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決戦3「史実」探検スレッドぱーと2
日時: 2005/04/06 01:13
名前: 微々美々

決戦3「史実」探検スレッドに多くの書き込みを頂きましたので、第二弾のスレを立てて見ました。
(もうそろそろ100の大台に乗りそうでしたので)
書き込んで頂いた方や、御覧になって頂いた方、管理人様には本当に感謝しております。
(興味のない方には本当に申し訳ないスレでもあるのですが・・・)
前回同様「決戦3」に関わる「史実」の疑問・ご質問であれば、自分の知っているもの、調べて何とかなるものであれば、可能な限りお答えしたいと考えておりますので、どしどし書き込んで下さい。

これから決戦3を始める方にも楽しんで頂けたら幸いかな・・・と思っています^^
メンテ

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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.39 )
日時: 2005/04/12 20:13
名前: 微々美々

装備品について気になるところがあったので、「決戦3の装備品の由来」について少し載せてみました。
西洋・東洋・日本と多岐にわたる武器防具が登場しているので、少し掘り下げて見るのも良いかなと思いましたので・・・。

第1回(続くのでしょうか?) ○○の装束について

千代女の装束
由来:武田の女忍び頭、望月千代女より
どんな人?
望月千代女(もちづきちよじょ)生没年不詳
甲陽流の忍びで、武田信玄の甥、望月盛時の奥方でした。
千代女は頭脳明晰で知られた女性で、盛時の元にあっても多くの人望を集めていました。
なので、第四次川中島の合戦において盛時が討ち死にした時、すぐに信玄は千代女を引き取り、
戦で親を失った身寄りの無い少女に巫女としての教育を施すという施設を統括する立場に据えています。
※巫女としての教育を施すという施設は「くノ一養成道場」であったと言われています。
※甲陽流:甲州流 信玄流、武田流ともいい、兵法から斥候部隊が独立したもので、情報収集部隊とされています。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.40 )
日時: 2005/04/12 20:14
名前: 微々美々

続きです^^
金山姫の装束
由来:伊賀服部家の守護神 「金山姫」より
どんな「神様」?
金山姫
日本書紀には記載のない神様です。
ちなみに金山彦、金山姫として夫婦神とされています。
古事記では、伊邪那美神が神避る時に、たぐり(嘔吐物)から生まれた神様だとか。
※嘔吐物から生まれたことは、坑道の入り口付近の様子を表しているそうです。
なので、現在は鉱山の神様で知られています。

伊賀一宮敢国神社に詣でたことがありますが、
ここに祭られている神様です。

多由也の装束・髪紐
由来:伊賀忍術の祖、御色多由也より
どんな人?
御色多由也(おいろたゆや)生没年不詳
伊賀流、同流忍術の祖といわれる。第七代孝霊天皇の頃(孝霊元〜七十六=前290〜215)の人物としています。
史料では「伊乱記」の中に、「不断未明より午の刻までは士農工商各家業の所作を励まし、午の刻より暮れまではひたすら武法弓鳥の道を磨き別して惻隠術を鍛錬す。上代より伊賀の遺風としてその古の御色多由也より謀術を伝へ」と記されています。
また、徐福の不老不死伝説によると、
孝霊七十二年(前219)に、中国秦の始皇帝の臣徐福が不老長生の仙薬を求めて渡来、仙薬を探したが見つからず帰国を断念、忍術をつたえたそうです。

御色多由也は、その一人に当たり、修行の結果「千里眼の術」「穏形の術」「夜視の術」「水火に入る術」「身が軽くなる術」「一(ひとつ)の身が分形して数十人になる術」など900余りに及ぶ術を使いこなしたといいます。
・・・ココまで来るとほとんど”漫画の世界”ですが^^;

疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.41 )
日時: 2005/04/12 20:50
名前: 戦国マニア

決戦3で明智光秀に斬殺される一色藤長についての概要をお願いします。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.42 )
日時: 2005/04/12 23:10
名前: 微々美々

「一色藤長」ってどんな人?について回答させて頂きますね。

本名は七郎と言います。
室町将軍足利義藤(義輝)から一字を与えられて、藤長と名乗っています。
のち剃髪して一遊斎と号しました。

将軍家との「深いつながり」
将軍義晴・義輝父子の忠良彦部雅楽頭晴直の姉が、一色藤長の奥方にあたります。
また藤長の女が、将軍義昭の妹、寶鏡寺理源の生母だったそうです。

一色家ってどんな家系?
一色氏は清和源氏、足利氏の一族です。足利頼氏の兄弟に公深がおり、これが一色氏の祖となりました。
公深の代に三河国吉良庄一色に住み、一色姓を名乗ったそうです。
同じ吉良に住んでいた従兄妹の満氏は吉良氏を名乗っており、その子孫は「忠臣蔵」でご存知の吉良上野介です。
藤長の家系は一色家の内部分裂の後、丹後守護職家より分流、足利将軍家の奉行衆となった家系でこの家系の通例に従い、治部少輔・式部少輔の職を得て、「七郎」の烏帽子名を名乗っています。その後13代将軍足利義輝の御供衆になりました。

藤長と「公方様」の”ビンボー脱出大作戦?”
永録八年、松永久秀らが、足利義栄と共謀し将軍義輝を暗殺すると、弟の奈良興福寺一乗院門跡覚慶(足利義秋、のち義昭)も幽閉されました。
これに対し義輝の近臣細川藤孝と一色藤長は、各方面に策を巡らせ、同年七月二十八日の夜に覚慶を脱出させています。
覚慶は名も義秋とあらため、征夷大将軍になるため各地を放浪しました。(本当に”苦労人”だったんですねぇ・・・)
もちろん藤長も近江・若狭・越前と従い、義秋は越前で元服して再び義昭と名を改めた後、
永録11年、織田信長と共に上洛、15代将軍となることが出来、藤長も幕府御供衆に返り咲きました。
ここまではよかったのですが・・・
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.43 )
日時: 2005/04/12 23:14
名前: 微々美々

続きです。

戦国時代の”ジプシー(流浪の民)^^”?
しかし、義昭が将軍として政治を行うことを好まない信長によって、(決戦3と同じですね)
元亀4年義昭は都を追われてしまいます。藤長はそれに従い再び流浪の生活へ。
これが「貧乏公方」の由来の1つでもあります。
この間も義昭・信長間の外交に尽力しますが、藤長の努力は実らず、紀伊由良の興国寺で亡命生活を送ることとなりました。
その後豊臣秀吉に仕えて丹後宮津城主となりました。がっ、しかし・・・

関ヶ原の戦いで石田三成に味方した為、細川忠興に攻められて殺されてしまいます。
その後一色家は、藤長の子範勝とその子範規が家康に従って家名を存続することが出来ましたが、範規の孫の代に断絶してしまいました。

史実と「決戦3」の違い
ゲームでは、光秀に”スパスパ”斬られてしまいますが、本当は・・・
”スパスパ”斬られた相手は「光秀」ではなく、”細川藤孝・忠興父子”だったのです。

ゲームと同じく、どこまでも将軍家に忠節を尽くした人として、自分は結構好きな人なんですが・・・
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.44 )
日時: 2005/04/12 23:25
名前: 微々美々

>ゲームでは、光秀に”スパスパ”斬られてしまいますが、本当は・・・
”スパスパ”斬られた相手は「光秀」ではなく、”細川藤孝・忠興父子”だったのです。

誤解を招きそうなので訂正を。
誤:”スパスパ”斬られた相手
    ↓
正:藤長を”スパスパ”斬った犯人は

です。大変失礼しました。

疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;

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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.45 )
日時: 2005/04/13 16:54
名前: 微々美々

「決戦3の装備品の由来」第二回です。
今回は「義経」が放送されていることもあるので、
ゲームに登場する「楯無の鎧」を含む「源氏八領の鎧」について載せてみました。

楯無
唯一現存する鎧です(国宝指定)
自分は、菅田天神社に詣でた時に見た事があります。
元の名を「小桜葦威の鎧」と言い、矢や刀を防ぐのに楯はいらないという意味から「楯無鎧」(たてなしのよろい)とも呼ばれました。
勝頼が減亡の折、跡継ぎの信勝が元服・鎧着の式をまだあげていなかったため、急いで陣中でこの鎧を着けてすませ、その後、父子で自刃したと伝わっています。
※武田の家宝にはもう1つ「御旗」がありますが、
霊峰寺に詣でた時に見た事があります。
御旗とは後冷泉天皇が清和源氏源頼義に下賜され、
のち武田家の総領職がうけ継いだ日本最古と伝える「日の丸」の旗を指すそうです。

膝丸
保元物語によると、為義はこのたびが最期の合戦と思ったので、代々相伝してきた鎧を一領ずつ五人の子どもに着せ、自分は薄金を着けたとか。「源太が産衣」と「膝丸」とは、嫡子に代々伝わるものであるので、下野守(義朝)のもとへと遣わしています。
為朝冠者は体格も人並み優れて、普通の鎧は体に合わなかったので着なかったそうです
この膝丸と言う鎧は、牛千頭の膝の皮を取ってとじ合わせたので、牛の精が入ったのでしょうか、常に現れて着る者を嫌ったとか。なので、塵などを払う時でも、精進潔斎して取り出したそうです。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.46 )
日時: 2005/04/13 16:59
名前: 微々美々

続きです^^
産衣
別名を「源太が産衣」と言うとか。
産衣は、八幡太郎義家からの源氏重代相伝の鎧です。(現存はしていませんが)
代々鎧の着用初めに用い、義家の子孫、頼朝も初陣の際に着用したそうです。
ここで「源太が産衣」の由来について。
大元の所有者は八幡太郎義家です。
頼朝には曾々祖父(4代前)に当たり、前九年・後三年の役で多大な戦功を立て、武門の棟梁の地位を築いた大人物ですが、
「源太郎義家」の頭の二文字から「源太」=「義家」、「産衣」=「初衣」から、「源太が産衣」は義家が初めて着けた鎧で、恐らくは、元服時に着用したものと思われます。
平治の乱では、「八領の鎧」からそれぞれ、義平が「八龍」、朝長が「沢瀉」を着けたそうですので、単純に、初陣の頼朝にピッタリということで「源太が産衣」があてがわれたと見る方が正しいのではないでしょうか。

薄金(うすかね)
※現存していません。
後3年の役のことです。
伴次郎{杖 助兼という剛の者がいました。
義家はこの武者に薄金という鎧を着せていました。助兼は岸近く攻め寄せますが、石弓をはずしながら駆けていたところ、あわや当たろうとしたので、首を振り身をたわめたので、兜を打ち落とされてしまいます。兜が落ちた時、本鳥が切れ、薄金の甲はこの時無くなってしまいました。この事を助兼は深く悼みとしたそうです。
ちなみに「薄金」は緋威の鎧だったそうです。

日数
この鎧の造りに関する記述は無し。
源氏八領の鎧の記述に名前があるだけでした。
自分の史料にも無いので、調べて見ましたが、記述のある資料を見つけられませんでした。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.47 )
日時: 2005/04/13 17:05
名前: 微々美々

また続きです^^;
・・・8つもあると大変ですね(苦笑)
八龍
「源平盛衰記」によると、「銀にて鍬形打たる竜頭の甲を賜はる」とあり、銀にて竜を前に三、後に三、左右に一宛打たれば、八竜と名付たり。とされています。
「平治物語」によれば、源義平(鎌倉悪源太とも号す。頼朝・義経の長兄。)が八竜という胸板に竜の金物を八つ打ちつけた源氏重代の鎧を着ていたといいます。

月数(つきすう)
「保元物語」によると、源頼賢が着用していたそうです。
四郎左衛門(頼賢)は紺村濃の直垂に、月数という鎧で、朽葉色の唐綾で縫ったものを着て、二十四差の大中黒の矢を、(矢筈が肩越しに見えるように)頭高に背負って、重藤の弓の真ん中をとって、月毛の馬に鏡鞍をおいて乗ったと記されています。

沢瀉(おもだか)
沢瀉は池や沢などに自生する水草の一種で、矢尻状の葉が盛り上がっているので「面高」とも呼ばれています。
沢瀉が群生しているさまは、まるで矢尻を並べたように見えるので、武人に好まれ、勝ち草、勝軍草などとも呼ばれました。
源平時代に「沢瀉威の鎧」が武将の間に用いられ、「平家物語」には、熊谷次郎直実が沢瀉の文様を刷った直垂を着ていたことが記されています。

長文(毎度の事かも^^;)駄文を大変失礼しました・・・
疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.48 )
日時: 2005/04/13 20:47
名前:

歴史でもかなーーーり目立たない、室町幕府14代将軍
足利義栄についてお願いします!
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.49 )
日時: 2005/04/13 22:48
名前: 微々美々

「決戦3」には”登場しない武将”ですが・・・
”悲運”の14代将軍、「足利 義栄」について回答させて頂きますね。

どんな人?
歴史的には「阿波公方」の方が知られているかもしれないですね。
足利幕府第11代将軍義澄の子義晴が第12代将軍。そしてその子が義輝と義昭なのですが・・・
義栄は、義澄のもう一人の子(つまり義晴の弟)義維の子です。

ちなみに義維は「堺公方」などとも呼ばれていますが・・・

義輝が松永久秀・三好三人衆の手により暗殺された後、永禄十一年三好三人衆により第14代将軍として擁立された義栄は、阿波平島館を出て京へ向かいました。そして同年2月、摂津富田の普門寺で将軍の宣下を受けています。
(同時に義昭も上洛の準備を始めていました。なので、義栄の将軍宣下はかなり焦っていたようです)
しかし将軍でいられたのも”わずか”7ヶ月。
同年9月、義昭と織田信長が上洛した時の事です。
義栄は雌雄を決すべく三好一党とともに摂津に布陣しますが、同じ月に腫れ物を患って病死してしまいました。
残念なことに、一度も御所に足を踏み入れることはなかったそうです。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.50 )
日時: 2005/04/13 22:51
名前: 微々美々

続きです。

阿波公方は「クリスチャン?」
阿波公方とキリスト教の関係について、京都から堺に追われたルイス・フロイスは、2回ほど14代将軍の足利義栄(初代阿波公方義冬の長男)を訪問したとの書翰が残っています。
義栄の京都進出に対し、宣教師たちが何らかの協力をしたのでは?

阿波公方と「マムシ除け」?
阿波公方4代の義次(1596〜1680)の代の話です。
館のすす払いをしていると、床下にマムシなどの死骸がたくさん死んでいたことから、足利将軍家の威光を恐れて毒蛇が死んだという噂が立ちました。
この話を聞いて、マムシよけの守札を求める人々が相次いだため、公方家では「阿州足利家」と紙に書き、「清和源氏之印」という朱印を押した札を発行するようになり、義根の代まで続いたそうです。
平島では「くちなは咬まず、はみ咬まず、平島生まれの戌の年の男」と3度唱えれば、マムシに咬まれないという言い伝えになりました。
「戌年」は足利義栄が生まれた天文7年(1538)のことを指しているようです。

「阿波公方」は甘い味?
実は・・・お菓子の名前にもなっています。
阿波公方「薪能」すだち味(9個入り)と言うのがあるそうですが・・・

疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.51 )
日時: 2005/04/14 19:31
名前: 戦国マニア

斎藤龍興、鈴木重秀(雑賀孫市)、朝倉義景について
お願いします!!!
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.52 )
日時: 2005/04/14 23:16
名前: 微々美々

ご質問が増えてきたことはこちらも非常に”アリガタク”思っています^^
スレを立てた甲斐がありました・・・

では早速、「斎藤龍興、鈴木重秀(雑賀孫市)、朝倉義景」ってどんな人?について回答させて頂きますね。

まず鈴木重秀(雑賀孫市)から。

「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」
と言う言葉が戦国時代に伝わっています。

どんな人?
生年不明。一般に雑賀孫市(孫一)の名で知られていますが、姓は平井とも鈴木とも言われ、孫市は伝承上の人名とも言われています。
孫市の活躍は半ば以上伝説化され、焙烙火矢( ほうろくびや)を使った船舶攻撃や水軍と協力した奇襲上陸など、大胆な用兵を用いたそうです。

鈴木重秀=雑賀孫市は間違い?
「雑賀 孫市」 は、この鈴木家の一族の誰かである事は判明していますが、実際「誰」と言うのは不明です。
雑賀衆 の 鉄砲隊長であった 「鈴木 重秀」 という人の事であると言われていますが、それに加えて、鈴木家の当主 「鈴木 佐太夫」や、鈴木重秀 の兄である 「鈴木 重朝」の活躍をまとめたものだと言われています。

孫市の活躍
元亀元年(1570)9月、根来衆と共に信長の軍に立ち向かい、天正4年(1576)、木津砦をめぐる攻防で織田軍を破り、原田直政を討ち取ったそうです。
信長は、同5年(1577)、雑賀攻めを開始しますが、雑賀衆は執拗に抵抗し織田軍を撤退させます。この折、戦勝を祝って「雑賀踊り」が発生したそうです。
しかしその後、雑賀衆は降伏し、この後の重秀の消息は不明となりました。
なお重秀は、その後秀吉に従ったとも言われていますが、没年も不明のため詳細は全くわからないそうです。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.53 )
日時: 2005/04/14 23:21
名前: 微々美々

続きです。

雑賀衆の鉄砲軍団成立の由来
「鉄砲」=「種子島伝来」は有名ですが・・・
その時日本に初めてもたらされた2丁の鉄砲の1つが、紀伊半島に持ち込まれました。
雑賀衆は海運に便利な土地居住し、貿易によって多くの富を得た土豪集団だったそうです。
四国の 「土佐」 や 鹿児島の 「薩摩」 、さらに遠く 沖縄 まで行き交易をしていたとか。
なので、それらの土地の権力者とも友好関係にありました。
当然、種子島の当主である 「種子島 時尭」 と知人だった人もいる訳です。
それが 雑賀衆 と深い関係にある勢力 「根来衆」 の 「津田 監物」 という人で、彼により日本に伝わった2丁の鉄砲のうちの1つを譲り受け、持ち帰ります。
そしてこの鉄砲を元に 根来衆 の鍛冶屋 「芝辻 清右衛門」という人が試作に成功、それが 雑賀衆 にも伝わり、こうして 雑賀衆・根来衆 は鉄砲集団へと変わって行ったのです。

鉄砲製作の苦労話?
雑賀衆 が元々、非常に優れた鍛冶技術を持つ職人集団だった事が理由のひとつですが・・・
「火薬」 の材料となる「硝石」 が取れなかった日本において、入手しやすい状況を持っていたことが大きいですね。
雑賀衆は「貿易」 にも長けており、独自の貿易航路によって多額の富を得ていた彼らは、資金力と貿易ルートの双方の面で「硝石」 を入手しやすい状況にあったのです。

「鉄砲三段撃ち」の元ネタ?
雑賀鉄砲衆 は 鉄砲隊 を2列に並べ、前列が撃っている間に後列が弾を込め、交互に前に出て連続発射するという戦法を取っていたそうです。
自分的には「戦国無双」の”孫市”が好きなんですが・・・(苦笑)
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.54 )
日時: 2005/04/14 23:27
名前: 微々美々

続きです。
斎藤龍興について

どんな人?
斎藤義龍の子で、母は浅井久政の娘。幼名は喜太郎。右兵衛大夫。
永禄4年(1561)、父の義龍が急死したために14歳で家督を継ぎます。数え年で13歳という若年だったため、斎藤家の体制は長井道利を中心とする重臣の合議制で推進する事になったようです。
義龍の死からわずか2日後には織田信長の侵攻を受けています(森部の戦い)。この戦いでは龍興軍の大将・長井甲斐守、日比野下野守らが討ち死に、信長軍の大勝となりました。しかし、龍興が大軍をさし向けたため、信長は尾張へ退却しました。
龍興は長良崇福寺の快川紹喜の奔走によって武田信玄と結び、信長に対抗しようとしました。しかし、尾張統一を成し遂げた信長は内応工作を進めており、加治田城主の佐藤忠能が内応、さらに鵜沼城主の大沢次郎左衛門は小競り合いの後、説得を受けて開城。岸信周の堂洞城は焼失。
龍興は長井道利と共に3000余の兵で反撃に出ますが、結局信長に中濃を攻略されてしまいます。これにより東濃地区と稲葉山城の中間を信長に占領された形となり、武田信玄との同盟も無駄になってしまいました。
永禄10年(1567)、美濃三人衆が信長に人質を差し出して内応します。重臣に裏切られ、稲葉山城を包囲された龍興は、長井道利と共に舟で長良川を下って伊勢長島に落ち延びました。
その後、龍興は美濃国主に返り咲くべく、三好三人衆と組んで信長の入洛阻止を図ったり、越前朝倉氏に身を寄せたりしていましたが、天正元年(1573)8月10日、信長の浅井・朝倉征伐の際、朝倉軍として戦い、刀根坂で戦って討ち死にしました。享年27歳。法号は瑞雲院龍貞です。
※有名な稲葉山城乗っ取り事件、墨俣一夜城のエピソードはあえて省きました^^

信長の美濃攻めは「合戦」がネック?
合戦以外の戦略はかなり上手く行っていたようです。
稲葉山城乗っ取り事件の頃には美濃東端、信濃(長野県)・三河(愛知県)境の恵那郡を押さえる遠山一族は、信秀の時代から婚姻関係でもって織田方となっていたそうですが、その他、西美濃山間部、多良谷の高木貞久、徳山谷の徳山則秀、池田郡市橋の市橋長利、同郡本郷の国枝古泰なども、この頃までには織田方となっていたそうです。
最後に残っていた調略対象が「美濃三人衆」だったとか。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.55 )
日時: 2005/04/14 23:35
名前: 微々美々

続きです^^;
朝倉義景

朝倉家って?
朝倉氏の開祖は開化天皇の末、日下部氏の一族で、平安時代末期に但馬出石郡朝倉庄に移り住み、朝倉氏を姓とします。南北朝時代、足利一族の斯波氏に従い、越前に入りました。以降、「斯波三人衆」の一人となっています。

実は「お坊ちゃま?」
1533年朝倉孝景の嫡男として生まれます。このとき、父の孝景は41歳で、しかも唯一の実子であったため、「長夜叉」という幼名を名付けられた義景は、父に甘やかされて育ったそうです。
当初は延景と名乗りますが、1552年に室町幕府の第13代将軍・足利義輝より「義」の字を与えられ、義景と改名します。家督を相続したものの、義景は一族の最長老である朝倉宗滴に政治や軍事の一切を任せて、遊興に耽っていたそうですが・・・

「なぜ援軍が来ないのじゃ〜(泣)」・・・決戦3より(前編)
1568年、信長は義昭を擁して上洛した後、1569年の「殿中御掟」を機会に両者の仲は完全に決裂し、義昭は信長を打倒するために信長包囲網を形成します。このとき、義景も義昭に与します。
この為1570年(元亀元)に織田信長と徳川家康の連合軍からなる越前討伐軍に攻められる事に。このとき、朝倉軍は連戦連敗を続け、滅亡の危機にまで追い詰められますが、浅井長政が織田軍の背後を突いてくれたため、何とか窮地を脱しています。そしてこれより、朝倉氏は浅井氏と共同戦線を張って、織田信長と抗争することになりました。
(後編に続きます)
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.56 )
日時: 2005/04/14 23:38
名前: 微々美々

「なぜ援軍が来ないのじゃ〜(泣)」・・・決戦3より(前編)

同年に織田軍との間に起こった姉川の戦いには、浅井長政に援軍は送ったが自身は出陣せず、一族の朝倉景鏡を代理の総大将として派遣します。
この頃、義景は小少将という美女を妻に迎えて、その美貌の虜になるとともに、酒宴に溺れていたのです。1573年4月、信長にとって強敵であった武田信玄が病死、8月に信長は3万の大軍を率いて近江に攻め入ります。
これに対して、朝倉義景も浅井長政の度重なる要請もあって、ようやく自ら総大将として2万の軍勢を率い、浅井氏の援軍として近江に出陣するのですが・・・
朝倉軍は刀禰坂の戦いで織田軍の猛追撃を受けて壊滅。
義景はかろうじて、越前一乗谷に落ち延びます。しかし一乗谷も織田軍の追討を受け、義景はわずかな家来を連れて越前大野郡の賢松寺に身を隠します。
ところが一族の朝倉景鏡の裏切りにあった義景は、自害を余儀なくされてしまいました。

自分としては・・・
義景には個性こそありませんが、将軍の「義」の一字を貰い、「左衛門督」という朝倉歴代当主中、もっとも高い官位を手に入れている事、また、はるばる島津氏を通じて海外貿易の道を探り、鉄砲にも興味を示すなど、”大人しい武将”では無いと思っています。
※この話の元は「第一弾」のスレに、「明智光秀」の「鉄砲適性の高い理由」のレスで載せています。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.57 )
日時: 2005/04/14 23:46
名前: 微々美々

ついでに余談も^^

朝倉討伐戦こぼれ話
元亀元年(1570)4月、信長が撤退する時に、朝倉氏より一族の朝倉景鏡が2万余の大軍で追撃に出発しますが・・・
これは信長撤退の”10日後”であり、秀吉を殿軍に定めた信長の迅速な逃亡(「金ヶ崎の退き口」)に、完全に遅れを取っています。トホホ・・・
※実はこの「金ヶ崎の退き口」、”明智光秀も参加していた”ことは「あまり」知られていません。

越前は京都?
当時の越前は加賀の一向一揆という火種はあるものの、一乗谷を中心に「しずかにておさまる国」といわれ、荒廃した京都から多くの公家が避難し、都風の文化の影響を受けた所でした。
義景居城、一乗谷は「越前の小京都」とまで称えられ、今も当時の面影を史跡に伝えています。

「朝倉氏」を滅亡に追い込んだ?傾国の美女”小少将”について
斎藤氏・小少将 ?(?)―天正元年(1573)
義景後室。家臣斎藤兵部少輔の女。男子一人(愛王)を生んでいます。義景の寵愛ぶりは「朝倉始末記」が「忠なきに賞を与え、奉行も理あるを非とせり」といった有様であったとか。一子愛王丸とともに京都へ護送される途中、丹羽長秀によって斬られた可哀想な女性でした。
自分は一乗谷朝倉氏遺跡小少将の屋敷跡という「諏訪館の庭園」に行った事がありますが、とても繊細な庭園で、義景の小少将への愛情を感じてしまいました^^

それから・・・
元のスレで、朝倉家について自分以上に”詳しく”史実を書いてくれた方がいますので、良ければそちらを参考にしてみてください。

疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;

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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.58 )
日時: 2005/04/15 13:41
名前: ブー

戦国大名の血液がたをおしえてください
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