Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.41 ) |
- 日時: 2005/04/27 13:19
- 名前: 微々美々
- 回答が遅くなりまして本当に申し訳ないのですが・・・
風魔小太郎について回答させて頂きますね^^ (戦国マニアさん、人物像についての解説をありがとうございました。こちらも勉強になりました)
人物については既に詳しく述べられていますので、自分はそれ以外を。
天正九年(1581)甲州の武田勝頼は、甲斐、信濃、駿河の大軍を率い、小田原北条の伊豆領への侵攻を企てました。 武田軍は、黄瀬川をへだてて駿河三枚橋から浮島ヶ原に陣を構え、北条軍は、三島と伊豆初音ヶ原に布陣します。この時、風魔一党は四隊に分かれ、夜毎黄瀬川を渡り、武田の陣に夜襲をかけたそうです。 はじめの、二、三度は、馬に藁人形を乗せて武田の陣に奇襲をかけ、また藁人形かと思ったとき、本当に夜討ちを掛けたそうです。 乗馬を盗んでいく時は、馬の横腹に貼り付き、無人の状態で疾駆させ、さらに鎧、武器、食糧を手当たり次第に掠奪し、あちこちに放火し、敵中にまぎれこんで鬨の声をあげて混乱させたとか。 この為に武田軍は、夜も眠ることができず、ついには同士討ちをしてしまいます。夜が明け、首を検分してみれば、主や親の首であり、面目なさに出家する者が多かったとか。 しかも引き上げる風魔にまじって尾行した武田の武士は、「立ちすぐり居すぐり」(一ヶ所に集まり、松明を灯し、合言葉を言ってすべての者が同時に立ち、座るという敵味方識別法)にかかって、返り討ちに合ってしまいます。 「怨めしの風魔が忍びやあら辛の乱波が夜討ちや」 と、武田軍は歌に詠んだほど、ヒドイ目に合わされたそうですよ・・・。
風魔の由来について補足も^^ 疾風のごとく出没するため、また小田原の西方・神奈川県足柄郡風祭のあたりの風間谷に住みついていたため、風魔一族と呼ばれるようになったとも。 「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.42 ) |
- 日時: 2005/04/27 17:29
- 名前: 丸目蔵人
- 微々美々さん、いつもありがとうございます。
勉強になります。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.43 ) |
- 日時: 2005/04/27 18:26
- 名前: ブー
- 戦国マニアさん微々美々さん
ありがとうございます 次は百地三太夫について教えてください
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.44 ) |
- 日時: 2005/04/27 20:20
- 名前: 戦国マニア
- 百地三太夫
彼について説明するには戦国伊賀国について少し説明が必要です。当時、伊賀国では小勢力が抗争を繰りかえしていました。やがて、国人による組織が次第に編成されていき、上忍、中忍、下忍という位も生まれます。この内、上忍の位にあったのが百地氏、藤林氏、服部氏でした。しかし、三太夫という名前は百地氏の中には見られず、後世の人によって作られた可能性が高いです。百地丹波という人がいたようで彼が三太夫のモデルとされています。ではこの百地丹波について説明します。この人物が歴史上から登場するのは織田信長による伊賀攻めとして知られる、天正伊賀攻めです。丹波は伊賀衆を率いて信長軍と戦っています。第一次の戦いで信長の進攻をはねのけていることから軍略家としても優れていたようです。しかし、第二次の戦いでは信長軍に敗北、伊賀南部の柏原城に篭もりました。信長軍の包囲は一ヶ月あまりも続き、ついに城は降伏。開城となりましたが、このとき、百地丹波の姿はありませんでした。表向きには死んだといわれていますが、百地一族の頭領として最後まで抵抗した人物が戦死したのなら、少なくとも記録には残ると思います。このことから、丹波はたくみに変装して城を脱出し、国外に逃亡したという説が有力だと思われます。その後、百地丹波は名を変えて藤林長門という人物になったといわれています。この藤林家は先ほど述べたように上忍の家柄でありながら全く謎に包まれています。奇妙なことに百地丹波と藤林長門の墓に掘られている法名はたったの一字しか違わないそうです。このことから二人は同一人物という説が有力なのです。
長々とすいません。以上です。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.45 ) |
- 日時: 2005/04/27 20:21
- 名前: 微々美々
- 「百地三太夫」って何者?について回答させて頂きますね。
戦国時代、伊賀流忍術の創始者といわれ、伊賀三上忍の一人として有名な人物です。
実は架空の人物? 可能性があります。 ”百地丹波”と言う忍者(上忍)が存在した事は記録にありますが、 百地三太夫自体は?ということらしいですよ・・・。 実は百地家の家系図にも百地三太夫の名は無いからです^^; しかし、百地三太夫の末裔に「ももち あずさ」と言う歌手がいるそうですが・・・
ところが実在説あり? 三太夫は1571年に百地清右衛門の子として伊賀国名張中村に生まれた実在の人物であるという説もあります。 天正伊賀の乱以前は名張竜口の地に住んでいたようですが、乱の少し前に喰代(ほおじろ)の里へ伯父の百地丹波とともに移ったとか。 とすると、天正伊賀の乱でリーダー的存在となった人物は三太夫ではなくなる訳ですが・・・なぜなら当時三太夫はまだ十歳だったからです。 ちなみに 決戦3でも出てくる「伊賀平定戦」は”2回目”の天正伊賀の乱の事です。
第一次天正伊賀の乱 1578年、伊勢の北畠信雄(織田信雄)は伊賀侵攻の拠点とするべく神戸の地に丸山城を構築し始めます。 ところが伊賀の地侍・百地藤兵衛らがこれに先制攻撃。築城奉行滝川雄利を追放して、城を焼き払うという大事件を起こしました。 これに怒った信雄は当然のごとく報復の機会を伺います。器量の無い人として織田家中の中でも冷遇されていた信雄は功を焦り、1579年9月、信長に相談なく一存で一万の兵で伊賀に侵攻しますが、結果は惨敗であり、山岳戦で迎え撃った伊賀勢に大打撃を受けてしまうハメに。トホホ・・・^^; 18日、 信雄はほうほうの体で伊勢松ヶ島城に逃げ帰ったと「勢州軍記」は伝えています。 しかも、このことが信長に知れ、「言語道断曲事の次第に候」と「信長公記」に残るほど信長は激怒したそうです。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.46 ) |
- 日時: 2005/04/27 20:30
- 名前: 微々美々
- 続きです^^
戦国マニアさん、いつも人物史についての詳しい解説をありがとうございます。こちらも勉強させていただく事が多く、とても感謝しております^^ 今後ともよろしくお願いいたします・・・。
多少被ってしまう部分もありますが、続きを載せておきますね。
第二次天正伊賀の乱 (決戦3の「伊賀平定戦」の舞台です) 二年後の1581年9月、信長は伊賀を殲滅すべく、信雄を総大将に丹羽長秀・滝川一益・蒲生氏郷ら名将揃いで六万もの大軍を率いて、周囲六道から一斉に攻撃しました。 対する伊賀勢は約九千、兵力の差は明らかであった。あっという間に四十九院をはじめ神社仏閣・城砦は焼き払われ、伊賀勢はほぼ全滅。 百地丹波及び生き残った者達は伊賀南西端の柏原城に篭城します。 しかし、信長の命令は意外なものでした・・・。 「力攻めはするな。和議を整え残兵を退去させた上で無血入城せよ」と命じたのです。 これを持って、第二次天正伊賀の乱は終結しました。
百地死すとも忍法は死なず? 1640年、伊賀城代家老に藤堂釆女なる人物が任命されますが、この人物、元の名を保田元則といい、父は千賀地半蔵則直。実は服部半蔵正成の兄でした。 彼は紀州に隠棲していた百地丹波の子・保武を呼んで伊賀藩士に取り立て、伊賀の名門藤林家を再興させます。そしてこの藤林保武が後に忍術書の最高峰と言われる「萬川集海」を著しました。 また、紀州に残った弟の正武も忍術新楠流の開祖となり、これも名高い「正忍記」を著しています。 つまり、忍術秘伝書の双璧と呼ばれるこれら二書は、どちらも”百地丹波の子”によって完成された訳です。ニンニン^^
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.47 ) |
- 日時: 2005/04/27 20:38
- 名前: 微々美々
- 「百地三太夫について」最終編です^^
百地三太夫は女難の相がある? こんな逸話があります。 ココ掘れワンワン!? 京都にのぼった折、都で言い交わした女がいました。 もちろん伊賀には妻が待っているので、不倫ですが^^; やがて伊賀へ帰ることになる訳ですが・・・女は連れて帰れません。 ところが、京都の女のほうも百地のことが忘れられず、とうとう押しかける格好で伊賀へやって来ます。 この時、女についてきたのが、飼っていた犬。 案の定、百地の妻が嫉妬して、この女を家来に命じ殺害してしまいました。 事情を知らない百地は女の姿が見えないので、あちこち探します。しかし、女の死体は百地の妻が隠してしまっていたので見つかりません。 ところが、京都から女についてきた犬が余りに吠えるので、不審に思った彼がその場所を掘り起こすと・・・ 女の変わり果てた姿を目にした百地は、なげき悲しんで、別の場所に遺体を葬り、シキミという木を植えた。そこでその地は「シキミ塚」と呼ばれるようになったそうです。 「三国志記」に伝わる話です。 「禁賊秘誠談」などになると、 弟子の石川五右衛門が「百地三太夫」の妻と内通し、百地の愛妾式部を殺害、遺体を井戸へ放り捨てて逐電したそうです。(__)/'チーン ・・・ひ、ひどい^^;
「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
ちなみに・・・私事なのですが、4/28、4/30に頂いたご質問については、自分の回答が翌日になってしまいます。大変申し訳ないのですが、ご了承ください・・・。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.48 ) |
- 日時: 2005/04/27 22:20
- 名前: ブー
- 戦国マニアさん美々美々さんありがとうございます
石川五右衛門についておしえてください
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.49 ) |
- 日時: 2005/04/27 23:28
- 名前: 微々美々
- 「石川五右衛門」って誰?について回答させて頂きますね。
実は・・・「斬鉄剣」が折れたりすると、激しく落ち込む「ルパン3世」のあの人^^ というのは”ジョーク”で・・・
実在の大泥棒です。 「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」の辞世の句で有名な人ですね・・・。 大盗賊として江戸中期から浄瑠璃や歌舞伎の立て役者になった石川五右衛門が文禄3年(1594)に一族と一味が京都三條河原町で釜煎りの極刑にされたのは歴史的事実であった「山科言経卿記」(やましなげんきょうき)に記された話ですし、
五右衛門が忍者という説は、寛文7年(1667)に東武残光の「賊禁秘誠談」の中にある話です。 伊賀国石川村に文吾という者が上忍百地三太夫の弟子となり忍術修行をしていたが、三太夫の本妻と密通し妾の式部を井戸に投げ殺し金を奪ったので破門され、京都に逃げ石川五右衛門と名のり大盗賊に。 後に太閤秀吉の命まで狙うも、千鳥の香炉がチリリと泣いたため見つかり釜煎りにされたと言うものです。 この話は喰代式部伝説や伊賀竜口百地家のおかん井戸の由来を石川五右衛門に結びつけているものです。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.50 ) |
- 日時: 2005/04/27 23:25
- 名前: 微々美々
- 出生はいくつも説があるので、どれが本当の所かは不明です。
「真書太閤記」では・・・ 河内国の郷士文大夫の息子、幼名を五郎吉。十四歳の 頃母や父が死に、放蕩に身を持ち崩し、十七歳の時石川村の住家を売って伊賀に行き、 名張で福寛という南蛮人に会い忍法の手ほどきを受けたとか。 十九歳の時福寛の許を去り、同国の百地三太夫の家に奉公し、名を石川文吾と改めた後 三太夫が後妻に二十五歳の嫁を娶っていたのですが、この後妻を寝取った上に三太夫の金子八十五両を盗み、手に手をとって駆け落ち、伊勢で生活していたが やがてその女を捨てたそうです。 文吾は名を五右衛門と改め、京の都・東山の小さな家に住み、そのうちあぶれ者を子分にして、 本格的な盗人家業に入りました。その後文祿2年頃、五右衛門は再び京に帰り、伏見城に忍び入り、秀吉の枕元にあった名器・千鳥の香炉を盗もうとして捕らえられたとか。 又その頃秀吉に冷遇されていた関白秀次が自分を守るために、先手を打ち、この五右衛門に秀吉殺害を依頼したとも。恩賞は思いのままと言うことで、五右衛門は秀吉の寝所に入り、まさに首を斬ろうとした時、置いてあった千鳥の香炉が鳴いたので、秀吉は目を覚まし、「曲者、出合え」で、宿直の薄田隼人正(岩見重太郎)や仙石權兵衛などが駆けつけ、 取り押さえられたとあります。 映画「梟の城」にも似たようなモチーフがあったような? ※薄田隼人正は豊臣秀頼の時に豊臣家に仕えたはずなので、この話自体怪しいものですが・・・
明石出生説では・・・ 石川五右衛門はそもそも石川明石という三好氏の家臣の子で、安土・桃山時代の大盗賊でした。文禄3年(1534)、三条河原で一子とともに釜煎りの刑に処せられました。江戸前期の俳諧師、井原西鶴の物語の中では、親不孝の限りを尽くし、最盛期には三百人からなる盗賊団の頭でしたが、ついに天運つきて逮捕され、京都の七条河原で釜ゆでの刑に処せられるという具合に描かれました。現在、石川五右衛門といえば、その破天荒な生き方を浄瑠璃や歌舞伎、新劇で演じられるにいたって、永遠のヒーローとして捉える人もいます。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.51 ) |
- 日時: 2005/04/27 23:30
- 名前: 微々美々
- 続きです^^
また、丹後生まれと言う説もあり、京都府与謝郡野田川の、字市場付近が大和朝時代に、蘇我の石川麻呂の荘園であったことから、石川姓の出自となったとか。 その史料によると、「石川左衛門殿、天正10年に討死。次男五郎左衛門盗賊となり、京都にて御仕置き。文祿3年秀吉のため、母親ら13人と共に三条川原にて、釜茹での刑に処せらる」と要点のみを記しています。
釜茹での刑は間違い? この釜ゆでの刑というのは、当時の反逆者用のもので、”単なる泥棒位”には科せられなかったそうです。 「武徳編年集成」によると、五右衛門は大坂城内に入り込み、数多の刀剣を盗んだという話ですし、また「山科言継郷記」には文禄3年8月24日「天晴盗人。スリ10人。また1人者釜にて煮らる。同類19人磔つけ、三条橋河原にて成敗なり」となっています。 「千鳥の香炉」を盗んだことが本当かどうかは???ですが、秀吉の肝を冷やした事は間違いないことかも知れないですね^^;
五右衛門風呂の起源 12世紀頃、僧・重源(ちょうげん)が遊学先の宋(当時の中国)で見た鉄湯船を、帰国して周防(山口県)の地で作らせたのが始まりとされています ”五右衛門風呂”の名前になったのは、皆様ご存知の「釜茹での刑」に由来します。
「絶景かな、絶景かな」 南禅寺の正面にそびえ立つ三門に由来します。 寛永5年(1628)伊勢・伊賀の大名であった藤堂高虎(とうどうたかとら)が寄進したものですが、 この三門が特に有名なのは、天下の大盗賊として知られる石川五右衛門が棲んでいたという言い伝えがあるからです。 歌舞伎の「楼門五三桐」(ろうもんごさんのきり)では、五右衛門が楼上で大きな鬘(まげ)に派手などてら姿で太い煙管(きせる)をくゆらせながら、「絶景かな、絶景かな」と大見得を切る場面があります。 実際には三門は五右衛門の死後に建立されたのでもちろん史実ではありませんが、この三門と五右衛門の組合せは絶妙ですね・・・。
戦国無双の「五右衛門」はなかなか”いい味”を出してますよね・・・。 ”アウチ!”とか”阿国さ〜ん”とか、自分は好きなキャラですが・・・ 「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^; ちなみに・・・私事なのですが、4/28、4/30に頂いたご質問については、自分の回答が翌日になってしまいます。大変申し訳ないのですが、ご了承ください・・・。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.52 ) |
- 日時: 2005/04/28 06:14
- 名前: ブー
- 微々美々さんありがとうございます
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.53 ) |
- 日時: 2005/04/28 19:01
- 名前: ブー
- 安土城お焼いたのは誰ですか
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.54 ) |
- 日時: 2005/04/28 20:58
- 名前: 木曾 義秀
- 多分、織田信雄じゃなかったかなあ・・・
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.55 ) |
- 日時: 2005/04/29 09:10
- 名前: ブー
- ありがとうございます
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.56 ) |
- 日時: 2005/04/29 12:31
- 名前: 微々美々
- 回答が遅れまして大変申し訳ないのですが・・・
「安土城を焼いたのは」誰だ?について回答させて頂きますね。
木曾義秀さんの仰る「織田信雄犯人説」が現在は最も有力とされています。
せっかくなので・・・ 補足&余談も載せておきますね^^
木曾義秀さんの回答の補足です。 安土城が本能寺の変の直後に炎上し、灰燼に帰したのは史実通りですが、この放火犯の正体は現在に至るまでわかっていません。 一般には明智勢が行ったとも言われますが、実は光秀が安土城に放火する決定的な理由はありません。 しかも・・・記録では安土炎上の2日前、山崎の戦いで負けたうえ、戦死しています。 さらに・・・「兼見卿記」によれば、安土炎上は6月15日の話とされています。 この場合、学説上貧乏くじを引いたのは、本能寺の変の勃発時に安土城に詰めていた他ならぬ信雄ですね・・・。 フロイスには「愚か者」とまで記録に残された上に、火付けの張本人であるとまで疑われている始末です。 しかし、自分も安土の町を旅行で訪れたことがありますが、そんな信雄以下四代の墓が安土城址にあったことは少し”意外な発見”でした。
ここからは自分の知っている史実を載せておきますね^^ 安土炎上の説は、大きく分けると”3つ”あるそうです。 1つ目:明智秀満犯人説 2つ目:織田信雄犯人説 3つ目:農民放火説 それぞれに史料も残っています。
明智秀満犯人説の場合 「明智軍記」によると、明智左馬介の安土退去に当たり、秀吉勢の追求を防ぐ為に安土民家に放火すると記しています。 細川家の記録にも同様の記述が残っています。 「左馬介は安土に在りて城を焼き、路次の敵を切り抜けて、坂本の城に入り、光秀内室子息を殺してその身も自殺、生年46歳、光秀の婿なり。」 と記されています。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.57 ) |
- 日時: 2005/04/29 12:33
- 名前: 微々美々
- 続きです^^;
織田信雄犯人説の場合 「イエズス会日本年報(1582年追加)」によると、 安土山においては、津の国において起った敗亡が聞えて、明智が同所に置いた守将(明智光春)は勇気を失ひ、急遽坂本に退いたが、あまり急いだため、安土には火を掛けなかった。 (中略)附近にゐた信長の一子がいかなる理由によるか明でなく、智力の足らざるためであらうか、城の最高の主要な室に火をつけさせ、ついで市にもまた火をつけることを命じた。 と記されています。
農民放火説の場合 「武功夜話」「千代女書留」に、織田信雄家臣の小坂孫九郎の炎上見聞記が記されていますが、 小坂孫九郎の記録によると、安土城は天主から出火したものではなく、江の口の町家からの兵火の為に燃え広がり、城内に飛び火して天主も類焼したとされています。 ”どさくさに紛れての火事場泥棒”と見る説の根拠らしいのですが・・・。
自分としては「真相は闇の中」というところなのですが・・・。
余談も^^ 決戦3・13章で「セミナリオ(神学校)」が登場しますが、実はここに・・・日本に初めてパイプオルガンが導入されたことは余り知られていません^^; イエズス会の宣教師たちは、信長の許しを得て、安土に「セミナリオ」を開校しました。そこは、キリスト教の神学校(全寮制)でしたが、同時に西洋文化を伝える窓口でもありました。 「セミナリオ」では、オルガン等の西洋楽器の演奏による情操教育をはじめとして、最先端の近代教育がなされていました。日本で最初に輸入されたオルガンによって西洋の音楽が奏でられ、信長もその音色を聴いたと伝えられています。 また、天正少年使節として渡欧した4名の少年は、その滞在中の歓送迎会の中で、パイプオルガンを見事に演奏し、盛大な拍手を受けたと記録されているそうです。 「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.58 ) |
- 日時: 2005/04/29 13:48
- 名前: ブー
- 微々美々さんありがとうございます。 明智秀満について教えてください。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.59 ) |
- 日時: 2005/04/29 20:00
- 名前: 戦国マニア
- 明智秀満
明智光秀の重臣。旧姓三宅。通称弥平次。光秀の従兄弟、明智左馬助光春として有名ですが、実際は従兄弟ではなく三宅氏とする説が有力。天正8年〜同9年ごろに明智姓を与えられたと推定されます。また、実名を光春とする有力な資料はありません。ただし、「信長公記」に「明智左馬助」とあり、「惟任謀反記」にも「明智左馬助光遠」とあるので実際に左馬助を名乗った可能性は高いです。1582年、光秀が織田信長を討った本能寺の変では先鋒となって京都の本能寺を襲撃。その後、安土城の守備につくが、羽柴秀吉との山崎の戦いで光秀が敗死すると坂本城に移り、光秀の妻子を刺し殺し、城に火を放って自害しました。琵琶湖の湖上を馬で越えたという伝説が残されています。墓所は滋賀県大津市の西教寺にあります。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.60 ) |
- 日時: 2005/04/29 20:13
- 名前: 微々美々
- 「明智秀満」って誰?について回答させて頂きますね・・・。
人物については戦国マニアさんが詳しく述べていますので、自分はそれ以外の逸話を^^
実はオシャレ? 細川忠興がある時光秀の邸を訪ねた時の事です。その折小姓の一人が縁側の障子外を通る際、目通りをする様に手を突き、慇懃に拝伏して行きました。 忠興は光秀に向って、「光秀殿の御小姓達は律義ですな。目通りでもなくただ障子の外を通るだけなのに、手をついて拝伏して通って行った」 と言えば光秀は、「それは多分三宅弥平次であろう。その小姓を呼んでみなされ」 と言います。忠興は先ほどの小姓を呼んで、その名を尋ねると、なんと三宅弥平次であった。忠興はかなり感心したとか。 この弥平次は後に明智家の第一の重臣となり、明智左馬助秀俊(秀満)と名乗って二千人の大将となります。 白練の羽織に、狩野永徳に雲龍を墨絵で描かせて具足の上着とし、二の谷と言う名物の兜を被り、明智家の先手として働き、度々高名をあげその名は知れ渡ったそうです。 「名将言行録」「武辺咄聞書」に伝わる逸話です。
本物の忠義者 光秀が亀山城に居た時、羽柴筑前守秀吉が陣中見舞にやってきた時の話です。 光秀はとても喜んで老臣六人を秀吉に会わせようとしますが、秀満は病と称して出てきませんでした。光秀は残念に思い、「筑前殿は天下の出来大名であるし、顔を知られれば何かと役立つと思うのが、弥平次は不幸せな者だ」 と言います。そして秀吉が帰るのを光秀は馬上で道まで送り出て、その後城に帰る時に茜の広袖を着た男が馬を責めている所を目にします。 光秀はこれを見て周りの近臣に、「あれは誰だ?」と尋ねると、「あれは三宅弥平次殿であります。」 と答えられます。それを聞いた光秀は不興になり、城へ帰ると秀満を呼寄せて、「そなたは日頃思っていたのとは違って愚か者だな。筑前殿は昨今の天下の出来大名だから、あの様な御仁に顔を知ってもらうことは士の名聞であるのに仮病を使って目見えしないとは何事だ!」 と怒って責めると秀満は、「私が仮病を使ったのは、他の大名に見知られる事が嫌だったからです。世間の侍は諸大名に見知られて、今の主家を辞退した後にその家へ再仕官する手段にしています。私は当家以外に主家を持とうなど微塵も思っていないので、他の大名に見知られたところで少しも益が無いのでわざと目見えに出なかったのです」とその理由を述べると、光秀は何も言わず奥に入っていったそうです。 「名将言行録」にある話です。
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