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決戦3「史実」探検スレッドぱーと2
日時: 2005/04/06 01:13
名前: 微々美々

決戦3「史実」探検スレッドに多くの書き込みを頂きましたので、第二弾のスレを立てて見ました。
(もうそろそろ100の大台に乗りそうでしたので)
書き込んで頂いた方や、御覧になって頂いた方、管理人様には本当に感謝しております。
(興味のない方には本当に申し訳ないスレでもあるのですが・・・)
前回同様「決戦3」に関わる「史実」の疑問・ご質問であれば、自分の知っているもの、調べて何とかなるものであれば、可能な限りお答えしたいと考えておりますので、どしどし書き込んで下さい。

これから決戦3を始める方にも楽しんで頂けたら幸いかな・・・と思っています^^
メンテ

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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.19 )
日時: 2005/04/07 12:59
名前: 微々美々

そういえば、「山口左馬助」の事について載せていなかったので、載せておきますね。
本名は山口教継と言います。
山口氏の由来は多田羅姓で、百済国の王子琳聖の七世の孫、長門守正恒からは大内姓を名乗っています。
この後、尾張熱田の橋本盛正の館に移った後、大内姓を廃し、山口と改姓したと言います。
「決戦3」では「赤塚の戦い」が該当します。

「信長公記」によると・・・
三ノ山赤塚合戦の事
天文22(1553)年、信長19歳の時。鳴海城主の山口左馬助・九郎三郎親子は信秀に重用されていましたが、信長が後を継いでから謀反を起こし、駿河衆を引き入れ笠寺・中村に砦を築きました。

信長は4月17日兵八百を率いて出立し、古鳴海の三の山に陣を構えます。これに対して敵勢千五百は三の山から15町先の赤塚に繰り出し、対する信長も前進、赤塚に兵を展開しました。

最初は4・5町を隔てて矢戦が行われましたが、その後乱戦となり、双方痛み分けの結果に。この戦で織田方の死者は三十人。捕虜になった者や敵方に捕まった馬も多かったが、このころの戦は敵味方互いに顔見知りでもあったから、馬は返還し、捕虜は交換したそうです。

その後、今川の尾張侵攻の足掛かりを作った訳ですが、桶狭間合戦の前に信長の調略に陥り、教継父子は義元に駿河に呼び寄せられ殺されてしまいます。

秀満と同じ「左馬助」なんですが、悲しいですね・・・。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.20 )
日時: 2005/04/07 13:49
名前: 馨輾

光秀ってなんで謀反を起こしたんですか
決戦。であったのが謀反の理由ですか
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.21 )
日時: 2005/04/07 15:00
名前: 辻斬り一代

の湖水渡り」の伝説は中々「カッコイイ」ですよ^^

Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.19 )
日時: 2005/04/07 12:59
名前: 微々美々


そういえば、「山口左馬助」の事について載せていなかったので、載せておきますね。
本名は山口教継と言います。
山口氏の由来は多田羅姓で、百済国の王子琳聖の七世の孫、長門守正恒からは大内姓を名乗っています。
この後、尾張熱田の橋本盛正の館に移った後、大内姓を廃し、山口と改姓したと言います。
「決戦3」では「赤塚の戦い」が該当します。

「信長公記」によると・・・
三ノ山赤塚合戦の事
天文22(1553)年、信長19歳の時。鳴海城主の山口左馬助・九郎三郎親子は信秀に重用されていましたが、信長が後を継いでから謀反を起こし、駿河衆を引き入れ笠寺・中村に砦を築きました。

信長は4月17日兵八百を率いて出立し、古鳴海の三の山に陣を構えます。これに対して敵勢千五百は三の山から15町先の赤塚に繰り出し、対する信長も前進、赤塚に兵を展開しました。

最初は4・5町を隔てて矢戦が行われましたが、その後乱戦となり、双方痛み分けの結果に。この戦で織田方の死者は三十人。捕虜になった者や敵方に捕まった馬も多かったが、このころの戦は敵味方互いに顔見知りでもあったから、馬は返還し、捕虜は交換したそうです。

その後、今川の尾張侵攻の足掛かりを作った訳ですが、桶狭間合戦の前に信長の調略に陥り、教継父子は義元に駿河に呼び寄せられ殺されてしまいます。

秀満と同じ「左馬助」なんですが、悲しいですね・・・。

Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.20 )
日時: 2005/04/07 13:49
名前: 馨輾


光秀ってなんで謀反を起こしたんですか
決戦・であったのが謀反の理由ですか

メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.22 )
日時: 2005/04/07 15:06
名前: 辻斬り一代

>>21やめて下さい。
有難うございますいや〜勉強になりますね。<微々美々さん
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.23 )
日時: 2005/04/07 16:17
名前: 上海

光秀謀反の原因についてですが

1.普通の野心
光秀も、他の戦国武将と同様に、機会があれば天下を手中にしたいと考えていたのは至極当然。
2.怒りの蓄積
信長が光秀の立場を考慮しない言動が多くなり、じわじわと蓄積された。
甲州攻め後の暴行、家康饗応役に対しての叱責等。(確か光秀の母も信長に見捨てられたはず)
3.面子
信長は光秀所領の丹波と近江を没収し、かわりに、毛利の領地である領出雲と石見を与えると言われる。加えて格下である秀吉の指揮下で中国攻めに参加せよと指示される。
家臣や同僚に対する面子丸つぶれ。
4.先制攻撃
信長は晩年、股肱の家臣、林佐渡守や佐久間信盛に対し、イチャモンをつけて追放した。
何時自分が(今度は自分かも)と考え、勝負にかけた。

私の認識ではこんな感じですが、1〜4のいずれか一つが原因では無く、複合的に重なって、謀反となったのではないかと思います。
詳しくは微々美々さんが書き込んでくれるでしょう。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.24 )
日時: 2005/04/07 17:52
名前: 微々美々

「光秀の謀反の理由は?」と「帰蝶争奪戦のもつれ^^が原因?」の両方について回答させて頂きますね。

まず、「決戦3」でテーマとしていた、「信長・光秀の帰蝶争奪戦」ですが、これを根拠とする史実があります。

ただ1つ「明智軍記」が該当します。
内容としては、斉藤道三と小見の方の間に生まれた唯一の娘、帰蝶が一歳年上の信長に嫁いだ時、道三の近習に十兵衛という少年がいました。小見の方は明智光継の娘で、十兵衛の父光綱と兄妹の間柄なので、十兵衛は小見の方の甥に当たり、帰蝶とは従兄妹の関係に当たります。この従兄妹同士は親密だったようです。やがて十兵衛は光秀を名乗り、人知れず将来を誓い合うようになりましたが、父道三が嫌がる濃姫を政略の道具として信長に嫁がせた為に、光秀の信長への憎悪が募り、また帰蝶も意に沿わない結婚であったことから、「本能寺の変の時に信長を裏切って光秀に味方した」と言われています。
この話が本当かどうかは不明ですが、彼女の史料が少ないことから、歴史小説や講談ではしばしば取り上げられた話題でもありました。

元のスレでも質問があったのですが、内容はほとんど「決戦3」の”ネタ”そのものですね・・・。
(光秀が帰蝶の「守役」だったことや、恋愛関係にあったことなど)

メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.25 )
日時: 2005/04/07 18:00
名前: 微々美々

続きです。
「光秀の謀反の理由は?」なのですが、説は50以上もあり、絞りきれないので、かつて同じ質問を頂いたことがあるのでそれを再度載せておきますね。

本能寺の変について、光秀の有名な句から解釈された新説だそうです。

ときは今天が下しる五月哉

これは有名な「愛宕百韻」で光秀が謀反の決意を詠んだ句だそうですが・・・
通説
1:はじめから「天が下しる」だった
2:もともとは「天が下なる」だったのを「天が下しる」に改竄した

意味は「天下をしろしめす、天下を知行する、天下を支配する」

脇句に「水上まさる庭のまつ山」とあり、「水上」は源氏、「庭」は朝廷を表し、「朝廷は源氏(:光秀)が(平氏=信長に)勝る事を希望されています」と続き、三句「花落つる流れの末をせきとめて」は「栄華を誇る(信長が)凋落するように勢いを止めて下さい」と流れ、大善院宥源の四句「風は霞を吹おくる暮」は「信長を打ち破って暗黒政治を吹き払うときです」と解釈されています。

新説
光秀の発句を「天が下しる」とした上で下の句の「五月哉」に着目し・・・
1:「平家物語」における平家に源頼政が反旗を翻した対した宇治川合戦
2:「増鏡」における後鳥羽上皇が鎌倉幕府(執権は北条氏:平氏)に対して討幕の挙兵を行った承久の乱
(このとき土岐氏は上皇側についた者が多数居た)
3:「太平記」における足利尊氏の六波羅探題陥落と新田義貞の鎌倉襲撃
(実はいずれも5月頃に起こったものだとか)

と絡めて「平氏」を名乗った信長と源氏=光秀?の対立とする説もあるようです。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.26 )
日時: 2005/04/07 18:05
名前: 微々美々

続きです。
本能寺の変の諸説一覧です^^;
「光秀単独説」
1.積極的謀反説
野望説、突発説
2.消極的謀反説
怨恨説、不安説、ノイローゼ説、内通露見説、人間性不一致説、秀吉ライバル視説
3.名分存在説
救世主説、神格化阻止説、暴君討伐説、朝廷守護説、源平交代説
4.複合説
不安・怨恨説、怨恨・突発説、不安・突発説、野望・突発説、不安・野望説、怨恨・野望説、複合説
「主犯・黒幕存在説」
1.主犯存在説
秀吉実行犯説、斎藤利三実行犯説、徳川家康主犯・伊賀忍者実行犯説、複数実行犯・複数黒幕存在説
2.黒幕存在説
朝廷黒幕説、秀吉黒幕説、足利義昭黒幕説、毛利輝元黒幕説、家康黒幕説、堺商人黒幕説、フロイス黒幕説、高野山黒幕説、森蘭丸黒幕説
3.黒幕複数説
秀吉・家康・光秀共同謀議説、足利義昭・朝廷黒幕説、近衛前久・家康黒幕説、毛利輝元・足利義昭・朝廷黒幕説、堺商人・家康黒幕説、上杉景勝・秀吉黒幕説、家康・イギリス・オランダ黒幕説、足利義昭・秀吉・毛利輝元黒幕説
4.従犯存在説.
近江土豪連合関与説、長宗我部元親関与説、濃姫関与説、光秀の妻関与説、秀吉関与説
「その他」
信長の対朝廷政策との関連、家臣団統制との関連、信長自滅説、信長不死説
です。

なので・・・「決戦3」のような解釈も「十分有り得る」話だと思います。
まあ、「カッコイイ」ですし^^
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.27 )
日時: 2005/04/07 18:46
名前: 微々美々

せっかくなので光秀の「下克上」が世に「謀反」として知られる理由についても。

本能寺の変が「謀反」であると最初に記録したのは、秀吉のお伽衆である大村由己の「惟任退治記」(「惟任」は明智光秀の別姓)です。この中で光秀は極悪非道の謀反人と断罪され、それを討伐した秀吉の功績が称えられています。

光秀に好意的であった京都の公家衆で、権中納言山科言経は日記の一部を削除し、光秀が京都にいた8日間を完全に空白にしてしまったそうです。
武家伝奏観修寺晴豊の日記も、この期間のものは紛失してしまっているそうです。

公家の日記は、家の記録として子孫に伝承する目的で書かれたもので、火の粉が降りかからないために光秀の天下を歓迎した事実を抹殺したと言えるかもしれないですね・・・。
ひょっとするとこれが本能寺の変の様々な謎を後世に残すことになった原因の1つかも。

同じ内容を秀吉サイドから。
山崎の戦いの後、秀吉は「惟任退治記」という本を書かせて、諸大名や公家に配りました。主君信長の敵を討った功績を世間に宣伝し、天下取りを優位に進めるためです。翌年、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いの後も同様で、「柴田退治記」を配り、自分が信長の後継者であると宣伝したそうです。

柴田勝家を破った後、秀吉は現在の状況を書状にして、面識のない地方の大名にまで送り付けました。内容は「北は越後の上杉景勝から、東は関東の北条氏政までが、秀吉になびいている」と書いてあるそうですが実は「嘘」だとか。
しかし、この手紙を大半の武将が信じてしまい、天下取りの地ならしとなったそうです。

本能寺の変の真相で「爆笑ネタ」も。
八切止夫(やぎりとめお)先生の光秀非実行犯説
この方は「上杉謙信は女性である」と言う説を唱えた方ですが、本能寺の変についても変わった説を残しています。
信長を殺したのは「宣教師」で、大砲で吹っ飛ばしてしまったとしています(笑)
「やるな、フロイス・・・」と言うところでしょうか^^
メンテ
全く別の質問なんですが ( No.28 )
日時: 2005/04/08 17:34
名前: 戦国マニア

賤ヶ岳七本槍は本当は九人いるんですよね?
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.29 )
日時: 2005/04/08 19:31
名前: 微々美々

「賤ヶ岳七本槍は本当は九人」いた?について回答させて頂きますね。

その通りです。実際は9人いたので、本当は9本槍のはずなのですが・・・。
史料にも残っています。「柴田退治記」にその事実が書かれています。
  今度三七殿依御謀叛濃州大垣令陣
  替之剋柴田修理亮柳瀬表取出之條
  為可及一戦秀吉一騎馳向之所心懸
  以不浅故早速懸着於眼前合一番鑓
  無比類働之條為褒美三千石充行弥
  向後於抽軍旅忠勤者於勲功可相計
  者也仍如件
   天正十一年七月一日 秀吉判
内容は・・・
神戸信孝が謀反したため美濃大垣へ陣を移したとき、柴田勝家が柳ヶ瀬で策動を開始したので、一戦に及ぼうと秀吉が一騎で馳せ向かったところへ、心懸けが良く早速駆けつけ、目の前で一番槍の手柄をあげるとは比類の無い働きぶりであるから褒美として三千石あてがうことにする。いよいよ今後も忠義に働くならば、また待遇を考えてやろう。まあ、そういうことだ。

秀吉からの感状で、武功を褒めたものです。
同じ文面の感状が全部で八枚、うち一枚は福島正則あてのもので加増は五千石になっている部分が異なっています。もう一枚、同じく一番槍だが戦死した者にあてたもので弟にあてて書かれた感状があるので、一番槍は全部で九人いた事になります。
 
九人が七人に減った理由
学説では、秀吉は、七本槍という幻の勇士を創り上げたとする説が有力だそうです。
元々、七本槍の出自は「小豆坂七本槍」が最初の由来だったとされており、秀吉はこれにならったと言います。また、九人のうち七本槍に入らない二人は秀吉から見て陪臣であったし、早死にした為、七本槍に入れなかったと言います。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.30 )
日時: 2005/04/10 16:51
名前: 微々美々

閑話休題ということで・・・

「信長」の意外な解釈を。
ゲーム中のムービーで信長が「酒」を飲んでいましたが、実は・・・「下戸」で「甘党」だったとか^^
理由は・・・
フロイスは信長を紹介した際に「酒を飲まず、食を節し」と自らの書物にも残しているのですが・・・
また、フロイスが様々な品物を献上した際に、砂糖菓子を喜んで受け取ったと言われています。
「甘党」の理由としてはコレだけでは弱いのでもう1つ。
上洛後、団子や粽を好んで食べていたと言う話も残っているそうです。

ついでに、当時の「下戸」とは・・・こんな感じだとか^^;
今川義元も「下戸」だそうですが・・・
「言継卿記」によると、
「太守下戸タリト雖モ十余盃受用サレ了ンヌ」

※当時の盃は今で言う「猪口」ではなく、なみなみと注げば、小さい物でも二〜三合は入る代物でした。つまり、二〜三升はゆうに飲んでいる義元を「下戸」と記していることになります。

織田信長は“ケチ”(笑)

「老人雑話」より織田信長の意外な一面を
「信長は天性吝嗇の人也。相撲取の三番したるに、焼栗一つ褒美に與ふる様の人也。」と記述があり、

吝嗇=ケチのこと。
相撲を観覧した時に、関取に対し「栗1個?」しか褒美であげなかったとか^^

なにか「庶民的」な感じで自分は好きなエピソードの1つなのですが・・・。
(信長好きの方には申し訳ないのですが)
引き続き、疑問、ご質問は募集中ですので、どしどし書き込んでください^^
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.31 )
日時: 2005/04/11 17:17
名前: 上海

上の光秀謀反の要因にもどってしまいますが、徳川家康黒幕説もありましたよね。
2代 秀忠、3台 家光の名前が何か意味ありげに思えるのは気のせいですか?

それとあまり関係無くこれまた恐縮ですが、征夷大将軍は源氏しかなれない(秀吉は摂政関白)のは何故ですか(前からすごく気になっていたので)
宜しくお願いします。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.32 )
日時: 2005/04/11 21:10
名前: 微々美々

「徳川家康黒幕説」「意味ありげな命名?」「征夷大将軍と源氏」について回答させて頂きますね。

・徳川家康黒幕説について
根拠の1つとして、「徳川実紀」、「天正日記」、「武徳編年集成」には、家康は「本能寺の変が起こることを予測していた。」と思える記述があるそうです。
実はほとんど検証されていない説だとか。
不思議ですね・・・。
また、別の見方をすると、こんな説もあります。
「老人雑話」によると、
「明智の乱(本能寺の変)のとき、東照宮は堺におわしました。信長は羽柴藤五郎に仰せつけられて、家康に大坂堺を見せよとつかわされたのだが、
実のところは隙をみて家康を害する謀であったという。」と言う内容があり、実は「家康暗殺計画」とも言われているそうです。また、明智軍の雑兵は、本能寺に攻め入るまで、「敵は信長である」と言う事を”知らなかった”と言う史料もあります。
どうも「家康」だと思って攻めていたらしいですが・・・。
「川角太閤記」によると、
家康の前で舞を見せた梅若が、「能が不出来だ」の理由だけで信長に「斬首された」と記述があります。
ほとんど”無茶苦茶”すぎますが・・・
可能性としては、梅若は「家康の暗殺に失敗」して
口を封じられたと言えるのでは?と思っていますが。

なので本当は「家康暗殺計画」と見る説もあるそうです。
光秀と家康の関わりについても少し・・・
「名将言行録」には、三河の牧野右近太夫の家臣であった頃の光秀の逸話が書かれていることから、家康の家臣だったという説があります
「武功雑記」には、光秀が三河で渡り奉公をしていたときの逸話が残っていました。
これも「家康黒幕説」の根拠と言えるかも・・・

メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.33 )
日時: 2005/04/11 21:15
名前: 微々美々

・2代 秀忠、3台 家光の名について
実は、「光秀=天海」説にもつながる根拠でもあります。
ここで「春日局」の存在から面白い説があったので、載せておきますね。
天海の口利きにより、本能寺の変の大功労者で光秀の家老、斎藤利三の遺子於福(おふく:後の春日局)が重用されました。

天海が春日局に初めて会った時、春日局は「お久しゅうございます」と言ったそうです。
これも「天海=光秀」の根拠の1つでは?
(イマイチ”押し”が弱いですが^^;)

また、家光の母とされたお江(信長の妹お市の娘)にとって春日局(お福)は伯父の敵の娘に当たり、普通なら子供の養育を任せないと思いますが、ここに天海(光秀)と家康の作為がありそうにも思えます^^

実は家光はお江の子ではなく、「お福」の子であり、その父は秀忠ではなく家康だとする説もささやかれていますし・・・。
それ以外には・・・
春日局は明智光秀の重臣の娘だったので、光秀には敬意を払っていました。
なので、子供の名を「光秀」の「光」をつけて「家光」にしたとも言われています。
また、家康は自分の子に「光秀」の「秀」をとって「秀忠」という名をつけています。

ついでに、明智に関わる人物として、意外な?人も。

それはなんと秀吉の糟糠の妻、「ねね」でした!
ねねの実家の浅野氏の祖は、清和源氏頼光流土岐氏で、明智光秀との関係があるわけです。

信長の妻の濃姫も光秀との関係があることを思えば不思議ですよね・・・。
濃姫にもねねにも、「子を授けなかった」神様は何を考えていたのでしょうか・・・
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.34 )
日時: 2005/04/11 22:00
名前: 微々美々

「征夷大将軍」と「清和源氏」について(前編)
日本では大河ドラマ「義経」も放送されていますし、”タイムリー”な話題なので少し詳しく載せておきますね。
征夷大将軍とは何なの?
元来は陸奥における蝦夷征討のため朝廷から任命された総指揮官をさし、坂上田村麻呂・文室綿麻呂が有名ですが、蝦夷征伐が落ちつくと廃止された職でもあります。

その後平安時代末期に従来とは違った意味で復活、征夷大将軍は東国支配の性格を持つ職となり、鎌倉幕府以降は武家の棟梁を意味するようになりました。
その後鎌倉幕府打倒に功績のあった護良親王がこれを自称し、その後足利尊氏が任命され、足利義昭が織田信長に追放されるまで足利氏の将軍が続きました。
何で清和源氏ばかり?
征夷大将軍職は「清和源氏の嫡流のもの」という原則が定着したのは”室町時代から”です。皇族が天皇を、藤原家が摂関職を世襲するのと同じように、清和源氏が征夷大将軍職を世襲することになりました。

源氏で最初の将軍は誰?
木曽義仲の名でも知られる源義仲が源氏では最初の征夷大将軍(旭将軍。1184就任)でしょうか。
※この場合の征夷 「夷」は「えびす」(”ビール”ではありません^^)で、「東」の事を指します。
当時義仲は木曾出身の田舎物と蔑まれていました。そんな義仲でも、かねてこの故実があることを聞き、その宣下を望んでいたのですが、院では、「源氏にそれを与えた前例が無い」という理由で拒絶し続けていたのです。征夷大将軍というのは平安初期に坂上田村麿がそれに任じられたのが最初で、次いで天慶(てんぎょう)三年藤原忠文がそれに任じられて以来245年、その職は空席のままだったそうです。

メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.35 )
日時: 2005/04/11 22:10
名前: 微々美々

「征夷大将軍」と「清和源氏」について(中編)

現代の認識の違い
征夷大将軍=源頼朝=幕府創設者で解釈されることも今では多いようですが、
征夷大将軍=幕府は正確な見解ではなく、本当は源頼朝は奥州藤原氏追討の名分のために同職を欲しています。またこのときに官位は権大納言・右近衛大将を得ています。
ちなみに征夷大将軍は臨時職で遥かに格下の職であり、よって1194年には辞任を申し出ています。政所を開いたのは1190年、右近衛大将の名において行っています。
※将軍職であれば、当時では「鎮守府将軍」の方が上でした。源満仲(清和源氏となってから最初の方)が宣下され、以来しばらく世襲された職です。
頼朝はこの故事にちなみ、征夷大将軍を欲したとされています。
また侍所・問柱所はそれ以前に設置され機能しています。つまり征夷大将軍任命以前に、実質的に幕府は設置されていた訳です。

「清和源氏が多い」理由
「清和源氏が多い」理由は清和源氏出身者が多く就任してきたことから、やがて征夷大将軍に就任するに相応しいのは清和源氏であるとされるようになったことが理由と言えるのでは?
もう1つの理由として、
源頼朝が幕府を開いて以後、「武家の統領となる将軍に就く家柄は、源氏に連なる家系に限る」と言う認識が武家の間に広まったことが根拠の1つかもしれないですね。
また、徳川家康は元々源氏ではありませんが、家系図を譲り受けることによって源氏へと改姓し将軍となったそうです。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.36 )
日時: 2005/04/11 22:16
名前: 微々美々

「征夷大将軍」と「清和源氏」について(後編と余談)

幕府って何なの?
征夷大将軍は占領地に臨時軍政を布く権利がありました。
これを組織的に運用するところがいわば将軍の本営である幕府であり、やがて臨時非常大権を行使する役所、行政府となりました。鎌倉時代の幕府はこれを拡大解釈し、非常時大権を日常化したものとしています。
徳川家康の時代の頃には、完全に征夷大将軍は幕府の開設&武士の棟梁のイメージが定着していたそうですが。
余談も載せておきますね^^
決戦3で「公方」と言う言葉が出ていますが、本来は「公家の方」という意味で朝廷や天皇、上皇のことを指す意味だそうです。
はじめ、足利尊氏が天皇に称することを許されますが、恐れ多いと言うことで辞退した後、足利義満が「公家には、摂家という棟梁があり、僧には門跡という棟梁があるのに武家には棟梁の名がない。」と言って朝廷に許された称号だという説と武家の棟梁の自称だとする説があるそうです。

・・・まあ、「貧乏公方」という、あまり”うれしくない”異名をもらった将軍も「決戦3」には登場しているようですが・・・(苦笑)

あまりの長文で本当に申し訳ないのですが・・・。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.37 )
日時: 2005/04/11 23:28
名前: 微々美々

「徳川家康黒幕説」について、史料をあれからひっくり返して見たところ、他にこんなものを見つけたので載せておきますね。

小林久三氏の家康黒幕説
光秀単犯説は、どれも無理があり合理性に欠け、説得力に乏しいと唱えた方だとか。
内容は「黒幕は家康」として、同行していた穴山梅雪の死亡は家康が秘密を知られ、殺害したとしています。さらに共犯として秀吉をあげ、小牧・長久手の戦いは八百長だとしています。その後、生きていた光秀を天海と同一人物だとまとめており、その後、本当の黒幕は朝廷だと言って、家康と秀吉を執行者に選んだ、と結論付けています。

本当に、「本能寺の変」は「ミステリアス」ですね・・・
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.38 )
日時: 2005/04/12 10:19
名前: 上海

微々美々さん、ありがとうございました。
光秀謀反、実は家康が黒幕も説得力が有りますね。

また征夷大将軍は源氏しかなれない、では無く結果的に清和源氏が世襲していたとなりますね。
家康が、家系図を譲り受けるまでして源氏へと改姓したのはより早く征夷大将軍になる事を狙ったのかも知れません。

勉強になりました。
またまた、感服、感服。

メンテ

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