Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.1 ) |
- 日時: 2005/04/20 18:21
- 名前: 丸目蔵人
- 槍衆に出てくる宝蔵院の歴史はどういうものですか?
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.2 ) |
- 日時: 2005/04/20 19:28
- 名前: 戦国マニア
- これは僕も知りたいですねー
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.3 ) |
- 日時: 2005/04/21 02:01
- 名前: 微々美々
- ここのところ、回答が遅れがちで本当に申し訳ありません・・・
(私事で恐縮ですが、金曜日まではご質問への回答が深夜の時間になってしまいます。ご理解いただけると幸いです^^;)
早速、「宝蔵院の歴史」って何?について回答させて頂きますね・・・。
「中国の槍、韓国の弓、日本の刀」という言葉が古くからあります。 でも、日本にも優れた槍術がありました・・・ それが「宝蔵院流槍術」です。 宝蔵院流槍術は、柳生新陰流剣術とともに奈良を発祥地とする日本を代表する武道といわれています。 約450年前、興福寺の僧、宝蔵院覚禅房胤栄が猿澤の池に浮かぶ三日月を突き、十文字鎌槍を創始したと伝えられています。 鎌槍を活用した槍術は「突けば槍 薙げば薙刀 引けば鎌 とにもかくにも外れあらまし」とうたわれるように攻防にすぐれ、やがて全国を風靡し、最大の槍術流派として発展しました。 ちなみに柳生石舟斎とともに上泉伊勢守から新陰流を学び、印可状を与えられています。
興福寺なのに何で「宝蔵院流」? これは、興福寺の中には40余りの坊があり、その中の一つに宝蔵院があった事が理由です。 その宝蔵院の院主が、創始者の胤栄でした。
やるな、コーエー!? 光栄のゲームで「太閤立志伝」シリーズにもきちんとこの流派の型が出てきています。 粘花(ねんげ)・巻槍・引落・抜け突き・柄返し・飛鳥(ひちょう)の6種類が登場しています。
宝蔵院流を有名にしたのは? 二代目 宝蔵院胤舜です。 「槍術の形態を完成させた」のは二代を継いだ胤舜と言われています。胤舜は胤栄の甥で、胤舜が宝蔵院に入ったときは胤栄は80歳を超えており、直弟子がいる奥蔵院の僧から槍術を学んだようです。「ニ天記」では、宮本武蔵が奥蔵院の僧と試合したことが記されています。中川半入、柴田加右衛門、高田又兵衛、長谷川内蔵助、磯野主馬、田中勘兵衛があり、この六人を胤舜門下の六天狗と稀しました。 これらの高弟が宝蔵院流の分派を形成し、広く全国に広まっていきました。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.4 ) |
- 日時: 2005/04/21 02:13
- 名前: 微々美々
- 続きです^^
興福寺には槍は無し? 宝蔵院では、胤舜以降も宝蔵院流の本流が継承者により伝承されましたが、幕末、明治維新、廃仏毀釈などを経て現在の興福寺には残されていないそうです。
武蔵、負ける? 宝蔵院を訪れた時の事です。下を向いている老僧の眸がジイッと自分の足元を見据えているようで、武蔵は思わず九尺ばかり跳んで通り抜けます。宝蔵院では、二代目胤舜は留守で、高弟の阿巌が相手をしますが、木剣の一撃で即死してしまいます。 挨拶に出てきたのは、先程、畑仕事をしていた老僧奥蔵院の住職日観でした。 飛びのいた理由を武蔵は、「御坊の鍬が、私の両足に向かって、いつ横ざまに薙ぎつけて来るか、分らないように思えたのです。又、下を向いて土を掘っていながら、御坊の眼気は私の全身を観、私の隙を恐ろしい殺気で探しておられたからです。」と言うと、コレに対して住職は、「お手前が十間も先から歩いて来ると、もうお手前がいう殺気が、わしの鍬の先にピリッと感じていた。だから自分も殺気立った。あの殺気は影法師じゃよ。つまり、自分の影法師に驚いて、自分で跳び退いたことになる。」と説きます。 武蔵はこの後、 「敗けた。強いことにおいておれは勝っている。しかし、形では勝ったが、やはり敗けた。」と心の中で繰り返しながら、宝蔵院を後にしたそうです。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.5 ) |
- 日時: 2005/04/21 02:25
- 名前: 微々美々
- ついでに余談も・・・
日本の槍の起源? 菊池槍がその発祥と言われています。 菊池槍は、九州肥後國の菊池氏に由来しています。 菊池氏は、千人よりなる長柄組を組織し、筑紫川の合戦で竹竿に短刀をくくり付けた武器で戦いました。 世に言う「菊池千本槍」であり、これが槍の起源だとか。
竹刀は剣道の道具ではなかった? 武術修行用の道具としての「竹刀」は 槍術で使われたものがその最初だそうです。 しかしその「竹刀」は「しない」とは読まず、 「ちくとう」と読んだとか。
十文字鎌槍の逸話? 昔話にこんな話があります。 胤栄(いんえい)という人は、坊さんであるが槍の術を好み、武士四十人あまりと勝負をして、勝ちぬこうとしましたが、目的は達せられませんでした。 ところが、ある年、春日明神が夢に現れ、磬(けい)と鎌槍(かまやり)と地蔵仏(じぞうぶつ)の三つを与えられました。それから胤栄は、猿沢池にうつる月の影を突いて練習し、ついに宝蔵院流の槍術を感得したと伝えています。
この逸話から、「月形(げっけい)十文字槍」の別名でも呼ばれる事になったとか。 「戦国無双」の”燃える闘魂”「真田幸村」の武器で有名ですね・・・
「吼えろ槍よ! わが魂の炎となりて!!」 といったところでしょうか^^;
「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.6 ) |
- 日時: 2005/04/21 13:37
- 名前: ブー
- 真田十勇志は、実際にいた人物なんですか。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.7 ) |
- 日時: 2005/04/21 17:28
- 名前: 丸目蔵人
- いつもいつも微々美々さんのスレには勉強になります。
ありがとうございました。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.8 ) |
- 日時: 2005/04/22 01:29
- 名前: 微々美々
- 歴史のヒーロー、「真田十勇士」について回答させて頂きますね。
※有名なので個別の経歴は省きました。
今でいう「スーパー戦隊シリーズ」の元祖? 実は・・・架空の存在です。 「真田十勇士」という呼び方すら、戦国時代には”無かった”からです。 明治末期から大正時代にかけて人気のでた、庶民の”ヒーロー像”だったと言われています。 そもそも・・・ 「真田十勇士」という呼び方は、立川文庫がはじめて使用した言葉です。 立川文庫は大坂の立川文明堂から、大正初年、約十年間にわたって出版された文庫型の安価な小冊子です。 青少年に愛読され、その四十編「猿飛佐助」が、ことに大ヒットであったとか。
真田十勇士の内訳は? 猿飛佐助 ・霧隠才蔵 ・海野六郎 ・穴山小助 ・由利鎌之助 根津甚八 ・望月六郎 ・筧十蔵 ・三好晴海入道 ・三好伊三入道 です。
それではその”モデル”は? 大坂冬の陣で幸村が影武者として用いた人物がそのモデルとされています。
実在の家系は? 海野六郎・穴山小助・根津甚八・望月六郎 の家系が該当します。 海野・根津(禰津)・望月はいわゆる滋野三家といわれた名族の姓で、真田家家臣と言えばまず真っ先に出てきますね・・・ 登場は「真田三代記」からですが。 穴山小助は武田の一族穴山氏ゆかりのものだとか。 小助は、幸村の影武者として、「真田三代記」などより一時代早いころから史料に出ています。 ちなみに俳優の”根津甚八”さんは自分の芸名を「真田十勇士」にあやかって付けたそうです。
有名人は? 猿飛佐助 と霧隠才蔵 ですね。 猿飛佐助は「忍者ブーム」を巻き起こした子供のアイドル?です(架空の人物ですが)、霧隠才蔵 にはモデルがいますよ・・・。 「真田三代記」の中の記述に霧隠鹿右衛門という忍者が、幸村の命を受けて家康の動静を探ったのは大坂冬の陣の折りのことである。 と書かれており、この人物がモデルとされています。
決戦3では? 三好清海入道は三好政康を、三好伊三入道は政勝をモデルにしたそうです。 「そ〜そ〜」の人(三好政康)はただのお笑いトリオ?ではなかったようです。 きっと・・・ 「政康参上!この戦い、”イケ”そ〜そ〜!」 等と言いながら活躍したのではないでしょうか?
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.9 ) |
- 日時: 2005/04/22 01:37
- 名前: 微々美々
- 続きです^^(余談ですが)
実は「尼子十勇士」が元ネタ? 可能性があるそうですよ。 決戦3では、「山中鹿之介」が十勇士の一人です。 10人とも名前に「介」が付くので、「尼子十介」とも言われています。 名前が”ふざけている”のが最大の?特徴ですね^^ 山中鹿之介(やまなかしかのすけ):実在 秋上庵介(あきあげいおりのすけ):実在 横道兵庫介(よこみちひょうごのすけ):実在 ココまでは”まとも”なんですが・・・
早川鮎介(はやかわあゆのすけ):川=魚=鮎?←連想ゲーム? 尤道理之介(もっともどうりのすけ):こらー^^; 寺本生死介(てらもとせいしのすけ):寺=葬式? 植田早苗介(うえださなえのすけ):田植えですか・・・? 深田泥介(ふかだどろのすけ):たしかに泥だらけになりますが・・・ 藪中荊介(やぶなかいばらのすけ):こらこらー^^; 小倉鼠介(おぐらねずみのすけ):倉=ネズミ?
説によってはさらに 大谷古猪介(おおたにこいのすけ):割と”マトモ”ですね・・・ 高橋渡介(たかはしわたりのすけ):橋を渡る・・・ギャグ? 荒波碇介(あらなみいかりのすけ):碇(シンジ)だけに・・・「逃げちゃ駄目だ」でしょうか^^ 井筒女介(いづつおんなのすけ):男なのに何故女? 川岸柳介(かわぎしやなぎのすけ):おーい^^; 破骨障子介(やぶれほねしょうじのすけ):こらこらこらー^^; になっている事も・・・
「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.10 ) |
- 日時: 2005/04/22 06:48
- 名前: ブー
- 微々美々さんいつもありがとうございもす
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.11 ) |
- 日時: 2005/04/23 07:33
- 名前: かばちゃん
- 決戦3ってわけじゃないけど・・・実際忍者ってどの程度の動きができたんでしょ・・・
何メートルも飛べるわけないし、消えたり水の上走ったりもできませんし、ましては火吹いたりもできるわけないし・・・ 忍者部隊とh
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.12 ) |
- 日時: 2005/04/23 07:35
- 名前: かばちゃん
- あいやぁ・・すいません中途半端になってました。
忍者部隊とは実際どういった活躍をしていったんでしょうか?ようするにただの暗殺部隊のことなんでしょうか・・
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.13 ) |
- 日時: 2005/04/23 12:53
- 名前: 微々美々
- 「忍者部隊とは実際どういった活躍をしたの」?について回答させて頂きますね・・・。
戦国の「007」? 万川集海によると、「忍者は敵の様子を必ず見聞きする職である」と記されており、情報収集が主な仕事でした。 伊勢三郎義盛の百首の忍歌にも 「忍びには習いの道は多けれど先ず第一は敵に近づけ」 と詠まれる程、重要なものだったそうです。
忍者=泥棒? 元々忍芸は智謀計策をもって、ある時は塀・石垣などを登り、ある時はくさり、かんぬき、掛鉄、尻差を外すこともあるので、ほとんど盗賊の術に近いものとされています。 そのため無道の者が術を修得して悪逆を働いたなら、忍術を学ぶ事は結局盗賊の術を教えることにもなりかねないとされています。 石川五右衛門が”天下の大泥棒”だったのもこれで納得がいくところが大きいとか。
忍者は暗殺部隊? 正確な解釈ではないようです・・・。 忍術にも2つの体系があり、1つを陽忍、もう1つを陰忍としています。 陽忍とは謀計の知恵と思慮をもってその姿をあらわしながら敵中に入り込むことであり、 陽忍は情報工作の術を記しています。 隠忍とは人の目を忍んで姿を隠す術を用いて忍び入る技のことで、 陰忍は夜討ち・強盗などの術が記されています。 なので・・・まんざら「暗殺」はなかったわけでもないのですが、主な仕事は武将の謀略を助けることが任務でした。 「間者」とは「間を隔てる」者という意味があり、忍者の別名ですが、この場合の「隔てる」とは何も 「敵」ばかりではなく、「主君」と「家臣」「主家」と「領民」でもありました。つまり、人心を乱す事を目的とした方法の1つだったとされています。 陰忍の史料は現在「絶版」なので、詳しい事は不明なのですが^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.14 ) |
- 日時: 2005/04/23 13:08
- 名前: 微々美々
- 忍者を重用した武将
伊勢三郎義盛・楠正成父子・武田信玄・毛利元就・越後謙信・織田信長です。 一例を・・・ 甲斐国の守護武田信玄晴信は名将である。忠勇にして謀計の巧みに行える者を三十人抱え置いて、禄を重くし賞を厚くして(重用し)間見・見分・目付と三つに分け、その総称を三者と名付けて常々心を通わせておき、軍事の要に用いられた。隣国の強敵と戦って一度も不覚を取らなかったことは全て三者の功績であると待遇なさったのである。 信玄の詠歌に 「合戦に三者なくして大将の石を抱いて淵に入るなり」 「戦いに日取方取さしのぞき三者をやりて兼ねて計らえ」 と万川集海に記しています。
余談で忍者の呼称も^^ 「にんじゃ」という呼び方も、大正時代頃までは「にんしゃ」と濁らずに発音されていたそうです。 または「忍術者」とも呼ばれていました。 それ以前、江戸時代には統一した呼称はなく、国や地方ごとに違った呼び方をしていました。 都道府県別の忍者の呼称一覧を載せておきますね。
京都・奈良:水破(すっぱ)、伺見(うかがみ)、奪口(だっこう) 山梨県: 透破・出抜(すっぱ)、透破(とっぱ)、三ツの者 新潟・富山:軒猿(のきざる)、間士(かんし)、聞者役(ききものやく)、郷導(きょうどう)、郷談(きょうだん) 青森県:早道の者(はやみちのもの) 愛知県 :響談(きょうだん) 宮城県 :黒はばき 神奈川周辺 :乱破(らっぱ)、突破(とっぱ)、草(くさ)、かまり、物見(ものみ) です。 「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.15 ) |
- 日時: 2005/04/23 14:30
- 名前: 丸目蔵人
- アマリア、サンゼスなどの南蛮用兵たちの史実はどうなっているのですか?
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.16 ) |
- 日時: 2005/04/23 17:19
- 名前: 微々美々
- ・・・忍者と言えば「くのいち」も欠かせないので、余談追加で^^
くのいち=女の漢字の分解説はNG? 本当です。 本来は「久の一」「九の一」が正解です。 「女」を崩したもの、というのは小説が起源となります。
由来は下ネタ? これも本当です。 女性の方には大変失礼な話になりますが、 人間の体に開いている「穴」の数が由来です。 両目(2個)・両耳(2個)・鼻(穴が2個) 口・お尻で計8個ですが、女性には・・・ という事です^^ くのいちの術 諜報活動をメインとしていましたので、 女性の「特性」を活かした情報収集を行ったそうです。 自分的には「戦国無双」の「くのいち」は好きなんですが・・・ 「お仕事、お仕事。にゃはん^^」ですかね・・・
トンデモ説の1つとして、「出雲の阿国」が歩き巫女をしていた事、出身地が出雲であることから、実は「くのいち」では?と言う説もあります。
ついでに「盗賊」にもポリシーがありましたので載せておきますね。 江戸時代ですが「金科玉条」というものです。 内容は 「人を殺さず、女を犯さず、金の余ったところからしか盗みをしない」と言う3か条です。 これを守った盗賊は盗みのことを「おつとめ」すると言っていました。
当時の”忍者”らしさを感じさせるゲームとしては、 「天誅」シリーズが該当すると思われます。 割と「万川集海」に沿った感じで作られていましたよ^^
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.17 ) |
- 日時: 2005/04/23 17:15
- 名前: 微々美々
- 「アマリア」「サンゼス」の史実について回答させて頂きますね。
二人とも”ゲームオリジナル”の武将のため、 残念ですが史実はありません。
アマリアについては、1568年のネーデルランド独立戦争を関連させていますが、サンゼスについてはありませんでした。 多分、ペドロに「カステラ」を”横取り”されてその恨みを晴らしに海を越えたのではないでしょうか? (笑)
ちなみに ポルトガル人が種子島に漂着して火縄銃を領主に献上し、平戸にスペイン(イスパニア)人が来航したのは1543年です。なので、堺を中心として南蛮傭兵の流入はあったと考えても問題は無いかと思われます。 当時の状況として・・・ 十六世紀の半ば、ヨーロッパではイギリス、スペイン、フランス、オランダ、ポルトガルなどの王国が外交の駆け引きと戦争に明け暮れ、ローマ法王の絶対権威がカルヴィンやルーテルの率いる新教徒によって揺らぎ始め、イギリスのヘンリー八世がローマ法王に背いてカトリック教会から離脱して英国国教会を起こし、ヨーロッパ諸国は合従連衡、同盟と背反に忙しく、旧教徒と新教徒は反目し合い、スペインとポルトガルは新大陸の征服と開発に忙しい状況である事などを、信長が宣教師たちを個々に謁見してつぶさに聞き出している事実はあったようです。
ヨーロッパの戦争形式は鉄の鎧兜、長槍、長剣で武装した騎士集団と長槍密集軍団、騎馬遊撃隊、傭兵軍団などのぶつかり合いが主流で、要塞型都市に騎士団と町人が一緒にたて籠る籠城戦、攻城槌や投石機を使っての攻城戦が主流でした。 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らの方が鉄砲隊戦術と鉄砲所有数にかけてはヨーロッパの諸王よりは勝っていたと思われます。 自分が知っているのはこのぐらいですね・・・。 「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.18 ) |
- 日時: 2005/04/23 20:59
- 名前: 丸目蔵人
- 微々美々さん、ありがとうございました。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.19 ) |
- 日時: 2005/04/23 21:44
- 名前: 鉄砲五段
- はじめまして、鉄砲五段と申します。以後お見知り置きを・・・
早速ですが質問しても良いですか?
質問:決戦3に直接出てきませんが、信長の父である織田信秀について教えて下さい。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.20 ) |
- 日時: 2005/04/24 00:50
- 名前: 微々美々
- ご質問についてはどうぞご遠慮なく・・・
こちらも「スレを立てた」甲斐がありますので^^
早速ですが、”尾張の虎”「織田信秀」について回答させて頂きますね・・・。
どんな人? 織田信秀は、管領家・斯波氏である尾張守護家の陪臣(家臣の家臣)でした。 清洲城主下四郡守護代織田達勝の三奉行の一人。 天文の初めより頭角を現し主家を圧倒、天文七年(一五三八)には清洲城を、二年後には那古屋城を、さらに二年後には小豆坂で今川氏を破り、西三河を制圧しました。 天文一六年(一五四七)、美濃に出兵し、稲葉山城下まで迫るも斎藤道三に敗れています。 翌年、道三の娘・濃姫と息子・信長が婚姻し、講和。同年、安祥城を今川氏に奪回され、以後も今川氏や尾張の諸族との戦いに明け暮れますが、 天文二十年(一五五一)、病死しました。
信秀の生きていたころの尾張 この当時、織田家では敏信一派と信定一派が共に尾張守護代を称して、争いを繰り広げていました。斯波氏は、越前国を朝倉氏に横領され、尾張国でも名ばかりの存在でした。 ゆえに織田一族の争いを調停できず、成り行きを見守るばかりでした。
尾張全土への掌握はいつから始めたの? 信長が生まれた天文3年(1534)と聞いています。 信長が生まれてすぐに信秀は勝幡城から古渡城へ移りますが、ココから彼の野望は始まりました。 同4年(1535)、松平清康と争って、その死に乗じ、同9年(1540)、三河安祥城を落とし、 天文11年(1542)8月、三河に進出した今川義元の大軍を小豆坂の戦いにて破っています。 ※このときの戦いで活躍した7人を「小豆坂七本槍」と称します。秀吉もコレにあやかり、後に賤ヶ岳七本槍を任じています。 同12年(1543)、禁裏に修理費として4千貫文を献上し、後奈良天皇よりお褒めを頂いています。 同13年(1544)、三河の松平広忠(家康の父)を再び安祥城に破ると、広忠は今川義元を頼り、義元は出兵。織田と今川の戦いに進展しました。 天文17年(1548)美濃の前守護、土岐頼芸をたすけ、斎藤道三と戦うが、のち和睦し、子の信長に道三の娘を娶ることに。
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