Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.61 ) |
- 日時: 2005/04/29 20:26
- 名前: 微々美々
- 続きです^^(とても長くなります。ご了承ください)
「左馬助の湖水渡り」 光秀は信長を殺害した後、安土城を奪取、秀満に守らせて山崎に向い秀吉と戦おうとします。秀満は、 「私に金庫番をしておけと言うのか」と呟きながら安土を守っていますが、山崎での光秀の敗北を聞くと秀満は光秀を救援するため、京へと進軍します。 しかし途中で光秀討死の報せを聞いたため、坂本城に向かうことに。秀満が行き先を変えて粟津から北方の大津に向かっていた時、秀吉軍の先陣の堀秀政の軍勢と遭遇します。 秀満の手勢は少なかったのでたちまち打ち破られ道を敵に塞がれました。秀満は仕方なく近くの琵琶湖に馬を乗り入れて坂本に下がることにします。これを見て、堀秀政の軍勢は汀に並び、 「そのうちに溺れるであろう。見物しよう」と笑い合ったそうです。秀満は、白い練り絹に雲竜を染めた羽織を着込んでいますが、この絵は狩野永徳の描いたものでした。また兜は二ノ谷と名付けられたもので馬は大鹿毛でした。 秀満は以前に長く大津にいたことがあるので、坂本近くの唐崎までの遠浅の状況をよく知っており、簡単に唐崎の浜までたどり着くことが出来ました。唐崎に到着した秀満は松の下で馬を休ませ飼い葉を与えたあと坂本に向かい、 途中十王堂という社で馬から降り手綱を堂につなぎ失立を取り出し、「明智左馬助に湖水を渡した馬なり」 と札を書き馬の鬣に結び付けて坂本城に入ります。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.62 ) |
- 日時: 2005/04/29 20:32
- 名前: 微々美々
- 続きの中篇です^^
坂本城で秀満は妻子を天守に入れ、安土城から奪い取って来た不動国行、二字国俊という名刀、薬研藤四郎の小脇差、楢柴の肩衝、乙御前の釜という名物の茶器を肩衣に包み天守から投げ下ろしました。 このあと、秀満は女や童子たちを刺し殺し城に火を掛けて自刃。直前に秀満はニノ谷の兜と狩野永徳の描いた雲竜の羽織に黄金百両を添えて使者に坂本の西教寺まで届けさせています。 後々、この兜は豊巨秀吉の家臣山中山城守長俊の孫の作右衛門長俊という者が所望して所有物としますが、他日、紀伊の宇佐美造酒助孝定という者の手に移ります。 また羽織の行方は不明でしたが、琵琶湖を渡った大鹿毛の馬は無双の駿馬として、秀吉が柴田勝家と賎ケ岳で戦った時に曙と名付けて、美濃の大垣より二十里余りの悪路を走駆したそうです。 後三年の役の際、軍破れ金沢の城が落ちる時に清原家衡が秘蔵の馬が敵の手に渡るのを妬ましく思って自分でこの馬を射殺した事に比べれば雲泥の差の行為であると、世間では噂したそうです。 「常山紀談」『名将言行録」に伝わる逸話です。
戦国のラストサムライ? 明智秀満が坂本の城に戻り、守りを固めていた時の事です。秀吉は将として堀秀政に命じ城を包囲させます。 これに篭城兵は恐れをなし逃げ散ってしまい、落城は確実なので、秀吉は明朝総攻撃と決めました。 その時入江長兵衛という者が一番乗りしようと暁方から城壁の下で夜が明けるのを待っていた時の事です。 秀満は櫓に登って狭間の板を開け、周囲を見て見ると城壁の下に人影が。敵か味方かと思っていましたが、入江だと判明しました。 彼とは日頃から見知った仲で親しくしていたそうです。 「そこに居られるのは入江殿とお見受けするが。この城は今日中には落城するであろうから私の命も今日限りだ。最後の遺言として貴殿に詞を差し上げたいと存ずる。」 入江は櫓の上を見上げて「そうおっしゃるのは明智殿か。何でしょうか。」 と言います。秀満は「私が鉄砲で貴殿を撃つ事はたやすい事だが、貴殿の勇気に感じ入ったためそれはしない。私は若い頃から戦場に赴く度に人一倍の功をあげて武名をあげようと励んだが、それも我が身に変えて子孫の繁栄を望めばこそ。しかし今日私の運命も決まった。生きているうちにいくら危険を冒し艱難に耐えてきたことも終にその為すところも無く無に帰してしまう。貴殿もいずれ同じようになってしまうであろう。それよりは武士を止め安全なところに身を置いて危険から遠ざかられよ。貴殿に黄金を与えよう。これで何か他の事を始めよ。」 と言って黄金三百両の入った皮袋を投げ渡します。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.63 ) |
- 日時: 2005/04/29 20:38
- 名前: 微々美々
- 続きの後編です^^
当時の三百両は今で言うと三千両にも勝る価値がありました。入江は秀満の言葉に納得し、戦の後武士を捨て、京に家を建て利を増やして富家となり歓楽を極めます。しかし、武士としての本意ではなかったそうです。 また羽柴勢は坂本において一戦あるであろうとも思っていました。特に秀満の大津での働きは特筆ものだったからです。 最後の一戦はさぞ花々しいものであろうと思っていましたが、意外にも矢一つも射ないで、このような成り行きになったので秀吉も「流石に古今稀な侍だ。少し感動して言葉も無い。まして珍器名物を引き渡した事は松永久秀が志貴山減亡の日に秘蔵の平蜘の釜を砕いた事とは天地の違いがある。 心根の潔さ、天晴な惜しき侍であるな。三宅弥平治といった浪人時代から一城の主として明智左馬助という今日まで、数々の軍功は数える遑もない。 先の大津の戦の際に湖水を渡ったその武辺は誰か是に肩を並べる者があろうか。日向守が逆心を抱いたことは忌むべき事だ。しかしこの者共は日向守の恩に報るためにこの様になってしまった。 戦もせず、静かにその最後を迎えた事はなんと優しいことだ。日向守が侍を養ったような心を織田殿が持っていたらば日向守の様な者も出なかったであろう。 また左馬助のような心を日向守が持っていたならばどうして織田殿を弑殺しようなどと思ったであろうか。お互いになんとも残念な事であった」と言ったので、諸将皆感歎した。 と「武将感状記」「名将言行録」に記録が残っています。 「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.64 ) |
- 日時: 2005/04/30 07:20
- 名前: ブー
- 戦国マニアさん微々美々さんありがとうございます
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.65 ) |
- 日時: 2005/04/30 16:52
- 名前: ブー
- 織田有楽斎と織田信包ねについて教えてください
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.66 ) |
- 日時: 2005/04/30 20:24
- 名前: 戦国マニア
- では、まずは
織田信包 天文十二年(1543)生 慶長十九年(1614)没
通称、三十郎。上野介。法号は老犬斎。織田信秀の四男。織田信長の弟。永禄十一年(1568)伊勢攻略を目指した信長は、当地の名族長野氏の懐柔をはかり、弟信包を長野具藤の養子として彼の居城上野城へと送り込んだ。その後、長野氏の没落に遭い、信包は再び織田姓に戻っている。彼は信長に従い、伊勢長島戦、越前朝倉平定戦、紀州攻め、石山本願寺合戦などを転戦、本能寺の変以後は秀吉に属し、安濃津城におり、「津の侍従」と呼ばれた。天正十八年(1580)、小田原合戦の時、北条氏の助命をはかり秀吉に睨まれ、さらに朝鮮の役の時にも彼の機嫌を損ねたため、安濃津城を没収された。以後、剃髪し老犬斎と称す。慶長三年、丹波国柏原三万六千石を回復、再び大名に返り咲いた。同五年関ヶ原役の時には西軍に属したが戦いにはほとんど参加せず、戦後本領安堵。同十九年、大坂冬の陣の前、豊臣方についた。しかし、大坂城内で突然謎の喀血。享年七十三歳。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.67 ) |
- 日時: 2005/04/30 20:54
- 名前: 戦国マニア
- 次に
織田有楽斎 天文十六年(1547)生 元和七年(1621)没
本名、長益。通称、源五。従四位下、侍従。出家後、有楽(斎)。法号、正伝院如庵。有楽は織田信忠、信雄と同等に信長に似ていたとされている。しかし、その性格は対照的だった。信長は物事全てにおいて白黒をはっきりさせたい性格であるのに対し、有楽は模糊としていて周囲にはつねに霧がたちこめているような感があったとされる。兄信長と十三歳も違う有楽は兄の庇護の元で育った。兄の戦歴があまりにも輝かしいために有楽の戦場での行動は目立つことがなかった。彼の働きが記録に残っているのが武田攻略のために信長が甲州入りしたときである。このとき、有楽は「深志ノ城、乗取」とある。兄の期待に答え、ようやく精鋭織田軍団の一角を担おうかというときに本能寺の変が勃発。信長は憤死。信忠も討死。このときの有楽は信忠と共に宿所の妙覚寺にいたが、直ちに二条御所へと赴き、明智勢を迎え撃った。だが、乱戦の中、突然彼の姿が消え失せる。いつのまにか彼は敵の包囲をくぐりぬけ、安土城へと生還していたのだ。本能寺の変から二年後の天正十二年、小牧・長久手の戦いでは信雄方にあたって秀吉との和解工作につとめている。これを機に秀吉に接近、秀吉没後は家康に居従し、巧みに乱世を切り抜けていった。豊臣滅亡後、彼は専ら茶人として生きた。有楽は千利休から多くのことを学んだが利休の弟子ではない。彼には師匠もいなかったし、弟子もいなかった。後に有楽流を開祖させる。元和七年、京都にて没。享年、七十五歳。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.68 ) |
- 日時: 2005/04/30 22:22
- 名前: ブー
- 戦国マニアさんありがとうございます
ペドロのことおおしえてください
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.69 ) |
- 日時: 2005/05/01 01:00
- 名前: 微々美々
- 回答が遅れまして申し訳ないのですが・・・
ペドロについては、「ゲームオリジナル」の武将のため、残念ですが史実はありません。 織田有楽斎と織田信包の人物像は戦国マニアさんが詳しく述べてくれましたので、代わりに自分の知っている逸話を^^
織田有楽斎の逸話について
有楽町の元ネタ? 彼の江戸屋敷があったことに由来していることは余り知られていません^^
情けない歌が残る? 本能寺の変の後に、こんな歌が京ではやったとか。 「織田の源五は人ではないよ、お腹召せ召せ召させておいて、我は安土へ逃るハ源五、むつき(六月)二日に大水出て、お田(織田)の原なる名を流す」 などと詠まれています。 実は、関ケ原の合戦でも西軍の戸田勝成を討っていますが、東軍内では、人柄の良い戸田を惜しむ人の方が多く、なぜか有楽斎の戦功は”全く”語られていません。 また、後年、大坂城で豊臣秀頼を補佐する立場にありながら、城中の様子を徳川方へ知らせていたという逸話もある上、しかも開戦直前に城を出てしまうのです。ヒドイですね・・・
実は”楽しみ”の無い男? 有楽斎と号する前、無楽と名乗っていた彼は、豊臣秀吉から「楽しみがない、というのを改めて、今後は楽しみありとしてはどうか」とすすめられます。 こうして織田有楽斎が誕生し、以後、茶の世界で名を馳せたというのは、「落穂集」にある話です。
利休の孫はケチクサイ? 有楽の茶道観は「茶の湯は客をもてなす道理を本意とする」という明解なもので、そのために「二畳半、一畳半などは客を苦しめるに似たり」として寛ぎのある茶室を求めたそうです 「松風雑話」では・・・利休の子(後妻宗恩の連れ子)千少庵は有楽と気があったようですが、”乞食宗旦”と言われたほど侘数奇に徹していた少庵の子宗旦は、 「囲いの上の方に窓連子、紫竹にて打あるを」見て「これは数奇に入り申さぬ事に候有楽公茶湯面白からず」と非難したとか。 「如庵」を訪れたことがありますが、とても綺麗な茶室だったことを覚えているので、「それは無いだろ^^;」と思っていますが・・・ 「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.70 ) |
- 日時: 2005/05/01 07:25
- 名前: ブー
- 戦国マニアさん微々美々さんありがとうございます
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.71 ) |
- 日時: 2005/05/01 19:06
- 名前: ブー
- 北条幻庵のことお教えてください
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.72 ) |
- 日時: 2005/05/01 20:54
- 名前: 微々美々
- 北条幻庵(長綱)について回答させて頂きますね^^
自分の回答のほうは人物像以外を。
逸話 碁と幻庵 ある日、彼が徳斎(徳斎は幻庵の正体を知らない)という町人と碁を打った時の事です。 勝負所で幻庵が妙手を打ったところ、夢中になって興じていた徳斎は盤面に向かい、「打ったか、小僧は(この石は)どこの小僧だ(どこにつながる石かな)」とつぶやきました。 幻庵は面白がって「だれの小僧とおっしゃるが、私は北条早雲のせがれです」と応じたところ、我に返った徳斎は肝を冷やし逃げ帰ります。 幻庵はすまなく思い、その後彼を度々呼んだのですが、ついに現れなかったとか。
風魔の里は幻庵屋敷にあり?
幻庵は「北条の影」のような人物で、小田原北条の陰の宰相と呼ばれた、謎の人物です。小田原北条の独自の戦術として開戦前に風魔党を派遣、敵の情報を完全に把握し、また、敵の後方を混乱させるために破壊活動を行ったりしました。 この風魔党などを陰で指揮したのが、北条幻庵ではないかと考えられています。 ある書物にはその北条幻庵の代官所ともいえる陣屋は、日野の清水橋付近にあったのではないかと記しています。その清水橋の背後の高台には「新編武蔵風土記稿」によれば、「この所の崖穴九つ並びてあり、広さ四方二間」と記録されています。幻庵の代官屋敷は日野にあったのではないでしょうか。 日野が笹下の間宮氏の後背地であるということで、信用のおける家臣を近くにおき、監視すると共に領内を統治したと考えられています。小田原北条氏も親類筋を御家門衆と呼んで信用できる一族として扱い、最初に家臣となった武士たちを伊豆衆と呼んで直属部隊に組み入れていました。しかし、相模に古くから土着して、後から小田原北条氏に従った武士たちは、あまり信用できない家臣として戦闘部隊に組織替えされて、前線に。なので、相模衆十四家に属する笹下の間宮氏はもともとは信用されない家臣であったので、監視されていたと思われます。戦国時代、武蔵と相模の国境の古道を情報伝達の「忍者の道」として使っていたと考えれば、「武相国境の道」を背後に背負った日野、清水橋周辺は「風魔の里」の一つと考えても良いのではないでしょうか。 「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.73 ) |
- 日時: 2005/05/02 05:34
- 名前: 微々美々
- 人物像の書き込みが無かったので・・・
とりあえず代わりに自分の方で人物像も載せておきますね^^;
北条幻庵宗哲 永正初頭(1504〜10年)頃〜天正17年(1589年)頃 幼名・菊寿丸/法名・長綱、幻庵宗哲 北条早雲の三男で氏綱の弟。北条家四代の長きにわたって仕えた重臣。 「北条幻庵覚書」を著した文化人ですが、弓馬の術にも優れていたと伝えられています。 箱根権現別当坊金剛王院に入寺し、近江の三井寺で得度し修行したのち、箱根権現の第四十代別当となりました。 北条家の発展に尽くし始めたのは1537年頃からと伝わっています。 主に外交などに活躍していますが、他には北条宗家の謀略を助けた中心人物とも言われ、「陰の宰相」と言う異名を持っています。 子供は、三郎、氏信(綱重)、長順と3人位いましたが、永禄3年(1560年)に三郎、12年(1569年)に氏信(綱重)、長順と相次いで亡くなり、12年(1569年)3代氏康の八男・三郎(景虎)を養子としますが、翌年三郎(景虎)は上杉謙信との同盟「越相同盟」成立にとともない養子となり越後へ赴いてしまいます。 そのため氏康七男・氏堯に小机城を継がせ、氏信(綱重)の子・氏隆に家督を継がせました。 そして、豊臣秀吉による小田原攻めが迫る天正17年(1589年)頃、亡くなりました。
「北条幻庵覚書」って何? 吉良氏朝のもとに嫁す、北条氏康の娘(鶴松院)に、幻庵が奥方としての心得などを書き与えたものです。 その内容は姑・夫などへの仕え方から、婚礼の方法、諸人への対応、日常のたしなみなど多岐にわたっています。 書体は女性に宛てたものであるため、平易な仮名書き文となっており、一つ書きで二十四ヵ条に及びます。 世田谷区の資料として今も現存しています。 こんなところでしょうか・・・ 「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.74 ) |
- 日時: 2005/05/02 08:30
- 名前: 李小龍
- お初です。
微々美々さんすごいですね。 私も日本史は結構好きで小説も読んだりしています。 今、私は各大名・名家の子孫について興味が あり各書籍を読みあさっていますが、武田家の 子孫がどうだったのかがすごい疑問です。 ちょっと横にずれるスレかもしれませんが、 ご存じでしたら教えてください。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.75 ) |
- 日時: 2005/05/02 20:43
- 名前: ブー
- かなり遅れました微々美々さんありがとうございました
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.76 ) |
- 日時: 2005/05/02 20:55
- 名前: ブー
- 一色藤長は、ゲームみたいに、足利義明に、幼いころ、命を救われたのですか。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.77 ) |
- 日時: 2005/05/02 21:28
- 名前: 微々美々
- 「武田家の子孫」は?について回答させて頂きますね^^
大正三年の天皇陛下、即位式典に際し今は亡き信玄公に対し、従三位を贈位すると国からの申し出が有った時の事です。 この時に信玄公直系の子孫であることが授与の条件とされ、国と県をあげての大々的な調査が行われたそうです。 ”13年近く”にも及ぶ研究・調査の成果として、二つの武田家まで絞り込まれたのですが・・・ ちなみに絞り込まれた家系は二男、信親(別名を竜芳)と七男、信清の家系です。 ※信親は、盲目だっただけで有り、敵に殺されることはなかったそうです。(後に甲府市住吉にある入明寺において自害するがすでに後継ぎの子供がありました。) 信清は姉を頼って米沢に逃げのび、上杉家に保護されたそうです。(現在の米沢武田氏の祖)
最後で直系とされた家系は、二男、信親(別名を竜芳)の家系でした。 理由は3つあるそうです。 まず1つめは二男、信親(別名を竜芳)は、正室三条夫人の子供として生まれたのに対し、七男、信清は、側室禰津夫人の子供として生まれた経緯があるからです。(正室と側室の位の差によるもの) 2つめは、信親の家系について江戸幕府では、当時から信玄公の直系とし、表高家という地位をあたえていました。 最後に、信玄公の菩提寺「恵林寺」に残されている、信玄公の法要年忌の記録が常に二男、信親(別名を竜芳)の系統の家系が施主として代々盛大に営んでいるのを伝えていることです。 当時より信親の家系が法要の施主として営んでいるので、七男、信清の系統としても、二男、信親(別名を竜芳)の家系を信玄の直系と認めない訳には行かないと考えられます。
自分が知っているのはこのぐらいですね・・・
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.78 ) |
- 日時: 2005/05/02 21:33
- 名前: 微々美々
- 一色藤長と公方様の???な関係について回答させて頂きますね^^
以前に同じ質問を頂いたことがあるので・・・そちらから。
本名は七郎と言います。 室町将軍足利義藤(義輝)から一字を与えられて、藤長と名乗っています。 のち剃髪して一遊斎と号しました。
将軍家との「深いつながり」 将軍義晴・義輝父子の忠良彦部雅楽頭晴直の姉が、一色藤長の奥方にあたります。 また藤長の女が、将軍義昭の妹、寶鏡寺理源の生母だったそうです。
一色家ってどんな家系? 一色氏は清和源氏、足利氏の一族です。足利頼氏の兄弟に公深がおり、これが一色氏の祖となりました。 公深の代に三河国吉良庄一色に住み、一色姓を名乗ったそうです。 同じ吉良に住んでいた従兄妹の満氏は吉良氏を名乗っており、その子孫は「忠臣蔵」でご存知の吉良上野介です。 藤長の家系は一色家の内部分裂の後、丹後守護職家より分流、足利将軍家の奉行衆となった家系でこの家系の通例に従い、治部少輔・式部少輔の職を得て、「七郎」の烏帽子名を名乗っています。その後13代将軍足利義輝の御供衆になりました。
藤長と「公方様」の”ビンボー脱出大作戦?” 永録八年、松永久秀らが、足利義栄と共謀し将軍義輝を暗殺すると、弟の奈良興福寺一乗院門跡覚慶(足利義秋、のち義昭)も幽閉されました。 これに対し義輝の近臣細川藤孝と一色藤長は、各方面に策を巡らせ、同年七月二十八日の夜に覚慶を脱出させています。 覚慶は名も義秋とあらため、征夷大将軍になるため各地を放浪しました。(本当に”苦労人”だったんですねぇ・・・) もちろん藤長も近江・若狭・越前と従い、義秋は越前で元服して再び義昭と名を改めた後、 永録11年、織田信長と共に上洛、15代将軍となることが出来、藤長も幕府御供衆に返り咲きました。 ここまではよかったのですが・・・
”命を救われた”というのはゲームの演出と思われますが、元々将軍家とは縁戚関係にある家柄なので、あながちゲームでのあの尽くし振りは実際にもあったことなのではないでしょうか?
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.79 ) |
- 日時: 2005/05/02 21:39
- 名前: 微々美々
- 信玄公の跡継ぎについて少しだけ余談も^^
武田信玄公には、7人の男の子供が有りました。 本来なら、長男、義信が武田家を継ぐ予定で有りましたが永録8年、父の信玄に背き、東光寺においてやがて自害させられています。 長男が死亡したため、二男、信親(別名を竜芳)が後を継ぐべきものであったが、盲目のために継ぐ事が出来ませんでした。 長男、二男がNGになってしまったので、系統の順番で行くと三男、信之が継ぐはずでしたが、しかしこれまた10才で死亡。このような事が度重なり、結果として四男の勝頼が武田家を継ぐことに。 これが最大の理由になります。
よく聞く説として信玄公は、側室の諏訪御科人を非常に愛しており、側室の子供、しかも四男と言う系統の低さにもかかわらず勝頼を後継者にしたと言う説がありますが、これは間違いです。 本当の所は後継者がいなくなってしまった結果として、勝頼が武田家を継ぐ事になったと言うのが正しい解釈とされています。 ちなみに五男、信盛は、信濃高遠城にて戦死。六男、信貞も甲府において織田方の兵に殺されてしまいました。しかし七男、信清は姉をたよって米沢の上杉家にのがれることができ、この子孫は現在まで続いております。 「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.80 ) |
- 日時: 2005/05/02 22:51
- 名前: 李小龍
- 微々美々さん、ありがとうございました。
非常にわかり易いです。
また何か分からないことがあれば どんどん聞きます! 教えてくださいね。
では、やっと自分の時間ができたので 決戦Vの世界へ行ってきます!
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