Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.59 ) |
- 日時: 2005/04/15 14:52
- 名前: 微々美々
- かなり「難しい」ご質問ですね・・・
数は少ないですが、「戦国大名」の血液型について回答させて頂きますね。
自分が知っているもので、かつ「決戦3」に登場し、「確実性」の高いもので絞っていますので数は少ないですが^^;
豊臣秀吉(木下藤吉郎) O型 伊達政宗 B型 上杉謙信 AB型
は血判などから間違いないとされているようですよよ・・・
・・・数が少ないので申し訳ないのですが(困)
「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
|
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.60 ) |
- 日時: 2005/04/15 15:52
- 名前: 微々美々
- 「決戦3装備品の由来」 第三回です^^;
今回は「花の名前が付く」甲冑について
シダの甲冑 由来:花の咲かない植物だそうですが、実はこんな童話があります。 大昔にはシダも花を咲かせていたのですが、キリスト生誕に際し世界の全ての植物が思い思いに美しい花を咲かせ、誕生を祝ったのにシダだけがうっかりして花を咲かせそこなった。これを神が怒り、以後はシダから花を奪ってしまったといいます。 また、眼に見えないシダの種子を手に入れることに成功すれば透明人間になれると信じられていたそうです(笑)
スミレの甲冑 逸話:スミレが紫色をしているのは、美の女神ヴィーナスの嫉妬のせいだと言われています。ヴィーナスが息子のキューピッドに「私とスミレとどっちが綺麗?」と尋ると、キューピッドが「スミレ」と答えたので、怒ったヴィーナスが、乳白色のスミレをひどく叩いたので、紫色に変色してしまったとか。 「私は、春にスミレとともに帰ってくる。」という 言葉を残して出兵したのが、あのナポレオンです。 別名を「スミレ伍長」だとか。
バラの甲冑 由来:バラはもともと純白だったとか。赤いバラは、愛と美の女神ヴィーナス が、深手を負った恋人アドリスのもとに駆けつける途中に、バラのトゲが足に刺さり、その血で染 まったと伝えられています。
「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
|
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.61 ) |
- 日時: 2005/04/15 16:42
- 名前: ブー
- ありがとうございます
|
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.62 ) |
- 日時: 2005/04/15 18:00
- 名前: ブー
- 武士道とは何ですか
|
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.63 ) |
- 日時: 2005/04/15 19:32
- 名前: 戦国マニア
- 斎藤、雑賀、朝倉の件はありがとうございます!
摂津三好家についての説明をおねがいします!!!
|
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.64 ) |
- 日時: 2005/04/15 19:52
- 名前: ブー
- ご挨拶が遅れましたブーです。たまに来ますので,よろしくお願いします
|
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.65 ) |
- 日時: 2005/04/15 20:11
- 名前: 長宗我部 元親
- 本能寺の変の黒幕は誰か!!というみなさんの意見を聞かせてください。本能寺の変ほど謎めいた事件は無いと俺は思います!!
|
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.66 ) |
- 日時: 2005/04/15 20:49
- 名前: ブー
- 僕は、徳川家康と思います、理由は自分の子供「信康」が殺されたからです
|
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.67 ) |
- 日時: 2005/04/16 01:25
- 名前: 微々美々
- 「武士道」ですか・・・これまた難しい「ご質問」ですね・・・ムムム^^;
それでは、自分の知っている「戦国の武士道」について回答させて頂きますね。
武士っていつから登場? 日本で初めて「武士」という言葉が出たのは、「続日本紀」に「文人武士は国家の重んずる所」と書かれたものが最初だとか。奈良時代の頃と考えていただいて良いと思います。 つまり、律令時代です。ここでは、「文人」の対句で書かれているので、「中世の武士」というより、「武官」の意味だったかもしれないですね。 「武士」と書いて「もののふ」と読む場合、これは由来が更に古く、「もののふ」というのは「物部」と書きまして、「もののべ」とも読みました。 「氏(うじ)」の名前でも有名ですが。 「もの」というのは、現代でも「えもの」とかいうように「武器」のことを意味しています。
戦国期の武士道(真面目編) この頃の武士の倫理(武士道)は、「実力主義」の風潮で、家柄や、出身といったもの以上に武勇がその大きな判断基準となったそうです。 鎌倉時代の御恩・奉公に基づいた家中心の武士道から、個人中心へと変化したとか。 この時代に言われる、「ぶへんもの」(武辺者)は戦闘の技術に特化した武士であり、主君に使えるその忠義の度合いによって称賛されるよりも、むしろその勇敢さを称えられたものだったそうです。 また、主君と家臣の間に君臣関係が成立してきました。特にこの場合、家臣としての武士は鎌倉時代のような独立封建領主ではなく、主君から俸禄や領地を直接にもらっているので、「主君の没落=自らの没落」という実に”シビアな環境”にありましたから、自然と運命共同体的な観念を抱くようになります。主君の方でも、同盟関係から支配関係に移ったような親族や旧領主よりも、こういった直属の常備軍の方が頼りになったそうです。
|
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.68 ) |
- 日時: 2005/04/16 01:29
- 名前: 微々美々
- 続きです^^
日本の武士認定第一号は? 「藤原秀郷や藤原純友、平高望、源経基らがこの第一世代目の武士」だそうです。 家系としては、 平将門の反乱、「承平天慶の乱」を鎮圧した勲功者の子孫の家系で、武家としての清和源氏や桓武平氏、秀郷流藤原氏もこの時に確定したそうです。
「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」は戦国の言葉ではない? この概念は”戦国時代のもの”ではありません。 ※戦国時代はもっと”スゴイ”感じでした・・・ (後で載せておきますね^^) 江戸時代に書かれた「葉隠」の名句として有名ですが、それは「武士社会に広まることはなかった」そうです。 実は、新渡戸稲造がアメリカ人に紹介するために書いた「武士道」が、日清戦争以降逆輸入されたことで、日本国内においても広く受け入れられ、近代の日本においても大きな影響力を持ったそうです。 海外では「Bushido」はそのまま通じる言葉となっているそうです。 ちなみに現代で言う「武士道」はこの「明治武士道」を指すそうですが・・・。
|
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.69 ) |
- 日時: 2005/04/16 01:33
- 名前: 微々美々
- 戦国期の武士道(カルチャーショック編)
※内容は真面目です。史料に基づく話ですので・・・ 「戦場の精神史 武士道という幻影」を読んだことがありますが・・・ かなりスゴイです。自分も初めて読んだ時は驚きました。 ・少数の敵を多数で押し包んで攻撃することは当たり前で、近代戦と同じ「数の論理」が戦場を支配した。 ・鎌倉武士=一騎討ちのイメージは偶然の産物? ※戦術が未発達で個人技に頼る傾向が強く、また功名を狙った組み打ちの戦いが多かったとか。 「偶発的に一騎討ちが多発しただけ」と解釈されています。(実際、組み打ちで負けそうになると味方が加勢に来るのが普通だった) ・武士の行動原理とは「敵に侮られない、味方を裏切らない」=ヤ○ザのモットー?
一番ショックなのは・・・史料によるものです。 武士は犬? 越前の戦国武将・朝倉宗滴いわく「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つ事が本にて候」でしょうか。「甲陽軍鑑」では、馬場信房が「大将たる者は他国に罪がなくとも侵略するのが昔からの習いで、その際に虚言を用いるのは理の当然である」などと無茶苦茶な事を言っています。 しかし、朝倉宗滴や「甲陽軍鑑」は、「武士は、嘘をついてはいけないよ」などという言葉も残しています。 「敵に対する謀略奨励と、味方内での正直のすすめが共存していた」のが戦国の武士道かもしれません・・・。
爆笑する話では・・・ 「平家物語」の越中前司盛俊と猪俣則綱との組み討ちの話があります。 仁義など全然なき戦い。組み打ちで負けそうになった方が舌先三寸で命を拾い、しかも助けてくれた相手をだまし討ち、さらに味方同士で手柄を奪い合う。 鎌倉武士の「カッコイイ」イメージが・・・
|
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.70 ) |
- 日時: 2005/04/16 02:51
- 名前: 微々美々
- ご質問の「摂津三好家について」の回答なのですが・・・
内容が「三好氏」の事を指すのか、「決戦3」に登場する”漫才トリオ”「三好三人衆」のどちらか判断がつかなかったので、両方について回答させて頂きますね。
三好三人衆について
いつから言われたの? 史料によると、「多聞院日記」に「三好日向・同下野・石成三人衆」と書かれたことが最初とされています。
どんな人? これは史料がほとんど無い上、名前によって史料がバラバラなので両方載せますね^^ (どちらも同じ人物の史実です) 三好日向守(決戦3では三好長逸):実名は初め長縁、次に長逸(訓はナガヤス) 出自を記す唯一の史料は「続応仁後記」だけで、それによると、三好之長の四男「孫四郎長光」の子が日向守長縁。しかし、「細川両家記」等には、「芥川次郎長光・三好孫四郎長則」の兄弟とされていますので、「孫四郎長則」の子という可能性があります。三好三人衆の一で筆頭。 三好長逸になると・・・ 三好三人衆の筆頭、山城・飯岡城主、三好長慶の死後、猶子・義継の後継人、松永久秀らと謀議して将軍足利義輝を暗殺、しかし久秀と決別して足利義栄を擁立、義継・久秀と戦う。 織田信長の上洛に抵抗しますが、戦わずして阿波へ逃亡、その後は石山本願寺と結び信長に対抗し続けます。しかし信長の侵攻に破れ行方不明に。 決戦3では・・・ 「お〜ぼえておきなさいよ〜」の人^^
三好下野守(決戦3では三好政康):「続応仁後記」には三好之長の次男「孫三郎頼澄」の次男と記されていますが、これよりも「三好別記」による三好之長の弟・勝時の子である政長の子であっる説が有力だとか。これは「狩野文書」元亀二年七月晦日付け一任斎宛足利義昭御内書によって裏付けられています。三好三人衆の一。 三好政康になると・・・ 三好三人衆のひとり、三好政長の子、三好長慶に従い、長慶の死後は三好義継を補佐します。織田信長上洛時に抵抗するが敗北し阿波へ逃亡、後に豊臣秀頼に仕え大坂の陣で討死しました。 真田十勇士・三好清海のモデルとして有名です。 決戦3では・・・ 「そ〜そ〜」の人^^
|
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.71 ) |
- 日時: 2005/04/16 02:53
- 名前: 微々美々
- 続きです。
三好三人衆と、「三好家」について
石成主税助(決戦3では岩成友通):三人衆の二番目。出自不明。今谷明氏「戦国三好一族」では、一説に大和石成の出身かとも伝えられています。 岩成友通になると・・・ 三好三人衆の一人で、三好長慶の死後、三好義継を擁して畠山高政・松永久秀と和泉で戦います。 織田信長の上洛に抵抗しますが破れ、足利義昭と信長の対立で義昭に加担し、淀城で細川藤孝と戦い討死しました。 決戦3では・・・ 「いやはや、どこまでもついていくんでございますです」の人^^
三好家について
三好家って? 清和源氏小笠原氏流。鎌倉初期に小笠原長清の子長経が阿波に封ぜられ、三好郡に居住したことから三好氏を称しています。 室町初期、阿波守護細川氏の被官となり、細川家中における地位を確立。応仁の乱を契機に、畿内に進出しました。
有名人は? 三好長慶ですね・・・。 「日本の副王」の異名を持っています。 活躍 長慶の父元長は、はじめ細川晴元を擁しますが、晴元は三好政長と組んで元長を殺し、長慶にとっての不遇時代が始まります。天文十一年(1542)、仇敵を倒し、同十八年には叔父の政長をも討ち、主君細川晴元を近江に追放します。 この後長慶は、天文二十二年(1553)、近江に流浪していた足利義輝を京都に迎え、細川高国の養子氏綱を傀儡管領にすえて、幕府の実権を握ってしまった。一介の家宰から、幕府を思いのままに動かす実力者にのし上がった人でもありました。 しかし、ココまでのし上がっても名目は細川氏の被官に過ぎなかったので、その後将軍の直臣の名目を得ようとして御供衆の列に加わります。さらに、永禄三年(1560)には将軍家の御相伴衆に列し、あくまで将軍を奉じて政権を握るという方法をとりました。 長慶には三人の弟がおり、すぐの弟は之康、実休と号した武将でした。次は冬康で、これは安宅氏を継ぎ、その次は一存といって、これは十河氏を継いでいます。 しかし、次第に家臣の松永久秀に実権を奪われ、長慶の子義興が死ぬと、弟一存の遺児義継を養子としたが、実子を失って気落ちしたまま病没してしまいました。
|
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.72 ) |
- 日時: 2005/04/16 02:58
- 名前: 微々美々
- 三好関連の最後です^^;
歌が好きだった? 長慶が特に関心を持ったのは連歌です。長慶は「古今集」「後撰集」「玉葉集」といった勅撰集を入手し自らも和歌を詠んでいますが,特に光を放っているのは連歌でした。 永禄5(1562)年3月,長慶は弟の安宅冬康・連歌師の宗養・里村紹巴等を招き,飯盛城で連歌会を開いた時の事です。そこに久米田合戦で,弟義賢(実休)が戦死したとの知らせが届きます。長慶は落ち着いたそぶりでその注進状を懐に入れ、宗養の「芦間にまじる薄一村」の句に連衆が次の句を付けられずにいたところに、「古沼の浅き方より野となりて」と詠んで居並ぶ人々を感心させました。 長慶は,ここで義賢の戦死を告げ、敵が攻めてくる前に速やかに京へ入るようにと言って客人を帰したそうです。
・・・毎度恒例のことで、長文駄文で申し訳ないのですが。
「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
|
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.73 ) |
- 日時: 2005/04/16 03:09
- 名前: 微々美々
- 「本能寺の変の黒幕は誰か!!」について、自分の意見を載せるとしたら・・・
(諸説・史実に基づく解釈は既に載せてありますので省きますね)
「決戦3」の解釈が”ドラマティック”で気に入ってますので、黒幕は”無し”という事で・・・
|
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.74 ) |
- 日時: 2005/04/16 10:55
- 名前: ブー
- ありがとうございます
|
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.75 ) |
- 日時: 2005/04/16 11:08
- 名前: ブー
- 大谷吉継についておしえてください
|
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.76 ) |
- 日時: 2005/04/16 14:42
- 名前: 戦国マニア
- 大谷吉継 永禄二年(一五五九)生
慶長五年(一六00)没
父は豊後国大名大友宗麟(義鎮)の家臣、大谷盛治といわれています。吉継の娘の一人は真田幸村の妻。豊臣秀吉の小姓となって、その一字をもらい初めの名を紀之介を吉継と改めました。吉継は秀吉に厚い信頼を受け、また石田三成とも仲がよかったそうです。秀吉いはく、「百万の軍の軍配をあずけてみたい」 といって吉継の能力を褒めたそうです。天正十三年(一五八五)、従五位下刑部少輔に叔任され、同十七年、越前敦賀城に封じられて五万石を領しました。戦功としては九州平定、小田原攻め、朝鮮出兵に出陣したがその主たる任務は奉行でした。慶長二年、秀吉を自邸に招き、 多くの宝物を進呈して人々を驚かせました。関ヶ原合戦では石田三成の誘いに応じて、病気にもかかわらず陣頭指揮をとって奮戦しました。しかし、小早川秀秋の裏切りにより、敗色濃厚となったために乱戦のうちに自害を遂げました。
余談ですが: 吉継はハンセン病に罹っていました。秀吉の茶会が催された時、家臣団が順番に茶をまわしていき、一人ずつ飲むということが行われました。吉継の番となり、茶を飲もうとするとハンセン病の吉継は鼻水を茶の中に入れてしまったそうです。吉継次の家臣は小西行長。鼻水を入れたままの茶碗を渡すわけにもいかず、吉継は困りはててしまいました。しかし、それに気がついていてまだ順番が回っていなかった石田三成が「小西どのには悪いが早く茶を飲みたいので・・・」といって鼻水入りの茶を全部飲みほしてしまったそうです。この行動を見た吉継は三成を生涯の友としたそうです。
|
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.77 ) |
- 日時: 2005/04/16 15:17
- 名前: ブー
- ありがとうございます
|
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.78 ) |
- 日時: 2005/04/16 16:44
- 名前: 微々美々
- 「大谷吉継」ってどんな人?・・・については
戦国マニアさんが詳しく述べてくれましたので、 (戦国マニアさん、ありがとうございます! こちらも非常に勉強になりました)自分は余談追加と言う事で・・・
首がない? 関ヶ原の戦いの際、湯浅五助は自害した大谷吉継の首を埋めるところを東軍の将、藤堂仁右衛門に見られてしまいますが、自分の首と引き換えに口止めを懇願します。仁右衛門は家康から吉継の首の在処について聞かれますが、仁右衛門は、「知っているが五助との約束なので、死んでも言えません。強いて教えろとおっしゃるのであれば、頂いた恩賞は返上いたします。」と言い、ついに吉継の首が埋められている場所を教えませんでした。家康はこの仁右衛門の言葉を聞いて、「討たれた者も、討ったものも、天晴れなやつ。」と褒め、それ以後、吉継の首級を探させることはしなかったそうです。
実は大谷吉隆が本名? 「烈祖成績」によると、吉継は三成加担を決めた際に「吉隆」と改名しますが、これは「吉継」という名が信長に攻められて河内若江城で自刃した三好義継に音が通じることを忌み嫌ったためだとか。 「改正三河後風土記」では、改名以前は「吉継」、改名後は「吉隆」とちゃんと使い分けられています。 関ヶ原町山中に残る彼の墓 (国指定史跡) を見た事があるのですが、説明板にも「吉隆」の名前で記載がありました。
「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
|