Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.1 ) |
- 日時: 2005/05/06 21:12
- 名前: ブー
- 質問では、ありませんが第4段、おめでとうございます。「質問ではないので、無視してもいいです。」
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.2 ) |
- 日時: 2005/05/06 21:50
- 名前: 戦国マニア
- 第4弾おめでとうございます。微々美々さんの文章をいつも興味深く拝見させてもらっています。では、早速質問を・・・。上杉謙信没後、景勝と景虎が争った御舘の乱について教えてください。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.3 ) |
- 日時: 2005/05/07 02:42
- 名前: 微々美々
- 戦国マニアさん、ブーさん、ありがとうございます^^
自分も、戦国マニアさんのレスをいつも興味深く拝見させてもらっています・・・。
「御舘の乱」について回答させて頂きますね。 上杉家最大?のお家騒動と言えるかもしれないですね・・・
原因は謙信公? 本当です。彼が世継ぎをもうけず、また、急逝であったため、跡目が決まっていなかったからです。 この辺りがトンデモ説”謙信公は女性である”にもつながるのでしょう^^;
御舘の乱はこんな内容でした・・・ 天正六年(1578年)、三月九日、上杉謙信は虫気(中風)で倒れ、四日後に亡くなりました。生涯不犯の逸話通り、謙信には後継ぎがおらず、また急逝であったため、相続を定めておらず跡目争いが起こります。これが世に言う御舘の乱です。 謙信には二人の養子がいました。永禄七年(1564年)に養子入りした一門衆長尾政景と姉仙桃院の子、長尾喜平次顕景(後に景勝)と、元亀元年(1570年)にあずかった北条氏康が七子、北条三郎氏秀(後に景虎)です。 景勝は越後魚沼は坂戸城に生まれ、政景が没した際に叔父である謙信の居城春日山城の二の丸に引き取られたそうです。天正三年には上杉弾正弼景勝と名乗っており、謙信没時、二十四歳でした。 彼は謙信死後いち早く本丸入りし、領国や配下に上杉家当主たることをしらしめ、蔵を押さえて万一に備えます。 五月五日、五智大場にて両軍の衝突が始まる。 景虎は、上杉憲政の居城御舘城にはいり、生家の兄北条氏政に援軍を求めます。氏政は景虎の姉が嫁いでいる武田勝頼にも出兵を依頼。戦局は景虎側の優勢で展開。一時はこの勝頼のとりなしで和睦するも、戦闘は再開されますが、そんな勝頼に上杉景勝から好条件での同盟の申し入れがあり、これを受けた勝頼は兵を引いてしまいます。 (この後、景虎が破れ、自刃するにいたって北条と上杉の関係が悪化、延いては北条と武田も断交となっていますが・・・) 景勝と勝頼の同盟が整い、戦況は景勝側が有利に。翌年二月、雪の中を景勝が御舘を急襲。雪に阻まれて糧食、援軍ともに望めぬ景虎は、御舘を捨てて鮫ヶ丘城に落ち、そこで自刃。享年二十六歳でした。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.4 ) |
- 日時: 2005/05/07 02:41
- 名前: 微々美々
- 御舘の乱の詳細バージョンも^^;
景勝の行動は迅速でした。三月十五日には「謙信公の遺言」と称して春日山城の本丸・金蔵・兵器蔵を占拠し、同二十四日には自身が謙信の後継者であることを宣言します。 そして両勢は五月五日に大場で交戦、景虎は妻子を連れ春日山城を脱出、天文二十一年以来謙信を頼って越後へ来ていた前関東管領山内上杉憲政の居館・御館に篭城します。 景虎の兄北条氏政は武田勝頼に景虎救援を依頼、勝頼は受諾し五月二十九日には兵を国境付近に進めました。しかし景勝は謙信以来の莫大な金銀にものを言わせ、一部領土の割譲・黄金一万両・勝頼の妹を娶る事などの条件をもちかけて和睦に成功、勝頼に兵を退かせます。一説に勝頼の重臣長坂長閑・跡部大炊助に二千両ずつの賄賂を渡して話を進めたとも。 勝頼の撤兵により北条方では九月はじめに氏照・氏邦が出陣、越後に侵入し樺沢城を本拠として坂戸城など近隣諸城を攻撃します。戦闘が落ち着いたかと思われた翌天正七年二月一日、雪の降りしきる中を景勝は御館へ総攻撃をかけました。 景虎勢の中では一騎当千の豪傑で「鬼弥五郎」の異称を持つ北条景広(長國)が、奮戦しますが、この日景勝方荻田主馬(孫十郎)の槍に討ち取られました。 また雪で小田原からの援軍もままならず、ついに三月十七日に御館は落ちました。 なお、この日景虎に加担していた上杉憲政は、景虎の長男で九歳の道満丸を連れて和議仲裁のため春日山城へと赴いていますが、途中の四ツ屋峠において景勝方に斬殺されています。 かろうじて景虎は落城寸前に鮫ヶ尾城へと脱出するも、頼ったはずの城将堀江宗親が景勝方に寝返り、進退窮まった景虎は同月二十四日に自刃。享年26歳でした。
ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んでください^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.5 ) |
- 日時: 2005/05/07 16:15
- 名前: 戦国マニア
- 詳細が詳しく書いてあったので、よく理解することができました。ありがとうございました!
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.6 ) |
- 日時: 2005/05/07 19:52
- 名前: ブー
- 村木の戦いで、織田信長と松平元康は、一対一で、戦たことがあるんですか。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.7 ) |
- 日時: 2005/05/08 13:04
- 名前: 微々美々
- 回答が遅くなりまして、申し訳ないのですが・・・
「村木の戦いで、織田信長と松平元康は、一対一で、戦たことがあるんですか。」について回答させて頂きますね。
残念ながら、史実での記録はありません。 1554年に起こった村木の戦いは、正確には 信長・水野・斉藤軍VS今川軍です。 家康の参戦は翌々年、1557年のことでした。
村木の戦いとは? (長いです^^。戦いはたった1日だったのですが) 今川義元は尾張国への侵略を目論み、三河国に進駐している自軍に命じて村木砦を建設した上で、 寺本城を落とし、織田方の水野忠政の小河城を孤立させ攻略の構えに出ていました。 この危機に織田信長は今川軍の撃退を考えたものの、、尾張国内の反・信長勢力に本拠・那古野城を攻撃されることは読めていたので、 帰蝶の父である斎藤道三に援軍を要請します。 道三はこの援軍要請に応じ、安藤守就に1000の兵を与え派遣しました。 その際、道三は守就に「尾張国内の情勢を詳細に報告せよ」と命じています。 斎藤軍は正月18日に美濃を発し20日には尾張に到着。 信長は自ら歓迎し那古野城周辺の志賀・田幡に滞在を要請します。 しかし・・・
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