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決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編)
日時: 2005/05/05 21:57
名前: 微々美々

決戦3「史実」探検スレッドに多くのご質問を頂きましたので、第4弾のスレを立てて見ました。

書き込んで頂いた方や、御覧になって頂いた方、管理人様には本当に感謝しております。
(興味のない方には本当に申し訳ないスレでもあるのですが・・・)
前回同様「決戦3」に関わる「史実」の疑問・ご質問であれば、自分の知っているもの、調べて何とかなるものであれば、可能な限りお答えしたいと考えておりますので、どしどし書き込んで下さい。

前回との変更点
こちらは人物史”以外”であれば、基本的には「決戦3」に関連する”歴史ネタ”であれば何でもOKです
装備品・合戦・兵種・武将特技等何でもアリです^^
もう1つのスレと上手く使い分けて頂ければ・・・と思います。
(区別がつきにくく、申し訳ないのですが)

これから決戦3を始める方にも楽しんで頂けたら幸いかな・・・と思っています^^
メンテ

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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.8 )
日時: 2005/05/08 13:07
名前: 微々美々

斎藤軍に那古野城防衛を依頼する信長の方針に、
信長の一番家老である林通勝と美作守の兄弟は反発し、
荒子の前田与十郎の館へ辞去してしまいました。
これに構わず信長は21日に出陣します。
21日、織田軍は熱田に展開し、22日、強風の中荒れた海を渡り進軍し、小河城入城。
24日早朝、信長は全軍を率いて村木砦に攻めかかったものの、
村木砦は堅牢な砦で、「城」に匹敵するものでした。
信長の直卒部隊は砦の南にある堀から攻撃し、織田信光部隊は西の搦手から攻撃を加えました。
凄まじい攻城戦となり午前8時に始まった合戦は、
想像を絶する戦闘が繰り広げられ午後5時近くまで続けられる状態であったとか。
戦闘が激しかった分、双方の死傷者の数も相当なもので、織田軍では死者が塚のようになったと伝えられています。
その結果・・・
信長ももはや力攻め出来る余力も無くなり、今川軍からの降伏を聞き入れ引き上げるしかなかったそうです。
この後、信長は本陣へ帰還後に涙を流し将兵に語りかけたと伝わっています。
26日に信長は斎藤軍の安藤守就に援軍の御礼を伝え、斎藤軍は帰国しました。
守就は斎藤道三に信長の合戦ぶりを詳細に報告。
それを聞いた道三は「(信長は)恐るべきやつ」と唸ったそうです。

「決戦3」に登場する「歴史全般(人物史を除く)」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.9 )
日時: 2005/05/08 13:59
名前: ブー

ありがとうございます。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.10 )
日時: 2005/05/08 22:10
名前: ブー

日本三大名城おおしえてください
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.11 )
日時: 2005/05/09 08:21
名前: 微々美々

「日本三大名城」について回答させて頂きますね。
大概、「大阪城」「姫路城」「熊本城」と答える方が多いのですが・・・
近世末に流行した番付表等では、日本三大名城とは江戸城を別格として大阪城・名古屋城・熊本城の三城とされています。
姫路城が三名城に加わるのは、近代以降の話でした。

決戦3との関わり
史実上では1582年までをベースにしているので、実はあまり関係がありません。
登場人物との関連とするなら、”一応”関わりはあるのですが・・・

ちなみに日本三大名城の現在の説はこんなところです。
松本城、姫路城、熊本城 (大阪城、名古屋城)
※( )内は説により追加されるものです。
熊本城(銀杏)城
加藤清正

姫路(白鷺)城
1346年赤松貞範築城が代表説

松本城
石川数正親子

大阪城
1496年本願寺8世法主蓮如により大坂御坊建立→秀吉による築城
豪壮華麗なその姿は「三国無双」と称されています。

名古屋城
徳川家康

余談で他に「3」のつくお城も
三大湖城
松江城(島根県松江市)、膳所城(滋賀県大津市)、高島城(長野県諏訪市)
三大連立式平山城
姫路城、松山城、和歌山城

日本人は3が好き?
「日本三大協会」
日本には古くから物事や人物、出来事などを「三」でくくる歴史と文化があります。
「日本三景」「三大名城」「三名園」などが代表的ですが・・・
こうした三くくりを中心に、三にまつわるさまざまなことの研究と、その情報の収集と広報活動を行い、
日本のあらゆる三大を制定していこうと結成されたのが日本三大協会。
創立は1993年3月3日。
創始者は漫画家の故・畑田国男と加瀬清志さんです。
「決戦3」に登場する「歴史全般(人物史を除く)」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;

メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.12 )
日時: 2005/05/09 10:08
名前: 謙信

今回の質問は本能寺の変についてです。
光秀の背景に誰がいたのか諸説ありますが、私なりに容疑者と根拠をリストアップするので、ご意見待っています。

1.秀吉・家康
 信長が死んで一番得をしたのは後に天下を取ったこの2人なので、動機は十分ある。
 行動も素早すぎる。秀吉は毛利と対戦中だったにもかかわらず、都の情勢をあまり調べもしないで和睦して、光秀を破った。家康も手際よく忍者が撤退を助けたりして帰国した。

2.足利義昭
 史実でもゲームでも追放されてしまう公方さまは信長に恨みを抱いてたので、これも動機は十分あると思う。NHKの歴史番組でも、決起を促す義昭の文書が見つかったと言っていた。

3.イエズス会
 大穴といえる容疑者だが、信長と対立していたらしい。昨年放映された日テレの番組ではフロイスの書いた本に「盆さんを始めた日から17日で信長はいなくなる」といった記述があったとのこと。一神教の彼らには自己崇拝を求める信長の姿勢は我慢ならなかったのかもしれない。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.13 )
日時: 2005/05/09 13:26
名前: 微々美々

本能寺の変の黒幕について、自分なりの見解も含めて回答させて頂きますね^^

※かなり長いです。ご了承ください。
実は第1弾〜第3弾の各スレで同じご質問を頂いていますので、その時の回答もあわせて載せておきますね^^;
1.秀吉・家康説について
秀吉黒幕説の根拠
前年の6月25日に羽柴秀吉が中国攻略に出陣前に、出陣前の御見舞の恰好で明智秀満が代理で、
現在京都の野村美術館に所蔵の名器の茶碗「明智井戸」と言われた逸品を姫路城まで持参して、密諜を羽柴と確認しあったそうです。
すでに承知していた斉藤利三も同調して一同の決起を促したとか。
さらに堺の千宗易(せんのそうえき)千利休の養子に宛てた意味不明な書状で、信長が当夜は本能寺に宿泊するのは確実に分かっていたそうで、
亀山城外半里と五町の野条は、全軍1万3千余の陣揃えが終了して、兵馬が動き出したのは五つ半刻(午後九時前後)だったと定説になっている
しかし、コレを光秀の「謀反」として宣伝する事で、秀吉は上手く自分のことを英雄に仕立てあげたと考えることも可能だそうですよ^^
実際、本能寺の変が「謀反」であると最初に記録したのは、秀吉のお伽衆である大村由己の「惟任退治記」(「惟任」は明智光秀の別姓)です。
この中で光秀は極悪非道の謀反人と断罪され、それを討伐した秀吉の功績が称えられています。
本当に黒幕だとしたら、ちょっとコワイデスネ^^;
別の根拠としては、
光秀が怨霊(おんりょう)神社に祀られていること、怨霊神社に祀られている者は皆無実であることを挙げている上で、
信長暗殺は秀吉配下の杉原家次がしたもので、根拠として家次が変死していることを挙げています。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.14 )
日時: 2005/05/09 13:27
名前: 微々美々

・徳川家康黒幕説について
根拠の1つとして、「徳川実紀」、「天正日記」、「武徳編年集成」には、家康は「本能寺の変が起こることを予測していた。」と思える記述があるそうです。
実はほとんど検証されていない説だとか。
不思議ですね・・・。
また、別の見方をすると、こんな説もあります。
「老人雑話」によると、
「明智の乱(本能寺の変)のとき、東照宮は堺におわしました。信長は羽柴藤五郎に仰せつけられて、家康に大坂堺を見せよとつかわされたのだが、
実のところは隙をみて家康を害する謀であったという。」と言う内容があり、実は「家康暗殺計画」とも言われているそうです。また、明智軍の雑兵は、本能寺に攻め入るまで、「敵は信長である」と言う事を”知らなかった”と言う史料もあります。
どうも「家康」だと思って攻めていたらしいですが・・・。
「川角太閤記」によると、
家康の前で舞を見せた梅若が、「能が不出来だ」の理由だけで信長に「斬首された」と記述があります。
ほとんど”無茶苦茶”すぎますが・・・
可能性としては、梅若は「家康の暗殺に失敗」して
口を封じられたと言えるのでは?と思っていますが。

なので本当は「家康暗殺計画」と見る説もあるそうです。
光秀と家康の関わりについても少し・・・
「名将言行録」には、三河の牧野右近太夫の家臣であった頃の光秀の逸話が書かれていることから、家康の家臣だったという説があります
「武功雑記」には、光秀が三河で渡り奉公をしていたときの逸話が残っていました。
これも「家康黒幕説」の遠因と言えるかも・・・
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.15 )
日時: 2005/05/09 13:29
名前: 微々美々

イエズス会黒幕説

天正10年5月、イエズス会の宣教師たちを驚かせた大きな出来事がありました。
信長は安土城内に「盆山(ぼんさん)の間」を設け、諸国の神社から神体を集め
その上に盆山と称する石を置き、それを自分の神体として祀らせ、自らの誕生日を聖日として参詣することを命じます。
これについて、フロイスは「日本史」の中で「信長は、創造主にして世の贖い主であられるデウスにのみ捧げられるべき祭祀と
礼拝を横領するほどの途方もなく狂気じみた言行と暴挙に及んだので我らの主なるデウスは、彼があの群衆と衆人の参拝を見て味わっていた歓喜が
十九日以上継続することを許し給うことがなかった。」と書いています。
この辺りが、根拠の1つと言えるかも・・・。
日テレで放送していた説の根拠は立花京子氏の「信長と十字架」の著書を元にしているのではないでしょうか。
自分も読んだことがありますが、とても興味深い内容だったと思います。
また、イエズス会の日本制覇計画において、イエズス会は当初信長にそれを託していたものの
天正10年の頃から、信長の言動に危機感を覚え、秀吉への乗換えを考えたとも言われていますよ・・・。
本能寺の変の真相で「爆笑ネタ」も。
八切止夫(やぎりとめお)先生の光秀非実行犯説
この方は「上杉謙信は女性である」と言う説を唱えた方ですが、本能寺の変についても変わった説を残しています。
信長を殺したのは「宣教師」で、大砲で吹っ飛ばしてしまったとしています(笑)
「やるな、フロイス・・・」と言うところでしょうか^^
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.16 )
日時: 2005/05/09 13:34
名前: 微々美々

公方様黒幕説
謙信さんご指摘の通り、
足利義昭も御内書を何本か送っていますね・・・。
・ 乃美宗勝(毛利家臣)に宛て、毛利・小早川に対し、信長の死を報じ、忠勤を尽くすよう命令する書状(東京大学史料編纂所架蔵影写本「本法寺文書」)
・ 香宗我部親泰(長宗我部元親の弟)に宛て、長宗我部氏に対し、毛利家と共同作戦を取って自分の帰洛のために尽力するよう命令する書状(東京大学史料編纂所架蔵影写本「香宗我部家伝証文」)
光秀の書状において注目すべきところは、「上意」と「御入洛」という言葉ですね。
手紙に「信長を討ち果たした」とありますし、「御入洛」の対象は当然、公方様であったと言えますし。
恐らく義昭が光秀に命令してクーデターを起こさせ、協力を取り付けていた反信長勢力を吸収、自らの「御入洛」によって幕府を復活させる願い、
このことが光秀の利害と一致していたと考えられますが・・・。
決戦3での藤長との会話が、案外史実としても的を得ているのではないのでしょうか?
「わしは将軍家の運命に必死に抗ってきたんよ・・・」ですかね・・・。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.17 )
日時: 2005/05/09 13:36
名前: 微々美々

また、「決戦3」でテーマとしていた、「信長・光秀の帰蝶争奪戦」ですが、これを根拠とする史実があります。

ただ1つ「明智軍記」が該当します。
内容としては、斉藤道三と小見の方の間に生まれた唯一の娘、帰蝶が一歳年上の信長に嫁いだ時、道三の近習に十兵衛という少年がいました。小見の方は明智光継の娘で、十兵衛の父光綱と兄妹の間柄なので、十兵衛は小見の方の甥に当たり、帰蝶とは従兄妹の関係に当たります。この従兄妹同士は親密だったようです。やがて十兵衛は光秀を名乗り、人知れず将来を誓い合うようになりましたが、父道三が嫌がる濃姫を政略の道具として信長に嫁がせた為に、光秀の信長への憎悪が募り、また帰蝶も意に沿わない結婚であったことから、「本能寺の変」の時に”信長を裏切って光秀に味方した”と言われています。
この話が本当かどうかは不明ですが、彼女の史料が少ないことから、歴史小説や講談ではしばしば取り上げられた話題でもありました。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.18 )
日時: 2005/05/09 13:37
名前: 微々美々

本能寺の変の諸説一覧です^^;
「光秀単独説」
1.積極的謀反説
野望説、突発説
2.消極的謀反説
怨恨説、不安説、ノイローゼ説、内通露見説、人間性不一致説、秀吉ライバル視説
3.名分存在説
救世主説、神格化阻止説、暴君討伐説、朝廷守護説、源平交代説
4.複合説
不安・怨恨説、怨恨・突発説、不安・突発説、野望・突発説、不安・野望説、怨恨・野望説、複合説
「主犯・黒幕存在説」
1.主犯存在説
秀吉実行犯説、斎藤利三実行犯説、徳川家康主犯・伊賀忍者実行犯説、複数実行犯・複数黒幕存在説
2.黒幕存在説
朝廷黒幕説、秀吉黒幕説、足利義昭黒幕説、毛利輝元黒幕説、家康黒幕説、堺商人黒幕説、フロイス黒幕説、高野山黒幕説、森蘭丸黒幕説
3.黒幕複数説
秀吉・家康・光秀共同謀議説、足利義昭・朝廷黒幕説、近衛前久・家康黒幕説、毛利輝元・足利義昭・朝廷黒幕説、堺商人・家康黒幕説、上杉景勝・秀吉黒幕説、家康・イギリス・オランダ黒幕説、足利義昭・秀吉・毛利輝元黒幕説
4.従犯存在説.
近江土豪連合関与説、長宗我部元親関与説、濃姫関与説、光秀の妻関与説、秀吉関与説
「その他」
信長の対朝廷政策との関連、家臣団統制との関連、信長自滅説、信長不死説
です。

なので・・・「決戦3」のような解釈も「十分有り得る」話だと思います。
まあ、「カッコイイ」ですし^^
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.19 )
日時: 2005/05/09 13:43
名前: 微々美々

さらに”トンデモ”説が見つかったので、載せておきますね^^
 
家臣引き抜き説
光秀は、稲葉一鉄の家臣であった斎藤利三を引き抜いて重臣としました。
おさまらない一鉄はこれを信長に訴え出ます。しかし信長の命にも光秀と利三が応じなかった為、
怒った信長が光秀を折檻した。

光秀の妻陵辱説
光秀の妻が天下一の美女と伝え聞いた信長が、月々の朔日と十五日を家臣の妻の出仕日と定めます。
やがて参上した光秀の妻を長廊下で抱きしめようとしたが逃げられたため、以後しばしば光秀に恥辱を加えたそうです。
光秀サイドの逸話では・・・
光秀の妻が「無礼者!」と一蹴、信長の額を扇で打ち据え、逃げてしまったとか。トホホ・・・^^;

最後に・・・
自分の見解は、「真相は闇の中」と言うところですね・・・。
「夢幻泡影」という言葉がありますが、信長の生き方はまさにその言葉通りだった感じもしますので・・・。
それから、決戦3の解釈がとてもドラマチックで気に入っていますので、コレも理由の1つですね^^
「決戦3」に登場する「歴史全般(人物史を除く)」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.20 )
日時: 2005/05/09 15:00
名前: 謙信

わずか半日でこれだけ詳しい解説をされる微々美々
さんの知識量には、驚くばかりです。
ありがとうございました。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.21 )
日時: 2005/05/09 19:45
名前: ブー

ありがとうございます
   
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.22 )
日時: 2005/05/09 20:46
名前: ブー

上杉謙信と戦おする場所で、勝利条件お見ると、「上杉謙信がこの場所お選んだ理由お考えよ」と、書いていたんですが、どうしてもわかりません。どうしてこの場所お選んだんですか。「場所がわからないので、どこでやったのが、わかりません。」
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.23 )
日時: 2005/05/10 07:30
名前: かばちゃん

ほんとに詳しいなぁぁ^^
本能寺の変かぁ・・・おれは前テレビでやってた徳川家康が黒幕説に納得しちゃった^^
以前にも話題にあがったけど、明智光秀が実は生き延びていて徳川にかくまわれていたってやつ。
でもまぁ・・・理想はほんと決戦3みたいなのが一番いいけどなぁ^^
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.24 )
日時: 2005/05/10 13:45
名前: 微々美々

回答が遅くなりまして、申し訳ないのですが・・・

「上杉謙信がこの場所お選んだ理由お考えよ」について、自分なりの見解を含めて回答させて頂きますね^^
ご質問の合戦は「九頭竜川決戦」のことですね・・・

決戦3で登場した理由
実は「越後の龍」と九頭竜川の「竜」を掛け合わせたものではないでしょうか?
実際の九頭竜川決戦は”朝倉氏VS越前一向一揆”の戦いだったので・・・
ちなみにこんな戦いです。(簡潔にしますね)
1506年、加賀国から本願寺門徒らが侵入します。しかし、朝倉教景(宗滴)指揮する朝倉方はこれを九頭竜川で迎え撃ち勝利したと伝えられています。
また、年代も違います。
九頭竜川決戦は永正三年(1506年)の話で、信長VS謙信の戦いは1577年の手取川の戦いになるので・・・
九頭竜川・川中島両方を旅行で訪れたことがありますが、川中島も千曲川をはさんだ地形でよく似ている場所でした。、
自分としては、決戦3での台詞「川中島を思いだす・・・」につながるのでは?と思っています。
また「手取川合戦」をモチーフとしてステージを作ったとするならば、「川中島」でも謙信公が見せた
”奇襲戦術”を再現したのではないでしょうか。
ムービーのBGMも「鞭声、粛々〜夜、河〜を渡る〜♪」ですし・・・
※川中島の合戦を詠んだ頼山陽の詩です。カッコイイですよ^^

自分の見解では「手取川合戦」をモチーフにしたのでは、と考えています。
実はこの合戦、信長側の史料に詳細な記録が無い事はあまり知られていません^^
なので、上杉サイドからこの合戦の詳細を。
加賀の一向一揆勢と和睦した謙信は1577年(天正5年)9月15日七尾城を落とし、続いて17日末森城も占拠しました。
ついで松任城に入り、長一族の首50あまりを倉部浜に並べ、織田軍と対峙します。
織田軍は柴田勝家を総大将とし、滝川一益、羽柴秀吉(ただし秀吉は早々に戦線離脱)、前田利家、佐々成政ら、織田軍団の精鋭で迎え撃ちます。
彼らは手取川を背に上杉軍と対峙しますが・・・。だが、七尾城陥落を知った織田軍は、23日、夜陰に乗じて撤退を敢行。折からの雨で増水した手取川が、逃げる織田軍の行く手を阻み、上杉軍の追撃を受け、織田軍は敗北を喫する。この時上杉軍は1000余人を討ち取り、残党をことごとく討ち取ったという。
上杉軍はかがり火を焚き、部隊がそこに駐留しているように見せかけ騎馬のみの精鋭部隊だけを本陣へ突入させます。
(決戦3で言うと、「川中島を思いだす・・・」のムービーのあたりです)
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.25 )
日時: 2005/05/10 13:46
名前: 微々美々

対する織田軍はまだ3日くらいかかると気を緩めて居た所だったので、この突然の奇襲に仰天します。
先陣の滝川一益と丹羽長秀の部隊は散々に蹴散らされ敗走。秀吉も(今回の参戦は嫌々ながらだったので)早々に敗走。
※後で信長にコッテリ絞られますが^^;
勝家・利家はなんとか反撃しようと奮戦しますが、兵の士気は先陣の敗走により上がらず、奮戦空しく大敗します。夜明けには信長は残った兵をまとめて対抗しようとしますが、上杉の増援もやってきて織田軍は惨敗。
信長は残った兵と共に逃走するも、追撃され何とか美濃に逃げ帰った時には全身傷だらけでした。
この戦いを・・・
上杉側は自慢げに勝利の記録を残ています。
9月23日夜、「先陣が完勝し、千余人を討ち取り、残兵をことごとく湊川(手取川の別名)へ追い込んだ。折からの増水で人馬がおびただしく流れ死んだ」と記録しています。
謙信公に至っては、「信長軍は案外弱い。この分なら京都への進撃に不安はない」と豪語したそうです。
決戦3で言うと・・・
「信長の軍略、今だ謙信と戦うに及ばず」ですかね・・・^^;
どうせなら、「戦国無双」のように「謙信公、本陣単騎突入!」なムービーがあったら良いな・・・
と思いますが^^

「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長」
これは天正五(1577)年の加賀手取川の戦いに関する京童の歌です。
この戦いで信長勢は上杉謙信から追撃され、増水した手取川で溺死する者数知れずという大敗を喫しますが、後ろに続いていた信長は、前線が退却を始めるやいなや、ただ一騎逃げ帰ったそうです。
「はねる」「とぶ」という言葉が、”勢いに乗って追撃する”上杉勢と、”飛ぶように逃げ帰った”信長の様子を上手く表しています。
このぐらいですね・・・。
「決戦3」に登場する「歴史全般(人物史を除く)」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.26 )
日時: 2005/05/10 19:41
名前: ブー

ありがとうございます。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.27 )
日時: 2005/05/10 20:23
名前: 微々美々

「明智光秀が実は生き延びていた」について、閑話休題を兼ねつつ回答させて頂きますね・・・。
※南光坊天海=光秀説も含め、光秀君”生存説”まとめ書きという形で載せて置きますね^^;

桔梗塚の伝説
岐阜県に伝わる伝説です。
山崎の戦いを生きのびた光秀は中洞(なかぼら)村(現在の美山町中洞)に隠棲します。
秀吉との合戦に勝てないと見た荒木山城守が身代わりとなって農民に竹槍で突かれ殉死、光秀は荒深小五郎(荒木の恩の深さを表わしている)と名のり静かに暮らしていました。
後に関ヶ原の合戦の時に家康に味方しようとしますが、途中厚見郡藪川で洪水に巻き込まれ死亡。
家来の又五郎、忠右衛門、彦太郎、親兵衛らが、遺品を持ち帰り、中洞に墓を建てました。
これが今の中洞上ノ街道古屋敷というところにある石の塔と五輪の塔で、墓は桔梗塚と呼ばれ現在も残っています。
これはかなり”切ない”話なのですが・・・

別の説の見解になると・・・
影武者を使って逃げ延びた光秀は美濃の山奥に名前を変えて暮らしています。
”時が来るのをじっと待っていた”と言う訳なのですが・・・
やがて江戸に出て家康と対面、何か事が起きる時は必ず味方になると約束をして家康を大変に喜ばせたそうです。
そして関ヶ原の戦いの時がやってきます・・・
約束通り光秀は東軍に味方すべく一族の兵を連れて大垣の背後を突こうと出陣します。
これが上手く行けば東軍は有利になると考えての出陣でした。
がっ、しかし・・・
事はそう上手くは運ばず、途中渡ろうとした川が増水していた為に馬諸共に流され溺死したそうです。(_ _)/'チーン
ちょっと”トホホ^^;”な感じになってしまうのが悲しいですね・・・。

「変〜身、とおっっっっ!!!」
千利休も天海大僧正と同様、その生い立ちが明らかでないため「利休が”光秀”であり、それを見破った秀吉が切腹させた」
と言う説もあります。
メンテ

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