戦時は戦局を左右する程であったそうです。 今でこそ川並衆と呼ばれていますが、かつては水運に障害をもたらす川賊(野武士)と呼ばれ恐れられていましたが、水運の重要性を持っていた有力土豪生駒家により、木曽川周辺の川賊をまとめ川並衆と呼ばれる集団に作りかえられた経緯があります。
史実への登場 川並衆が歴史の表舞台に登場してくるのは、木下藤吉郎が信長の命で、東美濃調略に着手した頃からです。 永禄七年(1564)藤吉郎は川並衆に対して信長に従属することを説き、東美濃調略に協力してくれることを依頼しました。こうして、蜂須賀小六は秀吉の手に属し、かれは美濃の郷士に知り合いも多く、藤吉郎の活動を大いに援けたそうです。最初の経略目標は大沢基康の鵜沼城、多治見修理の猿喙(さるばみ)城でした。このとき、美濃加納口に勢力を有し松倉城の城主であった坪内氏も小六らの経略によって美濃方から離れて秀吉に従っています。 坪内氏は実のところ、川並衆の前野氏とは縁戚の関係にあり、小六・前野氏らが動かないかぎり織田方には属さず、美濃・尾張の国境にあって微妙な立場を続けていたとか。 以後、秀吉を介して川並衆は織田氏に属するようになりました。同年、小六、前野をはじめ坪内惣兵衛らは藤吉郎に協力して、稲葉山城角櫓を爆破、惣兵衛は新加納に砦を築いています。 九月になると、佐々成政らが挑んで結局成功しなかった墨俣に城を築くことに藤吉郎が成功しました。この築城には、川並衆として木曾川を熟知した蜂須賀・前野・坪内らが大活躍。 以降、川並衆は藤吉郎の下、織田信長の合戦に参加して各地を転戦することになります。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.23 ) |
- 日時: 2005/05/08 13:17
- 名前: 微々美々
- 余談も^^
藤吉郎と小六と吉乃の取り持つ縁? 武功夜話に記述のある話です。 「この人(藤吉郎)弘治元年の夏越方の出会いと承るなり。尾州小折村の生駒屋敷、雲球宅(家長)に候。蜂須賀小六殿、雲球屋敷で見知り、不審の儀もこれあり、乱波の類(間諜)にて候わずや、風体は無類の輩の如く小兵なれども武芸あり、兵法の嗜も深く得体知り難し、仕切りに小六の稼ぎ好み候なり。やむなく小六殿宮後屋敷に伴ひ、出入り御用に足し候。彼の者、 信長公に奉公の濫觴は久庵様(吉乃)御口添えあるによる所、多大なり。久庵様の前少しも憚らず、色話もしばしば、生来の利口者なば、久庵様の御機嫌取ること巧みなり。」 実は、ゲームと異なり、吉乃が”秀吉”を見込んで 信長に引き合わせたようですよ・・・ (もしかすると、ゲーム中で藤吉郎の売っていた大橋・幸村人形が気に入って、信長に”買って、買って”と駄々をこねていたかもしれないですね^^) 藤吉郎と小六は生駒屋敷以来、お互い人生観に共通する面を感じ、深い友情で結ばれ、藤吉郎は小六に力を借りることになります。 決して「ゲーム」でのような、「貸した金返せよ♪」の問題ではありませんでした。 「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.24 ) |
- 日時: 2005/05/08 13:58
- 名前: ブー
- 間違えてすみません。ありがとうございます。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.25 ) |
- 日時: 2005/05/11 22:33
- 名前: ブー
- ゲームの本能寺の変で、光秀の上から木材が、おちてきましたが、光秀は生きていました。どうやって、生きのびたんですか「やっぱりゲームだからですか。」
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.26 ) |
- 日時: 2005/05/12 12:15
- 名前: 微々美々
- 回答が遅くなりまして、申し訳ないのですが・・・
ゲーム中で、光秀がどのように生き延びたか?について回答・・・ではなく、自分なりの見解を。
ムービーを見返して見ましたが、ブーさんの仰る「材木直撃」のシーンは残念ながらありませんでした・・・。 正確には、崩れた公方様屋敷をバックにたたずむ光秀君、といった感じです。
脇を忍びが固めていましたが・・・ ゲーム的に考えると、ペドロの手の者かも^^ ※理由は、ペドロの武将系統が”忍者”だからです。ニンニン^^ または・・・ 光秀君自身が武将特技”土遁”を習得していることから、案外”地面に潜ってやり過ごしていた”のかもしれないですね・・・。
非常に”面白い”ご質問だったと思います。 こちらも真面目に歴史上の脱出術などを調べてみましたが、これといった説もなかったので、”ゲームらしく”考えてみました^^;
「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.27 ) |
- 日時: 2005/05/12 20:51
- 名前: ブー
- 京烙決戦の二番で、光秀が生きのびたのは、わかりましたが、ゲームの本能寺の変で、光秀が帰蝶お鉄砲で、うって、そして本能寺が焼き落ちてきているとき、光秀が、「燃えよほのうわが本能まで、燃えよ。」と言っていいましたが、どうやってたすかったんですか。「長くなってすみません。」
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.28 ) |
- 日時: 2005/05/12 21:41
- 名前: 微々美々
- ゲームの本能寺の変での光秀君がどのように生き残ったか?
を自分なりに考えてみました^^
>「燃えよほのうわが本能まで、燃えよ。」 正しくは、「燃えよ炎、わが”煩悩”まで、焼き尽くせ・・・」ですね^^;
10章・岐阜城奪回戦で斉藤利三が、光秀君の怪我について”心配する”イベントが入りますが、ここから推測すると、斉藤利三の手の者により救出されたと推測しています^^ ”脱出経路”は信長たちと同じ経路を使用したのではないでしょうか。
光秀君の傷が”致命傷”ではなかったこともあるかも知れないですね^^ 推測の理由としては、戦国時代の太刀戦術があるからです。 戦国時代の刀(太刀)の戦闘方法を簡単に載せておきますね・・・ 甲冑を装着した武者の戦闘方法は、ただ刀を振り回せばよいものとは異なり、介者剣術と呼ばれています。 深く腰を落とした姿勢から、目、首、脇の下、金的、内腿といった装甲のすきまとなっている部位を突斬りで狙うようなスタイルでした。 現在に残る剣術とは大きく異なっています。 甲冑武者同士の戦闘は最終的には組討による決着に至ることが多く、ここにおける技法が柔術で、今日の柔道のもとになりました。 ムービーのように、女性の力で簡単に突き通せる鎧は無かったそうですよ・・・。 でも、この時の帰蝶はとても”凛々しく”、カッコイイな・・・と思いますが。
”煩悩”は焼き尽くされたか? 10章以降のムービーを見る限り、自分としては、それまでの”帰蝶一筋”光秀君から、戦国の最大の業(あるまじきもの)信長を滅ぼし、世に太平をもたらす英雄として生きようとした、とも考えられますが・・・ 「戦国無双」にも共通しますが、現世(うつしよ)を守りたかった光秀君、乱世を収束、新しい世を作りたかった信長君としてコーエーは描きたかったのではないでしょうか? ※あくまでも自分の感想なので、皆様それぞれに思い入れはあると思いますが・・・。
たまには、史実から離れたご質問もいいものですね^^ 「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.29 ) |
- 日時: 2005/05/12 21:48
- 名前: ブー
- ありがとうございます。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.30 ) |
- 日時: 2005/05/15 09:34
- 名前: ブー
- 信長は、小さいころ、徳川家康の脱走をてっだていたことが、あったのですか。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.31 ) |
- 日時: 2005/05/15 18:06
- 名前: 微々美々
- 「信長が人質時代の家康の脱走を手伝った」ことはあるか?
について回答させて頂きますね^^
結論から言うと・・・残念ながら記録はありませんでした。 信長・家康に関する双方の史料を見ましたが、簡潔に「人質となる」の記録があるのみでした。 ただ、”記録に無い”だけで、もしかしたら・・・と言う事はあったかもしれないですね^^
余談として 家康は、元々織田家に「人質」として行ったわけではありません。 元々は・・・ 家康は幼少の頃、松平家の存続の為に、人質として”今川家”に行くはずでした。 しかし、今川家へ向かう途中、家来の戸田康光が”金銭目的”で裏切り、織田家に家康の身柄を渡した(数年後に家康の身柄は今川家に移る)ことがきっかけです。 ※金銭は500貫文とも、1000貫文とも言われています。ヒドイ話ですよね・・・。
・・・少し、英雄の幼少時代について、「厳しい見解」も。 英雄の少年時代に関する物語りは十中の九までは”嘘”話なり。仔細は英雄竜興して雷名一世に轟くまでは大抵の人は未来の将相を認識する能わず。塵埃の中に玉石を同視して何らの注意を払うことなし。”功成り名遂ぐる”に及びて始めて大いに驚き、誰々の幼年時代はしかじかなりなど、尾を付け、鰭を付けて大騒ぎをなす。畢竟するに針小棒大の大間違いにあらざれば小賢しき奴の細工なり。されば”少年時代の家康につきても根も無き作り話”極めて多し。 明治・大正時代の史論家、山路愛山先生の言葉です。 自分の見解としても、”一理ある”話だな・・・と思っています。 確かに、幼少時代の信長、農民時代の秀吉から、その将来を想像するのは難しいですし^^; このぐらいですね・・・。 「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.32 ) |
- 日時: 2005/05/15 19:20
- 名前: ブー
- ありがとうございます。
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