Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.53 ) |
- 日時: 2005/05/26 12:14
- 名前: ゆん
- 色々ありがとうございます(^^♪
こんなに詳しく教えていただけるなんて、質問したかいがありました。
>蒲生氏郷 秀吉に色々協力しているのに、何だか晩年は煙たがられているみたいですね。 もしかして黒田官兵衛と同じく、才がありすぎて怖かったのでしょうか?
>細川藤孝 光秀と仲が良かったはずなのに、本当はそうではなかったのでしょうか^^; 光秀の一方的な思いだけで、何だか可哀想に思えてしまいました。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.54 ) |
- 日時: 2005/05/29 07:54
- 名前: 謙信
- 今回は松永久秀について質問します。
松永討伐戦をやっていたら、久秀は民衆に対して重い負担をかけるような政治をしていたと描いてましたが、史実ではどうだったのでしょうか?そんなに悪政ばかりだったら、すぐに一向一揆でも起こされて失脚したように思えるのですが・・・。
それと久秀が台頭できた理由は何か、ご存知でしょうか?武将列伝を見てもよく分からないので、例えば信長の桶狭間のように、武名を広める手柄を立てたのでしょうか?
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.55 ) |
- 日時: 2005/05/29 17:09
- 名前: 微々美々
- 松永久秀について回答させて頂きますね^^
>悪政を敷いていた 自分の知る限りの史料では、悪政を敷いた史実はなかったのですが・・・ ただ奈良の町人からは嫌われていたみたいですよ^^; 最期の地・信貴山城が焼け落ちるのを見て奈良の町人はみな喜んだらしいと伝わっています。 悪政について強いて上げるとすると、 天文20(1551)に長慶が京都市中に地子銭を課し、久秀はこれを厳しく取り立てたこととか、永禄3(1560)年頃には京都支配の実権を握り、人頭税・通行税を思いのままにし蓄財した事ぐらいですね・・・。
どうも久秀君自身はその悪行のせいで誤解されているようですが、「足利季世紀」では「”分別才覚人に優れ、武勇は無双なり”、諸人これを用いるといえども、天性やぶさかに生まれついて、大欲深し」と記されています。 自分には、それほどの悪党には思えないのですが^^; また当初は弟・長頼とともに長慶に仕え、その時久秀は右筆を勤めており実務に長けた有能な存在であったらしいですし。 その後、行政・司法の面でも長慶の懐刀として活躍したようですよ・・・。 さらに 永禄年間における久秀の人的交流に目を向けると、奈良や堺の茶人との交際が目立っています。 意外と思われがちですが、松永久秀は一流の茶人としても知られており、「天王寺屋会記」「松屋会記」などの茶会記に記録が残っています。 永禄三年には堺の豪商で茶人として名高い津田宗達の茶会に招かれ、翌年正月には奈良の富豪鉢屋紹佐の茶会へ参加しています。 また永禄六年正月には多聞山城に設けた茶室で自らが主人となって茶会を催しており、これらの茶会の客には奈良の塗師で一流茶人の松屋久政、堺の豪商若狭屋宗可、京都の名医で久秀の侍医でもあった曲直瀬道三らの名があります。また永禄八年正月の同じく多聞山城における茶会では千宗易(利休)の名もあり、実は風流人でもありました。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.56 ) |
- 日時: 2005/05/29 17:10
- 名前: 微々美々
- また、浅井長政の裏切りにより信長が窮地に陥った時、信長は「撤退したい」気持ちを隠しつつ「自分はこのまま越前に攻め入りたいのだがどうだ?」
と家臣団の前で問いました。 その真意を察した久秀が撤退を勧め「老人が言うならしょうがない、撤退してやろう」という運びになったと「織田家譜」「総見記」に記されています。 状況判断に優れた人であったのではないでしょうか? また「多聞櫓」で知られる、築城にも優れた人物でもあるのですが・・・
久秀の台頭 永禄二年(1559年)久秀は三好長慶の命で信貴山城を築城し、一方で堺にまで勢力を広げることもしています。 その年の7月に大和侵攻を開始した久秀は、井戸城、郡山城、歳方平城、桜坊城、沢城を陥落、次々と国人衆を従えました。 1562年の久米田合戦では、和泉国の三好軍は壊滅、長慶の弟である義賢が戦死し、長慶もまた飯盛山城を畠山軍に包囲され篭城する事に。 これに対し久秀は畠山の軍勢の包囲を破って辛くも長慶の救出に成功、そのうえ松永は三好軍を立て直すと教興寺・葉引野合戦と次々と畠山軍をその采配で追い立てたそうです。 さらにこの年の9月幕府政所執事・伊勢貞孝を殺害しています。実戦では采配を、政治には謀略を振るい、精力的な活動をしていたのではないでしょうか。 1563年8月、久秀は三好長慶の嫡男義興の側近を抱え込み食膳に毒を盛ります。43歳でまだまだ働き盛りの長慶はこのため意気消沈し、翌年この世を去りました。 松永久秀は主君三好長慶の亡き後、その妻を奪い側室に。三好氏家督は養嗣子の義継(長慶の弟・十河一存の子)が相続したが、その実権は久秀と三好三人衆(三好長逸・三好好康・岩成友通)が握ります。 その上で久秀はさらに勢力を広げるべく、筒井順慶の配下・十市遠勝の居城十市城を攻めます。遠勝を追い詰めるものの、天然の要害である多武峰での頑強な抗戦に攻めあぐね、勅使を請うて和睦。しかし、十市遠勝は娘を人質に久秀に降ってしまいます。久秀は、筒井順慶にとってかわり大和一国をほとんど平定するに至りました。 大体こんな感じだったそうです。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.57 ) |
- 日時: 2005/05/29 17:22
- 名前: 謙信
- 毎回詳しい解説をしていただき、本当にありがとうございます。教科書にはほとんど出ていない久秀の実態がよく分かり、楽しく読ませてもらいました。
私には久秀もそんなに「大悪党」ではなく、下克上が当たり前だったこの時代の典型的な「謀将」のように思えてきました。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.58 ) |
- 日時: 2005/05/29 20:18
- 名前: 豪天
- 答えにくい質問かと思いますが、徳川配下の「お勝」のモデルのような人物は居るのでしょうか?
もう一つ、家康が信長の親友のような扱いになっていたのはどのような話からでしょうか?
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.59 ) |
- 日時: 2005/05/29 21:37
- 名前: 微々美々
- 「お勝」と「家康が信長の親友のような扱い」両方について回答させて頂きますね^^
「家康が信長の親友のような扱い」になっていたのはどのような話からについては・・・
実は、いわゆる「信長・家康幼馴染説」は一般的にフィクションであると言われています(残念) 1547年に竹千代(後の家康)が人質として駿府へ送られる途中、田原城主戸田康光に奪われ、織田信秀の元へ送られました。 銭500貫で売られたとも、1000貫とも言われています。小説などでは、この年から約2年間、竹千代が尾張で人質生活を送っており、信長が竹千代を可愛がっていたとされているようですが・・・ 「信長公記」などにはそのような記録はありませんでした。 ただ、説によっては、このような話も残っています。ある日熱田の竹千代が捕虜で監禁されている所まで来て、竹千代と話しをしたり、阿久比に後妻で嫁いでいる於大の方を熱田まで呼んで、竹千代と逢わせたりもした。この時にも、無言で竹千代に「逆らうなよ」と於大の前で威圧をかけます。 於大にもこの信長の威圧が感じ取れたのか、後の徳川家康に「逆らわないように」と忠告したとも言われています。 大体このぐらいですね・・・。
お勝のモデルについて お勝は”実在”の人物ですよ^^ 簡単バージョンの紹介と詳細バージョンの紹介と両方載せておきますね^^
簡単バージョン 別名をお梶の方と 家康最愛の側室でもありました。 お梶は慶長五年(1600)の関ケ原の戦いにお供をして勝利を収めましたので、 徳川家康から「梶を勝と改めよ」といわれ、以後お勝の方(局)と呼ばれ、家康との間に生まれた市姫が4才で亡くなると、「水戸徳川家」の祖となった徳川頼房の養母となりました。 家康が晩年を過ごした駿府城では、質素倹約につとめて家康の信頼も厚く、家康から「男なら大名にも取り立てられるものを」と言われたほどの人だったと言います。家光が三代将軍になれたのも、 お勝の方が春日局を家康に会わせたからだと言われているそうです。 ゲーム中の姿はどう見ても「水戸黄門」の「お銀(ぎん?)」なのですが・・・^^
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.60 ) |
- 日時: 2005/05/29 21:40
- 名前: 微々美々
- 詳細バージョン
お勝の方(法名は英勝院。英勝寺にお墓があります) 元の名をお梶。本名は「お八」です。 「影武者 徳川家康?」の漫画で登場する、あの「お梶の方」でも有名です。 太田道灌の直系と言われていますが、詳細は不明です。 家康が太田家直系の者を迎えたいと思ったときに差し出されたのが、 当時13歳の少女だった「お八」の方で、側室として家康の元へ行く事になりました。 とはいえ、まだ13歳の若さであった彼女は、やがて家臣の松平正綱に下げ渡されてしまいます。 その後、お八が正綱を嫌ったので家康の所へ帰ってきたとも言われていますが、これは怪しい話だとか。 あるとき、正綱が出陣の際に具足を用意できなかったので、お八が家康に無心に行ったおり、美しくなったお八に家康が惚れ直したとも伝わっています。 真相は不明ですが、家康のところへ戻った際、家臣の所から出戻ってきた彼女の体面を考え、お八はこの時以来お梶と改名することになりました。 実は武勇伝もあります。 関ヶ原の戦の際、大名の妻室が人質として大阪城に集められ、彼女も人質にされそうになった時の事です。 なんと単身大坂城を脱出し、馬で家康の陣までやってきた、という武勇伝も伝わっています。 他にもこのような逸話がありますよ^^ お勝と「塩」 家康の側室に、お梶の方という女性がいます。(後にお勝と名を変えています) 家康が本多忠勝らの家臣との話の中、「何が一番美味い食べ物で、何が一番まずい食べ物か」という話題になりました。 この時、その場にいたお梶の方に意見が求められます。彼女は、一番美味いものは塩、一番まずいものも塩と答えます。 理由を尋ねると、料理の味は塩の加減(この当時の調味料は、ほとんど塩のみであった。)によっていくらでも変わるからと答えたとか。 これを聞いた、家臣達は彼女が男なら、さぞ名将だったろうにと嘆いたとか。 ”くのいち”はゲームの中の話としても、「お勝」と「家康」、そして「水戸黄門」・・・。 ・・・自分的に”ウケタ”ネタでした^^ 悪ノリで申し訳ないのですが・・
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.61 ) |
- 日時: 2005/05/29 22:32
- 名前: 豪天
- なるほど。人質の話からの創作だったんですね。自分は清洲同盟がずっと破られなかったところ辺りかと思ってましたが。
お勝は実在の人物ですか。徳川家康全26巻を読み直して見ましょうかね・・・ 答えて下さってありがとうございました。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.62 ) |
- 日時: 2005/06/15 22:51
- 名前: ひさご
- 微々美々様、はじめまして。
史実探検スレッド、知識の膨大さに感嘆しつつ読ませていただきました。
以前、吉乃に関する事項として、「吉乃」の呼称は、信長の愛妾が代々継いだという説がある、と紹介されていましたが、その出典資料、またはどなたがお考えになって述べられた説なのか、ご教示いただけないでしょうか? また、武功夜話の記述から、正室格としての扱いを受けたとされていますが、正室であり、嫡男を産んだ女性が、院殿でない戒名をつけられるというのも、どうも不自然なような気がするのですが・・・^^; 最近では、創作がかなり大幅に入り混じった偽書として武功夜話が槍玉にあげられることもあるようですが、吉乃の吉が信長の幼名・吉法師からとったという説も、やはり武功の記述によるものなのでしょうか?
なお、「織田」の姓を名乗らせているのは吉乃の産んだ信忠と信雄の二人だけ、とありましたが、信雄もまた、元服直後に北畠家へ養子として入嗣させられ、織田姓に戻ったのは後年だったのではないでしょうか?そいういう意味でいえば、神戸姓を名乗った三男、織田信孝も同じ経緯ではないかと思うのですが、どうでしょう。
長々と書き込んでしまって申し訳ありません。織田信長と上杉謙信・景勝が好きで、このスレッドは大変面白く、また勉強にもなりました。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.63 ) |
- 日時: 2005/06/16 22:23
- 名前: 微々美々
- 回答が遅くなりまして大変申し訳ないのですが・・・
「吉乃」に関する疑問?について、自分の見解を含めて回答させて頂きますね^^
>以前、吉乃に関する事項として、「吉乃」の呼称は、信長の愛妾が代々継いだという説がある、と紹介されていましたが、その出典資料、またはどなたがお考えになって述べられた説なのか、ご教示いただけないでしょうか? >吉乃の吉が信長の幼名・吉法師からとったという説も、やはり武功の記述によるものなのでしょうか?
コレに関しては、正確な史料がありませんでした・・・。 彼女の足跡のほとんどは「武功夜話」に頼るしかない、と言うのが現状なのですが^^; その解釈されている話の中に上記のような説がありましたので、引用させていただきました。 出所が不明なものを載せてしまったのは大変申し訳ないのですが・・・。 基本的に自分の場合はフィールドワークをメインに史実探検を行っていますが、その中で伝え聞いたものもありますので・・・
>吉乃の吉が信長の幼名・吉法師からとったという説も、やはり武功の記述によるものなのでしょうか?
コレに関しては、武功夜話を見直して見ましたが、そのような記述はありませんでした。 案外出所は小説かもしれないですね^^ 武功夜話の公開前までは彼女の名前は不明だった訳ですし。 織田信長の愛妾を調べてみましたが、名前らしきものが残っている方は以下の方々だけですね^^; お鍋(小倉右京亮の妻、法名:興雲院) 原田直子(法名:明鏡院智勝尼、庶長子 信正生母) 坂氏女(信孝生母) ですね・・・
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.64 ) |
- 日時: 2005/06/16 22:45
- 名前: 微々美々
- >正室であり、嫡男を産んだ女性が、院殿でない戒名をつけられるというのも、どうも不自然なような気がするのですが・・・^^;
正室以外で院殿の戒名をつけられることについては、他の側室でも居ますが^^; 慈徳院殿(三の丸生母) 原田直子(法名:明鏡院智勝尼、庶長子 信正生母) なので、必ずしも正室=法名が「院」と言うことにはならないのでは? また、正室の件については、武功夜話での記述は、「信長公御内室、初め吉野女後の久昌庵の事」と記されています。 ちなみに帰蝶の記述は「上総介様の御内室は、道三入道の女なり、いとやや子相無きに・・・」 と、かなり「失礼」な書かれ方をされています。 「小牧御殿へ御移りになり御側室に成られ増る」との記述があることから、 身分は側室であっても、待遇は正室格ではあったのではないでしょうか?
>最近では、創作がかなり大幅に入り混じった偽書として武功夜話が槍玉にあげられることもあるようですが
偽書、と言う点で武功夜話が槍玉に上がっているのは自分も知っています。 「偽書 武功夜話の研究」の中では、「武功夜話」で典拠が明記してある「家伝記」「南窓庵記」が現存していないことが理由の1つだそうですが・・・ また、「信長公記」との比較、「東日流外三郡誌」のように旧家の中から独占的な情報源として出土したことを踏まえて検討されたと言う事ですよね^^ 自分も読んだことがあります。納得の行く部分も多かったのですが、 戦国女性史を探検する上で貴重な資料であることも確かだと思っていますが・・・。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.65 ) |
- 日時: 2005/06/16 22:30
- 名前: 微々美々
- >なお、「織田」の姓を名乗らせているのは吉乃の産んだ信忠と信雄の二人だけ、とありましたが、信雄もまた、元服直後に北畠家へ養子として入嗣させられ、織田姓に戻ったのは後年だったのではないでしょうか?そいういう意味でいえば、神戸姓を名乗った三男、織田信孝も同じ経緯ではないかと思うのですが、どうでしょう。
その点は仰る通りかと思います。 強いて違いを挙げるとすると・・・ 「勢州軍記」に「嫡子信忠卿亦妾人腹也、弘治三年丁巳年誕生。是御台之御養子也」とありますので、 この記述から行くと、長男・次男共に妾腹の子のため、帰蝶が養子として引き取ったと解釈してもよいのでは? その意味で「織田姓」はこの両名のみしかいない、といっても良いかと思います。 ただ、信雄、信孝共々本能寺の変の後に織田姓に復姓しているのは確かなんですよね^^; また、信長公記での記述も対になる書かれ方をしていますので、ご指摘の内容はもっともだと思います^^;
最後に、吉乃について探検を行った時に参考にさせていただいた史料は以下のものが主なものです。
「現代語訳 武功夜話 信長編」加来耕三訳 新人物往来社 「現代語訳 武功夜話 秀吉編」加来耕三訳 新人物往来社 江南市のHP、可児市のHP(両方とも生駒家に関連のある話が載っていましたので) 「武功夜話全4巻」新人物往来社 「新訂 信長公記」新人物往来社 「偽書 武功夜話の研究」洋泉社 その他大学図書館などで閲覧できる史料など 小説としては・・・ 「男の一生」遠藤周作 「決戦の時」遠藤周作 「たかが信長されど信長」遠藤周作 ※史実探しのきっかけとなった本です。 自分の方からはこのぐらいでしょうか・・・。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.66 ) |
- 日時: 2005/06/17 01:06
- 名前: ひさご
- 微々美々さま
ご丁寧で詳細な回答、どうもありがとうございました。 やはり吉乃の情報については武功夜話と、それに類した小説等に限られるということになるのですね。
>正室以外で院殿の戒名をつけられることについては、他の側室でも居ますが^^;
ええ、おっしゃる通りで、院殿=正室ではないと思っています。 ただ、側室でもそうした戒名が贈られる女性達がいるのであれば、織田家の嫡男・信忠の生母である生駒氏こそ(正室格で待遇されていたのならばなおのこと)、院殿でないのは何故なのだろう、と疑問に思っていたものですから・・・。わかりにくい記述ですみません。
>ちなみに帰蝶の記述は「上総介様の御内室は、道三入道の女なり、いとやや子相無きに・・・」と、かなり「失礼」な書かれ方をされています。
確かに失礼ですね^^; もちろん生駒家と深く繋がった前野家にとってみれば、 生駒氏に肩入れした表現になるのは仕方がないのかも知れません。文書所有者の方も、遠藤周作氏との対談の中でかなり失礼な言い方をされていたように記憶していますが、やはり関係者はつい身贔屓してしまうのも情として当然なのでしょうね。ただ、公的機関のHPにも史実として載せる以上、原本の公開もなされないというのは、アンフェアなように感じています。 なお、内室の表現については、生駒氏の墓碑(だったかな?)には、信康の正室であった娘の五徳は主室と書かれ、生駒氏本人は単に室と書かれていることから、そのように区別して書かれていることもあるようです。
>基本的に自分の場合はフィールドワークをメインに史実探検を行っていますが、その中で伝え聞いたものもありますので・・・
とても羨ましいです・・・。 なかなか、そうして足で歩いて探っていく時間も取れず、こうしてネット上でいろいろ楽しんだり勉強したりの毎日です。今回は本当にありがとうございました。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.67 ) |
- 日時: 2005/06/17 07:23
- 名前: ながまさ
- いつも、楽しく見させていいただいています。
姉川の戦いですが、史実では信長が浅井、朝倉に一時おされながら辛勝したと本で読んだのですが、このとき危機になる程兵力に差はなかったのでしょうか?後その時の、浅井、朝倉、織田、徳川の石高も教えてください。お忙しい中すいません、よろしくお願いします。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.68 ) |
- 日時: 2005/06/17 14:36
- 名前: 微々美々
- 「姉川の戦い」について回答させて頂きますね^^
石高に関しては手持ちの資料が無いので調べて見ましたが、見つかりませんでした・・・。 なので、「姉川合戦は織田方の辛勝であった」根拠について、 自分の知る限りで回答させて頂きますね^^ 「姉川の戦い」は、実は織田方の呼称です。当時は朝倉方は「三田村合戦」、浅井方では「野村合戦」と言ったとか。
「浅井、朝倉に一時おされながら辛勝した」と言うのは自分も仰る通りかと思います。 また、兵力にも差はほとんどありませんでした。 全体の人数は織田勢は23000人、徳川の5000を合わせて28000人、朝倉が13000人、浅井が5000人の計18000人などと言われていますが、 姉川古戦場跡などの石碑では・・・ 三田村の古戦場にある姉川合戦の碑を例にとると、浅井勢を8000人としていますので、ハッキリした数字は不明ですが、双方とも約2万以上の軍勢で対峙したのは間違いない、と思われます。 合戦自体は午前5時頃開始され、午後2時頃に終わっています。9時間ほどの戦いでした。 負けた朝倉・浅井軍の死者は朝山日乗の手紙や、山科言継日記などでは5000とも9000とも言われているそうです。 しかし・・・ 姉川古戦場の碑では戦死者を朝倉・浅井を1700、織田・徳川を800としているのですが・・・ 「信長公記」でも戦死者千数百とあるので、これを元にした割合で言うと、朝倉・浅井軍は約10%の死者を出したのに対し、織田・徳川軍は約3%の死者となります。 この戦死者の数から、「痛み分け」とも解釈する話もありましたが・・・。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.69 ) |
- 日時: 2005/06/17 14:43
- 名前: 微々美々
- 「辛勝」の根拠としては・・・
・古戦場跡の伝承 合戦について簡単に述べてしまうと 徳川軍の獅子奮迅の働きが、「甲陽軍鑑」に「家康なくては立て直すことならず、姉川合戦、信長の負けなるべし」と評されています。 「信長公記」では、余りこの合戦については触れられていないのですが・・・。 合戦の内容は凄惨なものだったそうです。 三田村には川を真っ赤に染めたという血原・血川橋の地名が残っていますし。 信長が細川藤孝に出した書状では「野も田畠も死骸計に候」と述べていますが、あながち間違いではないのかも知れないですね。
ちょっと意味合いが違いますが、 山科言継の日記にも、信長方の宣伝を鵜呑みにして、 戦死者「浅井九千六百、朝倉五千」と、その数が動員された軍勢以上にのぼる記録まであるくらいですし。
・「朝倉始末記」での扱い 「朝倉始末記」の後半は朝倉氏の滅亡を描いていますが、もしこの戦いが大敗北だったとしたら、間違いなく記録が残っていると思われます。 しかし、「始末記」の扱いは大したものではなく、また始末記の原型は信長時代に成立したため、信長には表現に相当気配りをした記述になっていますが、この戦いでの信長勝利を記していないのも確かです。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.70 ) |
- 日時: 2005/06/17 14:49
- 名前: 微々美々
- ・合戦前半からの推測
このとき信長の本陣の周りにあった兵力は、信長旗本集と美濃3人衆に徳川軍を加えた一万と少しだけで、残りの一万以上の兵力は、配下の柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、木下秀吉らに与えたままで、横山城を囲んでいる状態でした。 「信長公記」の記述では、浅井、朝倉軍が山を引き払い始めた行動を、なぜか退却の準備だと誤認してしまったと記しています。 ・・・気付いた時には時既に遅し。浅井朝倉軍は信長の本陣と姉川を挟んだ対岸に布陣し終えてしまった訳ですし。 浅井軍が織田軍の陣立てを散々に突き破ったと言うのも、織田本陣の兵士が実際に少なかったからではないでしょうか? この辺りがどうも「辛勝」の根拠のような気がするのですが。 あとは「姉川合戦図屏風」の画風を見ても、やはりそのように見受けられますし。
・合戦後の追撃模様 「信長公記」では・・・ 織田勢は退却する浅井勢を追撃、小谷までの五十町を駆け抜け、小谷では山麓へ火を放ちます。しかし小谷城そのものは切り立った高山の上に立つ難攻の城であったため、信長公は城攻めまでは無理と見て追撃をそこで打ち切り、横山城を攻囲し、奪取しました。 とあるので、恐らく攻城戦までの余力は無かったかと思います。
※辛勝の根拠としてよく言われている 「十三段の陣を構える信長に対し、浅井軍は猛烈な突撃を敢行、十三段のうち十一段までが切り崩される乱戦となり、緒戦は浅井軍優勢に始まりました。 しかし、信長援軍の徳川軍別働隊による浅井軍援軍の朝倉軍に対する横撃や、氏家卜全、安藤守就などの横山城の抑えの軍の参戦により形勢逆転、浅井・朝倉軍は総崩れとなり小谷城へ退却した」 と言うのはちょっと違うかな・・・と自分は思っています。 単純に緒戦の采配ミス?が原因ではなかったかと思うのですが・・・
大体このぐらいですね・・・。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.71 ) |
- 日時: 2005/06/17 18:55
- 名前: ながまさ
- 采配ミスが辛勝の原因なんですね。勝てるまで準備してから攻める信長としては、珍しい戦だと思っていたんで不思議に思っていました。ありがとうございました。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編) ( No.72 ) |
- 日時: 2005/07/14 18:16
- 名前: 微々美々
- 最後のご質問から大体1ヶ月経過しましたので、
こちらのスレは一応”終了”とさせてください。
たくさんのご質問を頂き、ありがとうございました。
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