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決戦3「史実」探検スレッドぱーと2
日時: 2005/04/06 01:13
名前: 微々美々

決戦3「史実」探検スレッドに多くの書き込みを頂きましたので、第二弾のスレを立てて見ました。
(もうそろそろ100の大台に乗りそうでしたので)
書き込んで頂いた方や、御覧になって頂いた方、管理人様には本当に感謝しております。
(興味のない方には本当に申し訳ないスレでもあるのですが・・・)
前回同様「決戦3」に関わる「史実」の疑問・ご質問であれば、自分の知っているもの、調べて何とかなるものであれば、可能な限りお答えしたいと考えておりますので、どしどし書き込んで下さい。

これから決戦3を始める方にも楽しんで頂けたら幸いかな・・・と思っています^^
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.1 )
日時: 2005/04/06 10:52
名前: 辻斬り一代

           ●秀吉外伝●
豊臣家は、秀頼が大阪冬の陣で自刃し、滅亡下とされているが、何とまだ滅亡してはいませんでした。
天草四朗時貞が島原の乱で幕府軍(徳川勢)と闘う際に、4ヶ月かん籠城しました。もちろん兵糧も必要なので、豊臣家の財産を使い、戦い抜いた。だが一人残らず惨殺された。秀吉の孫は、四郎だったのだ。
播磨決戦合戦後のムービーであんな仲良くしていたのに・・・・・・ちょっとがっくりしました。
 
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.2 )
日時: 2005/04/06 12:13
名前: 微々美々

「天草四郎」=「秀頼の孫」について回答させて頂きますね。
「花のやうなる秀頼様を鬼のやうなる真田が連れて 退きも退いたり鹿児島へ」

真田の「薩摩落ち伝説」につながる、「秀頼生存説」、「秀頼の孫=天草四郎説」ですね・・・
島原の乱の際に四郎が掲げた馬印が豊臣秀吉のものと同じ「瓢箪」であることから、豊臣秀頼は大坂の役の際に大阪城から救い出されており、島原に逃亡した彼が四郎の本当の父親で、
島原の乱は「豊臣家復興」の戦いではないか・・・と言われていますが、物証はないそうです。
また、天草四郎の名前を「羽柴天四郎秀綱」とする説もあるそうです。
根拠の1つに、真田幸村の子・大助は、秀頼の子・天草四郎を総大将として島原の乱を起したとしています。
また、天草四郎の父ですが、「増田甚兵衛、渡邊小左衛門」、又「豊臣秀頼と薩摩の酒屋の娘との間に産れた」という説がありますが・・・。

本当の所は不明ですが、夢のある話ですね・・・
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.3 )
日時: 2005/04/06 12:14
名前: 上海

個人的な好みですいませんが、図々しくもお尋ねします。

竹中半兵衛(重治)1544?-1579と黒田官兵衛(孝高、如水)1546-1604はどのくらい一緒に仕事をしたのでしょうか。
また、二人の関係は良かったのか、それと信長と半兵衛の相性が本ゲームでは何故に良くないのかも気になります。(秀吉に仕えたから?信長が紹介したのに?)

本ゲームでは半兵衛は元気に活躍しますが、実際は36歳?で病気にもかかわらず戦況が気になり、陣中で死にたいとの言葉どおり陣中で亡くなりますよね。(声も渋くて好みです)
また、ゲーム中黒田官兵衛が、村木村重を説得し監禁される所は史実ですね。

色々書いてしまいましたが、秀吉と前述の2名は三国志、劉備傘下の孔明、鳳統と似ている感じもして興味を持ちました。

名前どおり上海に居住しているので書籍もあまり種類が無く、高いので。。。
宜しくお願いします。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.4 )
日時: 2005/04/06 12:21
名前: 微々美々

「真田の薩摩落ち伝説」についても載せておきますね^^
明治はじめに書かれた「鹿児島外史」(「島津外史」ともいう)のなかに、「幸村の薩摩落ち」が記されています。
幸村は夏の陣のあと、秀頼を守りつつ、薩摩へ逃れたとしている。鹿児島市内には、秀頼のものとされる墓も残っており、揖宿郡頴娃町大字牧之内字雪丸には、幸村の墓もあります。
実は秀頼や幸村らの薩摩落ち伝説は、明治になってか語られはじめたと言います。
伝説では、幸村は秀頼亡きあと、さらに南に落ちていったそうですが・・・。
鹿児島県揖宿郡頴娃町には、雪丸という地名が残されている。浄門ケ岳の麓に幸村が住んでいたことから、ここを雪丸と呼ぶようになったそうです。
頴娃町大字別府字大川には、真江田の名字がありますが、これは真田の二文字の間に江という字を挟んだものだそうです。
当時の史料としてイギリス東インド会社の平戸商館長リチャード・コックスは、元和元年(1615)6月5日の日記に、「秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず」と書きしるし、同じ日付で、皇帝(家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際、城を脱出せし輩を捜索せしめたり、因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり」と書いています。
また、コックスは、それから1カ月半後の日記になると、「秀頼は薩摩か琉球に逃げのびた」という報告を書きとめ、京都から来た友人(イートン)の「秀頼様は今なお重臣の5、6名と共に生存し、恐らくは薩摩に居るべしとの風聞一般に行はるる」との話も後世に伝えています。

・・・あまり「決戦3」に関わりが無い話で申し訳無いのですが^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.5 )
日時: 2005/04/06 13:01
名前: 微々美々

「二兵衛」「今孔明」と称される「竹中半兵衛」「黒田官兵衛」について回答させて頂きますね。

まず二人が「一緒に仕事をした」のは「三木合戦」のみです。(自分の知るところでは)

「官兵衛監禁」の史実はこんな感じでした。
半兵衛は三木城攻めで、信長や秀吉をだますという大胆な仕業を行っています。
三木城攻めから新たに軍師として加わった黒田官兵衛が、謀反を行った伊丹の荒木村重を説得に行き、捕えられて地下牢に幽閉されます。
これを村重に寝返ったと誤解した信長は、人質にしていた官兵衛の子松千代の首を切れと佐久間信盛に命じます。半兵衛は、官兵衛の人柄を信じ、美濃の菩提山で預かっていた松千代の首の代わりに溺死した子供の首を信盛に送ったのです。
伊丹攻めで多忙な信長は、首実検もせず捨て置いたのですが・・・。
一年の後、救い出された官兵衛から事実を聞き、子供の首を切らせたと思っていた信長は青くなりました。ところが半兵衛の知恵により、官兵衛父子は無事に対面し、信長も面目を保ったそうです。

「二人の仲が良い」理由として・・・
半兵衛と官兵衛の有名な逸話も紹介しますね。
秀吉から他日領地を与えるとういう誓約書を官兵衛は半兵衛に見せ、秀吉がその約束を果たしてくれないと愚痴をこぼします。
すると、半兵衛は無言のままその誓約書を火中に投じてしまいました。
驚いた官兵衛は怒って半兵衛を責めると半兵衛は
「この誓約書があればこそ不平・不満も起こり結局身を滅ぼすこととなるだろう」
と答えたそうです。その答を聞いた官兵衛もすぐさまその意味をつかみ取り、
秀吉が実力者に対し強い警戒心を持ち、のちに除去する性格だと理解して
後々もこの教訓を活かし続けたと言います

信長・半兵衛の「不服」の訳ですが、
伝え聞いた話では、半兵衛の信長嫌いは、かなり徹底していて信長の面前で罵倒した事もあるそうです。
(これが相性の悪い理由なのではないでしょうか)
ところが信長は、半兵衛にどんなに面罵されても決して、怒る事なく「鵺が」と言ってさらりとかわしていたとか。
不思議ですね・・・。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.6 )
日時: 2005/04/06 13:51
名前: 上海

微々美々さんありがとうございます。

まず二人が、今孔明と称されているのは知りませんでした。

「官兵衛監禁」の史実ですが、半兵衛が官兵衛の子供を救ったと言うのはテレビの時代劇で見たような気がします。

また二人の逸話も愚痴をこぼす関係と、会話の内容から双方共に聡明で有り、理解し合える仲で、良好な関係を裏付ける逸話ですね。

不服の部分は信長が現実主義者で有り、半兵衛は嫌いでは無かったのではないでしょうか。(能力の高さを重視)
恐らく半兵衛も信長が嫌いでは無く、言う事が正論ならば罵倒も辞されると言った信頼関係が有ったのかも知れません。
しかし信長の性格を考えると確かに不思議ですね。

これですっきりしました。
微々美々さんの博識に感服、感服。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.7 )
日時: 2005/04/06 14:51
名前: 柴田勝家に関すること

(1522?〜1583)

生年不詳であるが、大永2年(1522)、尾張に生まれ、斯波氏の一族とも言われる。幼名は権六。

はじめ織田信長の弟信行に仕え、弘治2年(1556)、林通勝とともに信行を擁立して信長に謀反するが失敗。その後、信行の謀反を通報して信長に許され、あらゆる戦いのたびに信長の先鋒として軍功を立てた。

伊勢長島の一向一揆や、越前小谷戦など、数々の働きがあり、「掛かれ柴田に、退き佐久間」など、鬼柴田とも呼称される。織田家の筆頭家老職。

六角承禎との戦で、長光寺城に篭城したとき、糧米、飲料水が尽きてくると、甕を割って残りの水をことごとく流し捨てたため、返って味方が決死の覚悟となって敵を破った、という故事もある。

天正3年(1575)、信長が越前を平定したのち、北之庄城にあって越前を治める。

また、信長麾下の佐々成政、不破光治、佐久間盛政、前田利家らを率いて、加賀一向一揆も平定。能登、越中に進出し、上杉景勝と対峙。ゆえに、本能寺の変では動けず、秀吉の明智光秀討伐に遅れを取った。

これがため、信長の後継者に三男の信孝を擁立しようとしたが、清洲会議においては秀吉に主導権を握られ、信長の第一の宿老として、信長の妹お市の方(浅井長政未亡人)を娶り、秀吉との対立姿勢を深めた。

勝家はここまでに、越前、加賀、能登、越中に加え北近江地方の180万石程度を領し、美濃の織田信孝、伊勢の滝川一益らと反秀吉派を形成。

天正11年(1583)、織田信孝、滝川一益らと秀吉を討つべく越前に兵を挙げたが、岐阜から急遽引き返した秀吉と賤ヶ岳において決戦し、大敗。北之庄城に逃れたが、秀吉軍に追撃され、4月24日、お市の方とともに自刃。推定62歳。

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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.8 )
日時: 2005/04/06 17:25
名前: 長宗我部 元親

明智光秀のことなんですが・・・
いろんな本では農民に殺されたと書いてあるんですが、ある一冊の本に実は生き延び南光坊天海になり徳川家に仕えたと書いてありました!!
どっちが本当なんでしょうか!?
あと長宗我部 元親って名将ですよね!!
長宗我部 元親についてなんか逸話があったら教えてください。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.9 )
日時: 2005/04/06 17:53
名前: 長宗我部元親に関すること

(1544〜1599)

長宗我部を「長曾我部」と書く文献もある。

長宗我部氏は、秦の始皇帝に発した古代における帰化人の秦氏、あるいは蘇我氏の子孫とも伝えられるが、土佐に居住するようになった経緯、理由、時期などは諸説あり、明らかではない。

一説には、異国から伊勢の桑名に来て土佐に移り、先進的な文化を伝えて村人に敬われ、長となったというし、別の説では、鎌倉時代はじめ、信濃から土佐に来た豪族ともいう。

なにしろ長宗我部氏の始祖は平安末期の秦能俊と系譜には見られ、長岡郡の宗我部郷に入部して宗我部氏と称したのが始まりで、しだいに勢力を得て、香美郡の宗我部氏を香宗我部氏、長岡郡の宗我部氏を長宗我部氏と分ける。

室町時代は一貫して四国探題で幕府管領でもある細川氏と結び、その権力を背景に勢力を拡大した結果、土佐七族の一つにのし上がり、元親の祖父、元秀(兼序)になると、土佐の豪族たちの筆頭となった。

管領細川政元が家臣に殺されたのを契機に細川氏の勢力が衰えると、長宗我部氏の風下にいた国人の本山、山田、吉良、大平などが手を組んで反発、巻き返しをはかり、永正5年(1508)、長宗我部氏の岡豊城を攻略、落城させたため、元秀は自害。この時、元秀の子、千王丸は6歳だったが、家臣の近藤という人物に守られて中村の一条氏を頼った。

前の関白、一条教房は、応仁の乱を避けて土佐の所領に疎開しており、中村に居館を造って小京都のごとく住みなしていたため、土佐の文人や豪族はすべて敬って伺候し、一条氏はそのまま土佐の国司となったという。

千王丸が13歳の時、一条氏は教房からその子、房家に代替わりしており、房家は長宗我部の所領を分配占領していた諸豪族に話をつけ、本領三千貫をとりかえし、千王丸に与えてやった。家来たちは岡豊城を修築し、千王丸は15歳になると元服、国親と名乗った。

このような国親を父に、元親は、天文8年(1539)、土佐の岡豊城に生まれた。幼名は弥三郎。ちなみに岡豊城は、長宗我部氏旧来の城である。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.10 )
日時: 2005/04/06 17:55
名前: 長宗我部元親に関する

元親は背も高く体格も優れていたが、色白で無口、人見知りも多かったため、家臣から姫若子とあだ名され、やや軽んじられていたようでもある。

父国親は、長宗我部家の復興のため奔走。近隣の豪族である天竺氏、山田氏を滅ぼし、元親の弟、親泰に香宗我部氏を相続させ、長岡郡を本拠に、有力者の朝倉の豪族、本山氏と並ぶ勢力を形成するが、実質的には長岡城、長浜城、浦戸城などを得たのみであり、又しても一条房家が間に入って、国親の娘を本山梅慶の嫡子茂辰に婚姻させることで一時講和している。

しかし永禄3年(1560)、本山梅慶は長宗我部の領土を再び奪うため、多勢をもって長浜城の元親を攻めた。元親はただちに迎え撃ったが、倍以上の勢力を相手に軍は崩れた。

このとき元親は自ら槍をふるい、豪の騎馬を二騎討ち取ったため、全軍が意気を吹き返して敵に向かい、ついに潮江堤に敵軍を破った(土佐長浜表の戦)。この初陣により、家中はみな元親初陣の武勇を認め心服したが、父国親は同年6月15日、病没。

このあと家中は元親とともに本山梅慶と戦い、本山氏を朝倉城(高知市)に追い込んだ。

永禄6年(1563)には、安芸の豪族、安芸国虎が五千の兵で元親の本拠岡豊城を攻撃したが、危機にあった城を、元親と盟約していた豪族、吉田重俊の来援もあって、逆に安芸軍を撃退。

本山氏の朝倉城を巡っても、元親は戦いを続けていたが、本山氏はついに力尽きて本山城に退却。ここも支えきれなくなると、伊予との国境、瓜生野の地に籠ったが、永禄11年(1568)には降伏。これを最後に、元親が本山氏から抵抗を受ける事は無くなった。

翌12年(1569)、さらに強力となった元親は、一時は和睦していた安芸氏も滅ぼし、当時国司だった一条兼定が周囲から不評判なのをみると、これを伊予に追い、安芸地方の反抗豪族をも討ち破って、天正3年(1575)、ついに土佐一国を平定。

父国親の死から15年目の事で、以後は15条の法令を定めるなど、民政にも勤めている。

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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.11 )
日時: 2005/04/06 17:56
名前: 長宗我部元親に関する

1、神社仏閣の破損には修理をし、祭りは古法にのっとること。
2、三史(史書、『史記』『漢書』『後漢書』)、五経(儒学経書、『易経』『書経』『詩経』『春秋』『礼記』)、七書(兵書、『孫子』『呉子』『司馬法』『三略』『六韜』『尉繚子』『李衛公問対』)をよく先生について学ぶこと。
3、武士は弓馬剣銃を幼いときから学び、多芸を望まず、各々の力に応じて一芸に熟達すること。
4、舞、笛、鼓、蹴鞠、茶道など遊芸でも、大体はたしなんでおくこと。
5、衣食住を大切にすること。
6、百姓をあわれんで撫育を加え、清廉な心をもつこと、などの15条。

民政と法令に関しては、『名将言行録』に、元親の言葉として、「上に礼があり、下に義があるときは国は興るが、上に礼なく下に義なければ亡ぶ。下に義があっても上が礼を知らなければ、国は変わりやすく、良将はよく正邪をみきわめ、賞罰を明らかにした」と残っている。

また、長宗我部といえば一領具足は有名であるが、これは、平時は帰農して百姓、戦時には武装してかけつける、という郷士の事である。

土佐は太平洋に海岸を広げる一方、伊予や阿波と国境を接する山脈は高く険しいため、同じ四国でも、他の三国とは異なる要素が多いと言われる。元親が民政を行うにあたって施した工夫は、他の戦国大名と比べても特異な部分が多いかもしれない。

ちょうど同年、中央では織田信長が三河長篠合戦において、武田勝頼に大勝利を得ているが、土佐のみならず、四国平定に乗り出した元親は、隣国の伊予、阿波に兵を出す傍ら、織田信長とも結んでおり、信長の麾下にいた明智光秀の家臣、斎藤利三の妹を正室に迎えている。

しかし信長には、四国全土を元親に任せるつもりはなく、四国を征伐しようとして、三好康長を阿波の国に派遣。三男、織田信孝を大将に、副将には丹羽長秀を定め、泉州、摂津の各湊に兵と軍船を集めた。

信長の計画を知った元親は、土佐から兵を出すのをひかえたが、天正10年(1582)、信長が本能寺の変に倒れ、結局、四国征伐が中断された上、信長の死により、当分、中央情勢が四国に及ぶ余地のないことを見通すや、阿波、讃岐、伊予に出兵。まずは三好一族の十河存保を破って阿波を制圧。

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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.12 )
日時: 2005/04/06 17:57
名前: 長宗我部元親に関する

このとき、大西城主、大西覚用は元親に、甥の上野介を人質に出していたが、これをすてて三好氏に通じた。しかし元親は上野介を罰さないと誓紙を書いたので、上野介はその恩に報いるため、大西征伐にあたって先導を約束する誓紙をかえし、のちに、元親の秀れた謀臣となった。

こののち、元親は讃岐に逃げた存保を追捕。存保は秀吉に援軍を要請するが、元親は秀吉が派遣した仙石秀久をも破り、存保は元親に降伏。これにより元親は讃岐も手中にした。

讃岐の鷺山城に新名内膳正を兵糧攻めした時、土地の麦作を刈らせたが(麦薙、苗代返しという兵糧攻めの戦法)、畑を一畔へだてて刈り、半分は土地の百姓のため残したので、百姓たちは、早く土佐の支配下になることを望んだという。

元親は、さらに伊予の河野氏を討ち、天正13年(1585)の春ころまでに、ほぼ四国全土を平定しきった。

一方秀吉は、ほぼ東海、北陸、近畿、中国を平定。四国にいた元親は、秀吉の実力を現実的に把握できなかったため、老臣、谷忠兵衛を使者として挨拶に向かわせて様子を探らせた。

すると、元親が柴田勝家を支持したこと、小牧長久手の戦の折、織田信雄や徳川家康に味方し、根来、雑賀の党と大坂を攻撃しようとしたことを秀吉が怒り、四国征伐を計画中である事がわかった。

元親は四国のうち伊予一国を秀吉に差し出し、自分は残り三国を領有したいと言ったが、秀吉には、これはむしろ元親の現状認識の甘さ、傲慢と見なされ、秀吉の軍は羽柴秀長を総大将に、総兵力12万余を三手に分け、四国征伐のため四国に入った。

圧倒的な大軍を前に、元親は同年8月6日、2ヶ月で降伏。それでも秀吉の寛大な処置により、土佐一国のみ安堵された。

この秀吉の短期間による圧倒的勝利が、中央から遠い地方の武将、すなわち九州の島津氏、奥羽の伊達氏、中国の毛利氏らへの対応に先駆けて、四国征伐で成された点が、長宗我部氏の不運の始まりであったかもしれない。

このあと、地方の豪族や大名が、秀吉、家康に屈しながらも大名として存続できた要因、手段の一つとして、地方にあること、中央からの距離を利用した事が上げられるが、これに四国征伐がどの程度影響していたのかは、非常に興味深い。

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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.13 )
日時: 2005/04/06 18:01
名前: 長宗我部元親に関すること

元親は同年10月、秀吉に本国を安堵されたお礼を述べるために京に上り、翌14年(1586)、秀吉が九州の大友宗麟から求援を頼まれ、島津氏を討つべく軍を起こすと、元親はこれを援けるため、讃岐の十河存保と淡路の仙石秀久らと、豊後から九州に入った。

しかし総大将の仙石秀久に作戦の誤りがあり、戸次川の戦で島津家久軍の猛攻を受けると四国軍は大敗。十河存保と、元親の嫡子信親は激戦の中で戦死。信親は当時22歳で、武勇に秀で、家中の人望も高かった。

これを聞いた元親は激しく悲しみ、自分もその場で討死しようとしたが、家来たちが止めて馬に乗せ、退却させた。秀吉も報を聞くや、仙石秀久をはげしく怒りその領地をとり上げた上で、自ら出陣して、翌15年(1587)、島津義久は降伏、九州征伐は閉じた。

生き残った者たちと舟で伊予の日振島に引き上げた元親も、ようやく岡豊の居城に帰ると、大高坂城(現在の高知城)を築いて居城とし、岡豊城は廃した。この計画は、天正12年(1584)のころからあったともいうが、廃止の理由はわからない。古い城なので統治に不利な面を感じたのかもしれない。

大高坂山城には3年ほど居城し、小田原征伐から帰った元親は、こんどは浦戸に新城を築き、天正19年(1591)末ごろ移った。当時、川の流れは現在とは違い、大高坂は洪水の害が多く、治水工事は難航したという。浦戸は海寄りだが、水軍の基地や商業的な水運の意味ではよく機能したのかもしれない。

浦戸城は、海岸の小丘に本丸が築かれ、天守も構築されたという。城下町も浦戸に移され、文禄元年(1592)、元親はここで正月を迎えている。

同年春、太閤秀吉は朝鮮出兵の令を発し、元親は三千兵を率いて浦戸を発った。犠牲も多大であったが、土佐兵は強く、戦果もあげ、文禄2年(1593)6月、和睦が成立すると元親も帰国。慶長元年(1596)4月には、元親は自分の伏見の屋敷に大がかりな宴を催し、秀吉を招いている。

同年8月26日、元親は秀吉に派遣されて、サン・フェリーペ号事件に関わっている。

メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.14 )
日時: 2005/04/06 18:02
名前: 長宗我部元親に関する

サン・フェリーペ号は、フィリピンからメキシコに行く途中のイスパニヤ船で、増田長盛と元親が入船し、世界地図におけるイスパニヤ領が広大である理由をたずねると、船長は、イスパニヤはキリスト教宣教師を派遣して布教し、各地の国民を懐柔したのち、軍隊を出して土地を奪い、領土を広げたと話した。増田長盛と元親は、イスパニヤ船の積荷と財宝を没収し、秀吉に報告している。これがやがて、日本のキリスト教を禁止と、鎖国の遠因となっている。

慶長2年(1597)6月、元親は朝鮮に再征。翌3年(1598)の3月に帰国。同年の8月16日、秀吉死去のときは伏見邸、年末には土佐に帰国。

朝鮮の役では泗川に築城のおり、垣見家純というものが、塀の狭間(弓矢、鉄砲を撃つ穴)は下方では敵に城内をうかがわれるから、上の方につくれと主張すると、元親は、敵に押し寄せられ、内を見られるほど城兵が弱くては、もともと城など守れないし、狭間を高くつくると、撃った矢丸は敵の頭上をこえてしまうから、下の方につくれと主張し、家純を黙らせたという。

慶長4年(1599)元親は、三男の津野親忠を岩村に幽閉。元親は嫡男信親亡きあとの家督を四男の盛親に定めていたが、この相続には、そもそも重臣から反対があり、元親はこれらに切腹を命じている。これを親忠が不満に思い、謀反の動きありと元親に讒言するものが裏にあったという。

慶長4年(1599)5月19日、元親は伏見の邸で生涯を閉じた。61歳。従四位下、土佐守。

元親のあとを継いで一年の盛親は、関ヶ原で西軍につき、戦わずに敗北。ついに土佐一国を失い、浪人の憂き目にあう。14年後の大坂の陣では、晴れて大坂城に入城し、兵五千を率いたが敗戦。大坂城の落城後、京に潜伏していたところを捕まり、六条河原で処刑された。

長宗我部氏の後、土佐には山内一豊が入り、浦戸城を大高坂城に移し返して治水工事を施した。浦戸城址は海岸の松林の中六体の地蔵があるが、これは長宗我部氏が改易され、山内氏が土佐入りしたとき、長宗我部に属した一領具足6人のものが反抗し、戦って死んだ慰霊だという。

元親にまつわる浦戸や岡豊の城は残らなかったが、大高坂城は明治維新まで山内氏の居城高知城として存続した。山内氏の治政にあって、長宗我部氏の恩顧を受けた者たちも、やがては山内氏に従ったと見られる。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.15 )
日時: 2005/04/06 18:52
名前: 微々美々

「長宗我部元親」「明智光秀=天海説」「長宗我部元親の逸話」について回答させて頂きますね。
史実については「長宗我部元親に関すること」さん
(○○に関することさんでいいのでしょうか?)が詳しく述べていますので、自分はそれ以外を。

長宗我部元親の子孫生存説

元親が晩年伏見屋敷に暮らしているとき、一度だけ伽を行った婢女に子を孕み、生まれた子供がいたと言います。名を信九朗康豊といい、生母の実家で幼少期を百姓として過ごした後、滅亡した主家を再興すべく兄盛親が大阪城に入城したのに続き、大阪の役に参戦、落城後はつてを頼って駿河に落ち延び、その後酒井家に登用され、長宗我部家の血を続かせたと伝えられています。

「四国の蓋」の異名
1577年春、阿波と讃岐の国境に位置する雲辺寺山に登山したときの事です。傍らにいた雲辺寺の住職に、「我は四国を平定しようと考えているが、貴僧はどう思われる?」と聞くと、住職いわく、「茶釜の蓋は水桶の蓋にはなれませぬ。貴方は土佐一国の蓋にはなれても、四国全体を覆う大きな蓋にはなれないでしょう。」と諫言しました。
これに対して元親は、「我が蓋は、元親という名工が鋳た蓋である。名工が鋳た薬缶の蓋は、たとえ小さくとも、大きな薬缶を蓋することが出来るそうではないか。されば、やがては四国全体を覆う蓋となろう。」と言い返し、実際に四国を統一してしまいました。

本能寺の変の前触れを知っていた?

天正9年、阿波・讃岐方面に進攻ししていた元親に対し信長が「阿波の支配は三好氏に任せるので三好氏を援助しろ。」という命令が出た時の事です。
元親はこれに従わず、結果、信長は四国征討準備を始めました。そして、信長と元親の仲介をしていた光秀は四国担当の任を外されています。
ここで・・・
「長宗我部元親記」に次のような記述がある。
「斎藤内蔵助(利三)は四国の儀を気遣に存ずるによって也、明智殿謀叛の事いよいよ差し急がるる」
と書かれている事から、実は「謀反の兆し」を知っていたのではないでしょうか?
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.16 )
日時: 2005/04/06 18:59
名前: 微々美々

続きです。
以前、「南光坊天海」のスレにも載せたことがありますが、再度載せて置きますね^^
「天海=明智光秀」説の根拠として、光秀の木像と位牌のある慈眼寺の寺号と、天海の諡名が同じ「慈眼」であることが上げられます。
さらに、比叡山・松禅寺には、光秀寄進の石灯籠が現在でもあります。寄進日は慶長20年(1615年)つまり光秀はすでに死んでしまってるはずの年代です。これは光秀が慶長20年(1615年)まで生きていたことの明らかな物証でしょうか。
また、日光東照宮の近くの中禅寺湖や華厳の滝が見える平らな場所を明知平といい、天海が命名しています。さらに日光東照宮の陽明門の入り口の脇にある二対の大礼服の随身の座像は二対とも着物に明智家の桔梗紋があります。

光秀の死亡?記録も。
「天正十年夏記」(勧修寺晴豐の日記)天正十年六月十五日条
「(前略)明智くひ勧修寺在所にて百性取候て出申候。本能寺ニむくろト一所首おかれ候。見物衆数しらぬ也。首共を信長はてられ候跡ニならへ候。三千程有之由候。」

「兼見卿記」天正十年六月十六日条
「(前略)向州頸・筒体(ママ)、於本應寺曝之云々、」
と公家の残した日記に記されています。
史実通りであれば天正10年に亡くなっています。

もう1つ。
天海が明智平で残した逸話に・・・
天海は明智平に来たときに「良い名だ。とても懐かしく遠くの事のようだ」とい う意味のことを言ったという伝説が残っているといいます
ちなみに天海は明智平にてあの有名な「かごめ、かごめ」の童謡にちなみ「篭の中の鳥」を光秀に例えたとも言われています。

真偽は不明ですが、こういう話が出るのも「歴史のロマン」で良いのではないでしょうか?
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.17 )
日時: 2005/04/06 19:10
名前: 辻斬り一代

山口佐馬助と明智秀満は同一人物なんですか?
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.18 )
日時: 2005/04/06 19:30
名前: 微々美々

「山口佐馬助と明智秀満は同一人物」か?について回答させて頂きますね。

実は・・・別人です。
山口佐馬助は今川家鳴海城城主です。

明智秀満の本名は弥平次(やへいじ)です。一般的に明智左馬助秀満として知られていますが、これは間違いで、正しくは明智弥平次秀満です。
「鬼武者」の影響が大きいかと思いますが・・・。
最初は、三宅弥平次と称しており、光秀の甥とも従弟とも言われています。
明智姓を名乗ったのは1578年頃で、光秀の長女を貰っていますが、光秀の長女は最初、織田家の部将である荒木村重の嫡男・村安に嫁いでおり、村重が信長に反旗を翻した時に離縁させられ、改めて秀満に嫁ぎ、これが縁で「明智」姓を名乗っています。
一説に天海僧正は光秀ではなく「秀満」という説もありますが・・・。
ちなみに「左馬助の湖水渡り」の伝説は中々「カッコイイ」ですよ^^
メンテ

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