このスレッドはロックされています。記事の閲覧のみとなります。

トップページ > 記事閲覧
決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編)
日時: 2005/05/05 21:49
名前: 微々美々

決戦3「史実」探検スレッドに多くのご質問を頂きましたので、第4弾のスレを立てて見ました。
書き込んで頂いた方や、御覧になって頂いた方、管理人様には本当に感謝しております。
(興味のない方には本当に申し訳ないスレでもあるのですが・・・)
前回同様「決戦3」に関わる「史実」「時代背景」の疑問・ご質問であれば、自分の知っているもの、調べて何とかなるものであれば、可能な限りお答えしたいと考えておりますので、どしどし書き込んで下さい。

前回との変更点
・人物についてのご質問については「逸話」のみ回答させていただこうかな・・・と考えています。

・ゲーム中に登場するイベント・台詞等の由来・元ネタのご質問もOKです。

これから決戦3を始める方にも楽しんで頂けたら幸いかな・・・と思っています^^
メンテ

Page: 1 | 2 | 3 | 4 |

Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.1 )
日時: 2005/05/05 22:20
名前: 微々美々

ブーさんより最後に頂いたご質問に回答させていただく形で、こちらのスレの使用法?を載せておきますね^^
「森可成は、ゲームみたいに、柴田勝家に、偉そうな態度おとったのですか。それと、柴田勝家は、ゲームみたいに、力こそがすべと思ってたのですか。」

実は、とても仲の良い間柄でした・・・
利家・勝家・可成の3人は非常に仲の良い武将だったそうです。
利家の逸話から引用を^^
前田利家が信長の家臣・拾阿弥を斬って追放されて以来、それまで親しかった知人は誰も利家の元へ寄らなくなったそうです。拾阿弥に目をかけていた佐々成政とはそれ以来、仲が悪くなってしまう始末。そういう人々が多かった中で、柴田勝家と森可成が、以前と変わらずに利家のもとに訪れていたそうです。

決戦3の序盤では「若武者」を諫める立場に居ますが、史実では、平手正秀がその役割を勤めています。

柴田勝家は単純な猪武者ではありませんでした。それは一向一揆の盛んな越前の経営を任された事実から、明らかとされています。勝家が越前に赴任するとピタリと一揆は収まりましたし、公平な税制や刀狩によって越前の民心に安定をもたらしています。なにより、加賀に兵を進めたときに後方の越前で一切騒乱が起こらなかったことがその証明ではないでしょうか。

ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.2 )
日時: 2005/05/06 10:33
名前: 李小龍

微々美々さん、こんにちわ!
いつも拝見させてもらってます。

色々なメディアで戦国時代の各大名・武将
等のエピソードも紹介されていますが、その中で
どうしても腑に落ちないことがあります。
それは上杉景勝・直江兼続主従の事です。

関ヶ原合戦以前ではあれほど家康に敵対して
また上杉景勝は義をもって豊家に仇なす物は
いかなる事であっても許さない!
と言ってた割には、関ヶ原合戦以降はうって変わって、徳川に対して服従し、直江兼続に至っては
自分の子息を本多正信の娘?と婚姻までしたと
言うではありませんか!

時代の流れには逆らえない?
お家を存続させるには致し方ない?

と言うのも分かりますが、、、、。
でも、上杉は義を重んじる家風です。
最後は義を持って強大な徳川に対して一戦交える
くらいの覚悟はなかったのでしょうか、、。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.3 )
日時: 2005/05/06 18:03
名前: ブー

ありがとうございます。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.4 )
日時: 2005/05/06 18:09
名前: ブー

足利義昭は、ゲームみたいに門お使って、信長軍お袋のねずみにして、信長軍お倒そうとしていたんですか。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.5 )
日時: 2005/05/06 21:53
名前: 戦国マニア

丹羽長秀の逸話は何かありますか??
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.6 )
日時: 2005/05/07 02:06
名前: 微々美々

「義を持って強大な徳川に対して一戦交える」気持ちはあったのか?について回答させて頂きますね。

史実では、かなり食い違いがあるのですが・・・
徳川と対立する気概・・・と言うのであれば「直江状」が有名ですが、これには原本、すなわち兼続直筆のものは存在していません。
(上杉側からの返書を見て、家康が激怒したこと自体は確かなようですが)
「編年文書」「古今消息集」(国立公文書館内閣文庫所蔵)などにその写しが現存するのみなので、真相は不明とされています。
また、兼続の武功戦歴はほとんどありません。
慶長5年(1600)、最上氏との間に戦われた長谷堂城攻めが知られるのみで、石田三成と呼応して家康を南北から挟撃する策を建てた逸話や、家康の非道に対し挑戦状(直江状)を送り付けた逸話についても、真相は不明とされています。
さらに・・・
謙信の死後、一説では景虎に家督を譲るという謙信の遺言を偽造して上杉家を混乱に陥れたり、関ケ原でも百戦錬磨の家康に無謀な挑戦をし、上杉家を滅亡の危機に陥れたことから、上杉謙信の時代に名臣と呼ばれた直江景綱には劣る凡将だともいう意見もあります。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.7 )
日時: 2005/05/07 02:19
名前: 微々美々

謙信公から受け継いだ気骨が身を滅ぼす?
関ヶ原直前の話です。
家康の上杉攻めの軍が西へ帰った時、上杉家の兵達は喜びました。これを見た景勝の家臣、水原常陸介親憲は一人眉をひそめてこう言ったそうです。
「我らを怖れて引き返したと思うのは、家康公を知らなすぎる。諸将を引き連れて西上し石田殿を討ちに行けば、十中八九、石田殿は敗れ去るであろう。その時我が殿お一人でどうやって家康公に勝てようか。こちらへ攻め込まずに軍を返したこと、我々にとっては不幸である」
事実・この通りになってしまう訳ですが・・・

意地を見せる?
大坂の陣では徳川軍として参戦した冬の陣の鴫野の戦い(前半戦・後半戦)のことです。
2倍の兵力の豊臣軍を撃退し、鴫野を奪取しました。その戦いぶりは、諸大名・上方の庶民が「謙信公以来の弓矢の勢い、未だ衰えず」と称賛するほどでした。家康も「さすがは謙信公の血をひく武将、まこと抜群の働きである」と称賛しますが、「子供の石合戦のようなものでござる」と、そっけなかったそうです。

自分としては・・・
景勝は、自分に従って米沢に移る将士はことごとくこれを許し、食禄を3分の1に減じて与えています。越後以来の家臣は、ほとんど去ることなく、六千余の藩士が主君に従って米沢に移り住んでいることから「軍神の後継者」として、義に生きることよりも、人を大事にした君主ではなかったかと思っています。
また、兼続も兜に「愛」を掲げていましたし、「義」よりも「仁」を大切にしたのではないでしょうか?
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.8 )
日時: 2005/05/07 02:23
名前: 微々美々

「足利義昭は、ゲームみたいに門お使って、信長軍お袋のねずみにして、信長軍お倒そうとしていたんですか。」について回答させて頂きますね。

結論から言えば、あれはゲーム上の演出と思われます・・・。

ちなみに当時の合戦はこんな感じでした・・・
1573年、義昭は二条城の堀を掘って、籠城戦の準備をしていました。入京した信長は、京都奉行の村井貞勝の屋敷に先制攻撃をかけた義昭方の行動をみて、講和を求めつつ、上京を焼き打ち二条城を攻囲します。
いったんは勅命講和がなされ、義昭は降伏しましたが、その3ヶ月後山城槙島城に籠城して、最後の戦いを挑んでいます。信長軍団の総攻撃を受け、ついに義昭は無条件降伏し追放されて、室町幕府はここに滅びることに。

どちらかといえば、公方様の方が”史実”でも「袋のネズミ」になっていたような^^;
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.9 )
日時: 2005/05/07 02:28
名前: 微々美々

「丹羽長秀の逸話」について回答させて頂きますね。

晩年は秀吉に加担して主家を追い落とす結果を招いたことを後悔していたともいい、最期には半ば乱心し、切腹して腹腔内の腫瘍を掴み出すとこれを握りつぶして果てたなどと言う凄惨な逸話も伝えられていますが、真相は不明だとか。

「信長公記」には長秀が怪刀・あざ丸を手にしたがために、眼を悪くしたという逸話があります。
詳細を載せておきますね^^
九月二十二日の合戦の際に、無念の戦死を遂げた織田軍の千秋紀伊守はある名刀を使っていました。
この刀は、その昔、源平の合戦が華やかかりし御世に平家の侍大将で盲目となってしまった平景清が使っていた名刀として知られていました。
この名刀の名は「あざ丸」。二十二日の合戦の後に敗れた織田軍の検分をしていた斎藤軍の陰山掃部助は、この名刀を一目見てたちまちのうちに惚れ込み、戦利の品として手に入れていました。この陰山掃部助も、もちろん大垣城攻略戦に参戦しています。そして美濃国西部の牛屋寺に置かれた陣中において、床几にどっかと腰掛けていました。すると、そこへ大垣城内から強弓によって放たれた矢が斎藤軍の陣中に降り注いで来たのです。その中の一本の矢がまるで何者かに導かれるように陰山掃部助の左目に突き刺さり、ようやくのことで陰山掃部助がその矢を抜くと、今度は狙いすましたかのように右目に矢が突き刺さったのです。
こうして遂に陰山掃部助は盲いてしまったそうです。そう「あざ丸」の持ち主であった平景清がかつてそうであったように。
一体どうしてそうなったのかは、不明ですが、この「あざ丸」は、丹羽五郎左衛門(長秀)のもとにやって来ます。名のある刀を得た五郎左衛門は、それはそれは喜んでおりましたが、間もなく眼を患うようになりました。
人々は眼の病に苦しむ五郎左衛門を見て「あの刀は持つ人全ての眼を悪くしてしまう」と噂します。そして五郎左衛門に「熱田様に奉納して、この刀のお祓いして頂くのが一番良い方法であろう」と教えました。五郎左衛門も、この忠告に従い、熱田神宮へ奉納したところ、たちまちのうちに、それまで患っていたのが嘘のように眼がよくなったと記されています。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.10 )
日時: 2005/05/07 02:29
名前: 微々美々

異名は「米五郎左」の他に「鬼五郎左」もありますが、
「鬼五郎左」の由来は現在調査中です・・・(史料が無いので)
残念ですが、「芋」五郎左ではありませんでした^^;

実は羽柴長秀?
本当です。
1581年より羽柴姓を秀吉より賜り、「羽柴越前守」と称しています。

一番の見せ場?
天正9(1581)年に京で正親町天皇臨席のもとで行われた「馬揃え」で、
摂津国衆・若狭国衆らを率いて堂々の一番手を務めています。

ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.11 )
日時: 2005/05/07 07:33
名前: ブー

ありがうございます。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.12 )
日時: 2005/05/07 07:42
名前: ブー

決戦3で小谷城おせめるとき秀吉が「くるわとくるわおぶんだんさせるのです。」と言っていましたが、くるわとはなんですか。
メンテ

Page: 1 | 2 | 3 | 4 |