Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.28 ) |
- 日時: 2005/05/10 20:24
- 名前: 微々美々
- 史料的なものでは・・・
「妙心寺史」に光秀死亡についての記述がありました。 光秀の葬儀の事は不明としていますが、其の13回忌は確かに妙心寺において挙行したそうです。 文禄3年(1594)6月14日の妙心寺の「日単簿」に記載のある話です。 正確には「日単簿」中に「明智日向守光秀法名明叟玄智天正11年6月11日死、13回忌当文禄4年」と記述されています。 これによると、光秀没年は普通の説より1年後れであったことになります。 普通の説では、天正10年に亡くなっているので、興味深い古文書なのですが・・・ また、光秀が生存した“証拠”の一つに、妙心寺の“明智風呂”が挙げられます。 光秀が死んだとされる1582年(天正10)より遅れて、1587年(天正15)に密宗和尚の手によって建てられたとか。 和尚は光秀の菩提を弔うために、光秀が亡くなったことを確認して後に、“明智風呂”を建築したのだと伝えています。
詳細は調べていますが、宇治のお茶商いの商人関連の話に光秀生存を示す話があるので、簡単に。 6月13日おそく、巨椋湖西岸淀城の船着場にたどり着いた光秀を舟に乗せ、巨椋湖東岸の宇治五ヶ庄・岡屋津まで夜陰にまぎれて送り届けたそうです。 光秀はしばらく五ヶ庄のとある土蔵の穴倉にひそみ、時のしずまるまで居たと伝えられています。
以前、「南光坊天海」のスレにも載せたことがありますが、再度載せて置きますね^^ 「天海=明智光秀」説の根拠として、光秀の木像と位牌のある慈眼寺の寺号と、天海の諡名が同じ「慈眼」であることが上げられます。 さらに、比叡山・松禅寺には、光秀寄進の石灯籠が現在でもあります。寄進日は慶長20年(1615年)つまり光秀はすでに死んでしまってるはずの年代です。これは光秀が慶長20年(1615年)まで生きていたことの明らかな物証でしょうか。 また、日光東照宮の近くの中禅寺湖や華厳の滝が見える平らな場所を明知平といい、天海が命名しています。さらに日光東照宮の陽明門の入り口の脇にある二対の大礼服の随身の座像は二対とも着物に明智家の桔梗紋があります。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.29 ) |
- 日時: 2005/05/10 20:27
- 名前: 微々美々
- 光秀の死亡?記録も。
「天正十年夏記」(勧修寺晴豐の日記)天正十年六月十五日条 「(前略)明智くひ勧修寺在所にて百性取候て出申候。本能寺ニむくろト一所首おかれ候。見物衆数しらぬ也。首共を信長はてられ候跡ニならへ候。三千程有之由候。」
「兼見卿記」天正十年六月十六日条 「(前略)向州頸・筒体(ママ)、於本應寺曝之云々、」 と公家の残した日記に記されています。 史実通りであれば天正10年に亡くなっています。
もう1つ。 天海が明智平で残した逸話に・・・ 天海は明智平に来たときに「良い名だ。とても懐かしく遠くの事のようだ」とい う意味のことを言ったという伝説が残っているといいます ちなみに天海は明智平にてあの有名な「かごめ、かごめ」の童謡にちなみ「篭の中の鳥」を光秀に例えたとも言われています。
徳川将軍2代秀忠、3代家光の名について 実は、「光秀=天海」説にもつながる根拠でもあります。 ここで「春日局」の存在から面白い説があったので、載せておきますね。 天海の口利きにより、本能寺の変の大功労者で光秀の家老、斎藤利三の遺子於福(おふく:後の春日局)が重用されました。
天海が春日局に初めて会った時、春日局は「お久しゅうございます」と言ったそうです。 これも「天海=光秀」の根拠の1つでは? (イマイチ”押し”が弱いですが^^;)
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.30 ) |
- 日時: 2005/05/10 20:29
- 名前: 微々美々
- また、家光の母とされたお江(信長の妹お市の娘)にとって春日局(お福)は伯父の敵の娘に当たり、普通なら子供の養育を任せないと思いますが、ここに天海(光秀)と家康の作為がありそうにも思えます^^
実は家光はお江の子ではなく、「お福」の子であり、その父は秀忠ではなく家康だとする説もささやかれていますし・・・。 それ以外には・・・ 春日局は明智光秀の重臣の娘だったので、光秀には敬意を払っていました。 なので、子供の名を「光秀」の「光」をつけて「家光」にしたとも言われています。 また、家康は自分の子に「光秀」の「秀」をとって「秀忠」という名をつけています。
ついでに、明智に関わる人物として、意外な?人も。
それはなんと秀吉の糟糠の妻、「ねね」でした! ねねの実家の浅野氏の祖は、清和源氏頼光流土岐氏で、明智光秀との関係があるわけです。
信長の妻の濃姫も光秀との関係があることを思えば不思議ですよね・・・。 濃姫にもねねにも、「子を授けなかった」神様は何を考えていたのでしょうか・・・ 「決戦3」に登場する「歴史全般(人物史を除く)」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.31 ) |
- 日時: 2005/05/14 15:39
- 名前: ブー
- ゲームにでてくる武田家の家宝盾無の鎧は、じっさいの物なんですか。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.32 ) |
- 日時: 2005/05/14 16:48
- 名前: 微々美々
- 「武田家の家宝楯無の鎧」は実在するか?について回答させて頂きますね^^
ブーさんの仰る通りで、現存します。 実は、自分も拝見したことがあるのですが・・・^^
楯無 唯一現存する鎧で、源氏八領の鎧の1つです。(国宝指定) 自分は、山梨県塩山市の”菅田天神社”に詣でた時に見た事があります。 元の名を「小桜葦威の鎧」と言い、”矢や刀を防ぐのに楯はいらない”という意味から「楯無鎧」(たてなしのよろい)とも呼ばれました。 勝頼が減亡の折、跡継ぎの信勝が元服・鎧着の式をまだあげていなかったため、急いで陣中でこの鎧を着けてすませ、その後、父子で自刃したと伝わっています。 ※武田の家宝にはもう1つ「御旗」がありますが、 こちらは山梨県塩山市の”雲峰寺”に詣でた時に見た事があります。 御旗とは後冷泉天皇が清和源氏源頼義に下賜され、 のち武田家の総領職がうけ継いだ日本最古と伝える「日の丸」の旗を指すそうです。 ※ちなみに、雲峰寺のエドヒガンザクラはとても「綺麗」ですよ・・・
ゲームで聞ける勝頼の台詞に逸話があるので紹介も^^ 勝頼は長篠合戦の軍議が平行線の袋小路に迷い込んだ時、決戦にのぞむ決断を下しました。そして「御旗楯無、ご照覧あれ」の言葉を口にしたという逸話があります。 御旗は平安の頃から伝えられる源氏の白旗で武田家の家宝である。楯無の鎧もまた、重代の家宝だった。この二つの前で誓った言葉は決して覆せないと言うのが、武田家の不文律であったといいます。 「御旗楯無、ご照覧あれ」の台詞ですが・・・ 甲斐平定戦で勝頼に接近すると聞くことができます。 楯無の鎧は装備品として入手できますし。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.33 ) |
- 日時: 2005/05/14 16:53
- 名前: 微々美々
- 余談も^^
ちょうど大河ドラマで「義経」を放送していることもありますし、ちょっと長いですが(毎度恒例?)源氏八領の鎧について載せておきますね。
産衣 別名を「源太が産衣」と言うとか。 産衣は、八幡太郎義家からの源氏重代相伝の鎧です。(現存はしていませんが) 代々鎧の着用初めに用い、義家の子孫、頼朝も初陣の際に着用したそうです。 ここで「源太が産衣」の由来について。 大元の所有者は八幡太郎義家です。 頼朝には曾々祖父(4代前)に当たり、前九年・後三年の役で多大な戦功を立て、武門の棟梁の地位を築いた大人物ですが、 「源太郎義家」の頭の二文字から「源太」=「義家」、「産衣」=「初衣」から、「源太が産衣」は義家が初めて着けた鎧で、恐らくは、元服時に着用したものと思われます。 平治の乱では、「八領の鎧」からそれぞれ、義平が「八龍」、朝長が「沢瀉」を着けたそうですので、単純に、初陣の頼朝にピッタリということで「源太が産衣」があてがわれたと見る方が正しいのではないでしょうか。
薄金(うすかね) 後3年の役のことです。 伴次郎{杖 助兼という剛の者がいました 義家はこの武者に薄金という鎧を着せていたのである。助兼は岸近く攻め寄せていたが、石弓をはずしながら駆けていたところ、あわや当たろうとしたので、首をふって身をたわめたので、兜ばかりを打ち落とされてしまった。兜が落ちた時、本鳥が切れてしまった。兜はやがて失せてしまった。薄金の甲はこの時失せたのである。助兼は深く悼みとしたのであった。 六条判官為義が、張絹の直垂に、薄金という緋威の鎧に、鍬形を打った兜を着けて、連銭葦毛の馬に、白覆輪の鞍を置いて乗っていらっしゃる。との記述もあります。
膝丸 保元物語によると、 為義はこのたびが最期の合戦と思ったので、代々相伝してきた鎧を一領ずつ五人の子どもに着せ、自分は薄金を着けた。源太が産衣と膝丸とは、嫡子に代々伝わるものであるので、下野守(義朝)のもとへと遣わします。 為朝冠者は体格も人並み優れて、普通の鎧は体に合わなかったので着ませんでした。 この膝丸と申す鎧は、牛千頭の膝の皮を取ってとじ合わせたので、牛の精が入ったのだろうか、常に現れて着る者を嫌ったのだとか。なので塵などを払おうとしても、精進潔斎して取り出したそうです。 決戦3では、朝倉義景が装備しています^^
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.34 ) |
- 日時: 2005/05/14 16:52
- 名前: 微々美々
- 八龍
源平盛衰記によると、「銀にて鍬形打たる竜頭の甲を賜はる」とあり、銀にて竜を前に三、後に三、左右に一宛打たれば、八竜と名付たり。とされています。 平治物語によれば、源義平(鎌倉悪源太とも号す。頼朝・義経の長兄。)が八竜という胸板に竜の金物を八つ打ちつけた源氏重代の鎧を着ていたといいます。
月数(つきすう) 保元物語によると、源頼賢が着用していたそうです。 四郎左衛門(頼賢)は紺村濃の直垂に、月数という鎧で、朽葉色の唐綾で縫ったものを着て、二十四差の大中黒の矢を、(矢筈が肩越しに見えるように)頭高に背負って、重藤の弓の真ん中をとって、月毛の馬に鏡鞍をおいて乗ったと記されています。
日数 この鎧の造りに関する記述は無し。 源氏八領の鎧の記述に名前があるだけでした。 自分の史料にも無いので、調べて見ましたが、記述のある資料を見つけられませんでした。
沢瀉(おもだか) 沢瀉は池や沢などに自生する水草の一種で、矢尻状の葉が盛り上がっているので「面高」とも呼ばれています。 沢瀉が群生しているさまは、まるで矢尻を並べたように見えるので、武人に好まれ、勝ち草、勝軍草などとも呼ばれました。 源平時代に沢瀉威の鎧が武将の間に用いられ、「平家物語」には、熊谷次郎直実が沢瀉の文様を刷った直垂を着ていたことが記されています。 決戦3では、毛利輝元が装備しています^^ 「決戦3」に登場する「歴史全般(人物史を除く)」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.35 ) |
- 日時: 2005/05/14 17:50
- 名前: ブー
- あらがとうございます。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.36 ) |
- 日時: 2005/05/18 17:43
- 名前: 孫悟空2
- 参照: http://www.kawaoku.com/index.php/fk5004
- ┏━━┓ ┏━━┓
┃掠疾┃ ┃掠疾┃ ┃如如┃ ┃如如┃ 「主、いずれか有道なる?」 ┃火風┃ ┃火風┃ 「武田!」 ┃不徐┃ ┃不徐┃ 「将士、いずれか有能なる?」 ┃動如┃ ┃動如┃ 「武田!」 ┃如林┃ ミ《,M,,》シ ┃如林┃ 「理法、いずれか得たる?」 ┃山侵┃ <ゝ(`∞´)ノ> ┃山侵┃ 「武田じゃ!」 ┣━━┛ 彡ミ・д・ミ ミ ┣━━┛ 「軍令、いずれか行わる?」 ┃ ∧_.ヘ /~( ソ )~ヽ ヘ_∧ ┃ 「武田と織田互角と見る!」 ┃ / \※>∩ ./ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ∩<※ /ヽ ┃ 「兵衆、いずれか強き?」 ∧_.ヘ ・д・ミ / \ ミ・д・| ヘ_∧ 「圧倒的に武田だな」 / \※>∩ ./ \ ∩<※ /ヽ 「士卒、いずれかならいたる?」 ∧_.ヘ ・д・ミ/ \ミ・д・| ヘ_∧ 「武田じゃ!」 / \※>∩/ \ ∩<※ /ヽ 「賞罰、いずれか明らかなる?」 //≡/ ・д・ミ \ミ・д・|≡ヽ 「互角かのう」 i^i( ⊃ / \⊂ )i^i | | ( ⌒| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| )| | | | ̄(__| | _)
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.37 ) |
- 日時: 2005/05/20 07:08
- 名前: ブー
- 明智城救出戦で、勝利条件を見ると、明智城の周辺で、謎の盗賊団が、出るらしいと書いていましたが、出ませんどうしたらでるんですか。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.38 ) |
- 日時: 2005/05/20 07:24
- 名前: 謙信
- 謎の盗賊団とは石川五右衛門のことですが、出すのはそんなに難しくありません。
合戦中盤にある3段構えの柵の中にいる武田軍の 高坂を倒すと、信長軍が最初に入ってきた門の所 に出てきます。そして、中に入った五右衛門は その場に留まって信長軍の来襲を待っています。 五右衛門は信長軍を追ってこないので、部隊を1つ残しておく必要があります。忍者隊なので人数こそ 多いほうではありませんが、戦闘能力は高く、強力 な忍術を使ってくるので、精鋭部隊を五右衛門にぶつけるようにしましょう。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.39 ) |
- 日時: 2005/05/20 20:59
- 名前: ブー
- ありがとうございます
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.40 ) |
- 日時: 2005/05/22 08:55
- 名前: ブー
- 秀吉が、蜂須賀党を貸してくれようといってるときに、「人を見る目にわ自信がある」と言っていましたが、本当に人を見る目があったんですか。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.41 ) |
- 日時: 2005/05/22 10:13
- 名前: 微々美々
- 秀吉君は「人を見る目に自信があった」のか?について回答させて頂きますね・・・。
この話自体は・・・後世の史論家の”人物評”です^^; 古い言い方をすれば、「人たらし」という言い方になりますが。
具体的には、司馬遼太郎先生の「太閤記」が最も有名ではないでしょうか? ※小説です。ご存知かとは思いますが念のため^^
もちろん、”元ネタ”はある訳ですが・・・。 前回頂いたご質問でも引用させていただいた、山路 愛山先生の人物評が元ネタかな・・・と、自分は考えています。 大正四年七月に刊行された「徳川家康論二」によると、 「秀吉の人を治むる術は信長に同じからず。彼は自己の心胸を以て直に人の心胸に触れんと試みたり。彼は”人たらしの名人”なり。而して其善く人をたらし得たる所以のものは彼が無巧無技にして直ちに真性情を流露し来りし為なり。」 正直に人に接する事が出来たのが、殺伐とした戦国時代では非常に人に受けたのかもしれないですね^^ ちなみに、我らの”信長君”は生来の”ガキ大将”気質だと評されているようですよ^^ 戦国時代の”ジャイアン”だったかもしれないですね(笑) このぐらいでしょうか・・・。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.42 ) |
- 日時: 2005/05/22 11:25
- 名前: ブー
- ありがとうございます。それと、柴田勝家も秀吉と同じように、お市のことが好きだったのですか
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.43 ) |
- 日時: 2005/05/22 17:47
- 名前: 微々美々
- 「柴田勝家も秀吉もお市が好き」だったか?について回答させて頂きますね^^
実は・・・史料的な”裏付け”はありません^^; ただ、様々な小説、史論を見る限り、両者とも”あこがれ”は持っていたようですよ・・・。 一例を載せておきますね・・・。(大半のものが同じ見解で載せていますので) 「柴田勝家と前田利家」と言う記事では、お市の方にとっては、実力者になったとはいえ、素性も明らかでない成り上がり者の秀吉の側室になるなど、出来ることではなかったし、秀吉を非常に嫌っており、そのため織田家に最も忠実な柴田勝家に保護を求めたそうです。(当時36歳) 勝家にとっても、お市の方はあこがれの人であり、この申出を二つ返事で受け入れ、勝家はお市の方と3人の娘を連れて、北ノ庄城(福井市)に帰っていったと伝えられています。(当時57歳)
以前、「決戦3登場の女武将の史実?」スレで彼女の史実を少し載せておきましたので、こちらにも^^ お市 別名を市姫。小谷の方。お市御寮人。 織田信秀の娘で信長の妹にあたる。 一説に天文十六年(1547)生まれ。 妹ではなく姉・義妹・従妹であるという説もある。 お市が柴田勝家の許へ再嫁する決心をしたことについて、「お市さま自らの御料簡にて決められ候こと」と語っており、織田信忠や信包の意見ではなかったそうです。 お市の胸中には”残された子女の将来”と、「織田政権を託す人物」として年は親子ほど違う老将柴田勝家こそ最適の人物として選択したと考えられます。 亡主信長の追善供養を京の妙心寺で真っ先に行ったのも柴田勝家夫妻で喪主はお市その人であったといいます。 そして安土に菩提寺・総見院を建立している。先を越された秀吉は大徳寺で追善供養をし、ここに総見院を建て、三者三様の思惑を秘めて織田政権の後継者たらんとしたそうです。 お市御料人は女人ながら織田政権の担い手として自負していたものと思われます。 実は芯の強い女丈夫だったのでは? これが自分の見解ですね^^
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.44 ) |
- 日時: 2005/05/22 18:42
- 名前: ブー
- ありがとうございます
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.45 ) |
- 日時: 2005/05/22 20:28
- 名前: 戦国マニア
- 市が秀吉を嫌っていたのは知っていましたが、そのことについての何か逸話はありますか??よろしくお願いします。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.46 ) |
- 日時: 2005/05/22 21:45
- 名前: 微々美々
- 「お市の秀吉嫌いの逸話」について回答させて頂きますね^^
実は・・・残念ながらありません。 と言うのも、お市自身の史料が少なく、彼女の生涯を調べるとすると、ほとんど断片的なものしかないことがその理由です。
数少ない史料から言えば・・・ 1.小谷城落城の際に逃がされた万福丸は串刺しの刑、母小野殿も処刑された事による怨恨説。
2.いわゆる「身分違い」が理由とする説。
3.信長の妹、お市も、織田家の情報役として積極的に浅井や柴田に嫁ぎ、命をかけて兄の天下取りに加担したため、秀吉は眼中になかったとする説。 ※来年の大河ドラマ「功名が辻」でもモチーフにしているとか。 「流星―お市の方」とか「艶女が操る日本史」など様々な小説、史料を読んだり見たりしましたが、大体このぐらいでしたね・・・。 唯一「川角太閤記」だけ、「信長は、お市を秀吉にやっても良いと思っていた」と言う趣旨の話が載っているぐらいでしょうか^^; このぐらいですね・・・。 数が少なく、申し訳ないのですが^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.47 ) |
- 日時: 2005/05/23 21:35
- 名前: ブー
- 首級を挙げるとはどういう意味ですか
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