Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.48 ) |
- 日時: 2005/05/23 22:11
- 名前: 鉄砲五段
- 御久し振りです。
質問:決戦の兵種には様々な流派が登場していますが、知らないものも多いです・・・ そこで質問なのですが、「種田流」、「戸田流」、「小笠原流」について教えて下さい。 それぞれ槍騎馬、薙刀騎馬、弓の最強クラス兵種です。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.49 ) |
- 日時: 2005/05/24 01:37
- 名前: 微々美々
- 回答が遅くなりました・・・
首級を挙げる意味について回答させて頂きますね。
「しゅきゅう・みしるし」とも言いますね・・・ 学説では・・・ 首には生命の霊魂が宿っており、他集団の首を取ることは自己の集団に、「より多くの霊をもたらし作物などの実りをより多く招く」と信じられているそうです。
首級(しゅきゅう)の起源 秦の国では、敵の首を一つ討ち取れば位一級を進めるきまりがあり、二十級の爵位を設けていたそうです。 なので、首一つを一級といっていたと伝わっています。 商君の代のことです。漢の武帝も、これと同じやり方をしており、こちらは十一級に分けられていたそうです。 ちなみに日本では・・・ BC100頃の福岡県筑紫野市の隅・西小田遺跡からも甕棺の首無し人骨が出土しています。 頭骨だけをいれた甕棺も出土しています。 吉野ケ里の首無し人骨も同時期で、この頃では首の取り合いをしていたのはまず確実と思われますが・・・。
みしるしとの違い 首級を「みしるし」と言う場合もありますが、 普通の武者には「見知る」という表現が使われましたことから転じているかもしれないですね。 首から上には”顔”があり、それを持って人を”見知る”訳ですから^^;
何故首が大事なのか? 平家物語にはこう記されています。 「敵の首を取るといふは、われも名のつて聞かせ、敵にも名のらせて、首取つたればこそ大切なれ」 「名」を大事にする武士ならではの考えがあったと思われます。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.50 ) |
- 日時: 2005/05/24 01:40
- 名前: 微々美々
- 回答が遅くなりました・・・
「種田流」、「戸田流」、「小笠原流」について回答させて頂きますね。 「種田流」 江戸時代前期に相模甘縄藩士種田平馬正幸が、大島流槍術を元に開いた素槍の流派です。 幕末には素槍の使い易さが認められ、宝蔵院流に次ぐ隆盛を得た流派でもありました。 2間(約3.6m)〜2間1尺(約4m)の長い素槍を使っていました。種田流の槍は、穂先の身が短く、太刀打が長いそうです。 その為多くの銅が穂先近くに用い、また石突の根元にも鉛を入れ、その上を浅く巻いて漆で塗り固めた厳重な構造になっています。 また重量も普通の素槍よりも重いですが、重心が低いために使い易くなっているとか。 種田流は、他流試合を重んじていたそうです。には素槍の使い易さが認められ、宝蔵院流に次ぐ隆盛を得ました。 特徴は、戦場での働きを重視する他の流派と異なり、試合を重んじ、究極的には1対1の対決を重視している事が上げられます。 ちなみに新撰組十番隊隊長原田左之助が種田宝蔵院流と名乗った説があるそうですが、 実は、”種田宝蔵院流”という流派はどこにも存在しません^^; (本当です。原田左之助自身の宣伝工作と言われています) コラー^^;
「戸田流」 戸田清眼(富田勢源)が開祖です。 富田勢源=小太刀または佐々木小次郎の師でご存知の方も多いかと思いますが・・・。 清眼は晩年眼を患い家督を弟にゆずり、越前一乗谷に引きこもり仏門に入ったため、宗家に遠慮して富田(とだ)の文字を戸田に変えたといわれています。 流派のながれは、関東に移り二代目の北条氏邦と夫人の大福御前に伝えられました。 その後薙刀術は当時の武士の表技でないとされ、家臣の強矢家によりひそかに伝えられることに。 十三代強矢良輔武行は甲源一刀流も良く使い、晩年武甲斎と名乗りその頃から薙刀術を戸田派武甲流と名づけたそうです。 ちなみに、「義経」ネタも^^ 薙刀の型に「巴」型、「静」型とありますが、これらは「巴御前」「静御前」をその名の由来としている事はあまり知られていません^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.51 ) |
- 日時: 2005/05/24 01:42
- 名前: 微々美々
- 「小笠原流」
「流鏑馬」の行事は皆様よくご存知かと思いますが・・・ 実はこの流派がご質問の「小笠原流」です^^ 小笠原流弓術といえば、「歩射」のことを指し、「流鏑馬」は「騎射」の術に入るそうです。 開祖は小笠原長清です。長清は源頼朝が鎌倉に幕府を開くと父加賀美二郎遠光に従い頼朝の糾方師範となりました。 長清は父とともに流鏑馬、奉射また、鶴岡八幡参拝の次第等、故実を基に新しい武家儀式を制定したそうです。
後醍醐天皇(1288〜1339)のとき源家に伝承された糾法は小笠原貞宗、常興によって集大成され弓馬術礼法の規準が確立されました。 射術としても室町時代には日置流の祖、日置弾正正次が実戦の射として武士の間に普及、この射法は吉田重賢に引き継がれ、出雲派、雪荷派が分派し、雪荷より道雪が分派しました。 出雲派より印西派、大蔵派等が分派し、弓術の俊才がこの日置の教えより分派していきました。 傍系として竹林坊如成が竹林派を成立し、後に尾張、紀州に定着し盛んに行われるようになったそうです。 何流派かは「決戦3」にも登場しているかと思いますよ^^
歴史もあるので、少し語ります^^; 小笠原家は、人皇第56第清和天皇(在位858年〜876年)を始祖とする清和源氏です。 清和天皇は弓射の術に長けており、貞観2年(860年)正月に射礼を行われたそうです。 これが今日でも正月に行われている「大的式」の起源となっています。 清和天皇の第6皇子である貞純親王は、武門を相続して武家の方式を制定し、「射礼、射法、 射行、射儀、射術」の5冊の本を編集し、「日本弓矢将軍」と云う名前の天皇の宣旨と白い旗を 戴きました。源氏のシンボルである白旗はここからきているそうですよ。
ちなみに弓術は本来「糾法」と言われていたようです。 当家神伝弓法紀録抄」に九重の讃談として、「窮法」「糺法」「供法」「救法」「翕法」「鞏法」「九法」「きゅう(身偏に弓と書く)法」「きゅう(ウ冠にハ弓と書く)法」の九つをあげ、惣名弓法として、法を広めることが目的でした。 当然ながら、現在小笠原家に伝承されている弓馬礼法の真義はすべてこの中に含まれています。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.52 ) |
- 日時: 2005/05/25 22:38
- 名前: ブー
- ありがとうございました。それと、勝家が、信長に「うつけをよそおう真のうつけめ、うぬが尾張を滅ぼすまえに、わしが、うぬを止めねばならぬ。」とっ言っていましたが、信長が、真のうつけだったら、尾張「織田家」は滅んでいたんですか。それと、信長はどうして、勝家を殺さずに仲間をしたんですか。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.53 ) |
- 日時: 2005/05/25 22:39
- 名前: ブー
- 間違えました。仲間をじゃなくて、仲間にでした
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.54 ) |
- 日時: 2005/05/26 02:23
- 名前: 微々美々
- ・・・非常に答えにくいご質問ですね^^;
信長が勝家を殺さなかったのは? 通説では勝家君は、「猪武者」と言うイメージが強いようですが・・・間違いです^^ 当時、勝幡(春日井)の城主・織田信定の子に信秀(信長の父)という人物がいました。 剛勇で知略に富み、今川に勢対抗するために古渡城にいましたが、勝家が幼き頃より「知勇に勝れている」のを見込んで、古渡城に招き、文武の道を教えたのが縁となって、勝家は織田家に属するようになったといわれています。
恐らく、信長としては・・・ 勝家という人間を「見極めようとした」のではないでしょうか? また、勝家自身、稲生の戦いにおいて、信長の真の実力を思い知ったからこそ、 側近として仕えたいと思ったのでは?(もともと織田家の武将だった訳ですし)
織田信長が本当の「うつけ」だったら? ・・・どうでしょうか? 滅ぶかもしれないですし、あるいは尾張の一武将で終わったかもしれないですね。 あるいは斎藤家、今川家の家臣、と言うこともあるかもしれないですが^^; もちろん、その逆も十分考えられると思います。 「歴史」の”もしも”はあらゆる可能性が考えられるので、コレばかりは 回答のしようが無いのですが・・・申し訳ありません^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.55 ) |
- 日時: 2005/05/27 21:57
- 名前: ブー
- ありがとうございます
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.56 ) |
- 日時: 2005/05/28 08:04
- 名前: ブー
- 信長が、味噌汁をくっていて、長秀が「いいんですか、遊んでばっかで」と言って、信長が「誰が敵で、誰が味方がわかって」と言っていましたが、これで、敵か味方の区別がつくんですか。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.57 ) |
- 日時: 2005/05/28 15:49
- 名前: 微々美々
- ・・・これまた、なかなか「面白い」趣向のご質問ですね^^;
多分、付かないでしょう(苦笑) ・・・本当に遊んでばかりだったとするのであれば、ですが。 ちなみに決戦3での、このシーンに該当する年号は1549〜1553と考えていただいて良い、と思います。 と、なると・・・ 信長が「大うつけ」と言われていたころの話になるので、格好よく言えば、「鍛錬」と「情報収集」を行っていた準備期間中と言えるのではないでしょうか。 このころの信長君は、馬に乗って今日は東、明日は西。尾張の国中を駆け回っていたそうです。この遠出で地理、地形、人物の心理、物価、通行量、その他の他の武将達が知らないことまで知っていたといわれています。
その成果もあり・・・かの信玄公にもほめられている事はあまり知られていません^^ 「信長公記」に記述のある話です。 尾張に天沢という天台宗の高僧がいました。この僧が所用で関東へ下る途中、甲斐で土地の奉行にすすめられて武田信玄に会うことになった時の話です。
対面の場で、信玄はまず生国をたずねます。尾張にございます、と答えると、さらに郡の名を聞いてきます。これに対しては、「上総介殿御居城の清洲から五十町ほど東に下った味鏡と申す村の寺に居ります」と詳細に答えました。すると信玄公は、信長の人となりを全て残さず語るように求めました。天沢は信長について自分の知るかぎりを答えます。毎朝御馬に乗っておられます。鉄砲・弓・刀はそれぞれ師匠について習っておいでです。しばしば鷹狩に出られます… 「風流は嗜むか」 「舞と小唄を好まれます」 「幸若大夫を呼んでいるのか」 「清洲の町衆に友閑と申す者がおります。この者がその道に詳しく、よくお召しになっております。上総介様御自らは、敦盛の一番のほかは舞いませぬ。人間五十年下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、といつも口にされて舞われます」 「小唄もうたうか。異なものを好むことよ。いかなる歌ぞ」 「死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの、と唄われます」 「その真似をしてみよ」 「沙門の身、御勘弁くだされ」 「御坊、ぜひ」 仕方なく、天沢は真似をしてみせたそうです。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.58 ) |
- 日時: 2005/05/28 15:56
- 名前: 微々美々
- 続きです^^
「鷹狩はどのようにしている」 「鳥見の衆と申して二人を一組とし、獲物を見つけると一方が見張りをし、一方が注進に及びます。また六人衆というものを定め、これに弓と槍を持たせてお手廻りとして使います。そして騎馬の者があぶをゆわえた藁を手に獲物のまわりを回って注意を引き付け、その隙に上総介殿が近づき、鷹を放ちます。獲物の落ちる方向にはあらかじめ向待の者を農夫に変装させて配置しており、この者が最後に獲物をおさえます。上総介殿は名人ゆえ多くの獲物を手にされると聞き及んでおり申す」 信玄公はこれらの話を聞き、「信長の戦ぶりのよきこと、道理である」と言い、感心し、また非常に納得のいく素振りを見せた、と記されています。 このぐらいですね・・・。
「決戦3究極探求ガイド」も発売された事ですし、決戦3のストーリーの詳細設定はそちらで確認するのもよいかも知れないですね^^;
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.59 ) |
- 日時: 2005/05/28 18:20
- 名前: ブー
- ありがとうございます
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.60 ) |
- 日時: 2005/06/03 13:16
- 名前: ブー
- 光秀は、織田の白鷹と、言われていたんですか
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.61 ) |
- 日時: 2005/06/03 22:47
- 名前: 微々美々
- 「光秀は、織田の白鷹」と言われていたか?について回答させて頂きますね^^
史料的な裏付けは、残念ながらありませんでした。 しかし・・・元ネタ?と推測できる史跡があります。
明智城(”白鷹”城) 所在 恵那市明智町城山 武功夜話によると、宝治元(1247)年、源頼朝の重臣、加藤次景廉の孫である明知遠山氏の始祖、景重の築城による遠山氏累代の居城であったといいます。要害の築城ではなく、その山麓の砦であったとされています。 明智遠山氏は代々鎌倉幕府に仕えた一族であったとも。11代景行は織田信長に仕えたが、元亀3(1572)年、武田信玄が南信濃より恵那郡を攻めた時、景行は一族を率いてこれを防ぎ、上村(上矢作町)において討ち死にしました。この時明智城も武田氏の支配下に置かれてしまいます。その後信長は長篠戦で武田勝頼を破り、東信濃から武田勢を一掃すべく、恵那郡に軍を進め、岩村城はじめ攻め落とし、明智城も取り返したといいます。 また明知町には、千畳敷公園、龍護寺、八王子神社、光秀の母お牧の方の墓など明智光秀にまつわる伝説や史跡が遺されているが、光秀の出生を実証するものは無いとされています。(残念です) むしろ、江戸時代の名奉行「遠山の金さん」こと遠山金四郎のお城といった方が有名なのではないでしょうか?ちなみに「遠山の金さん」は明智遠山家の末裔です。 なので、決戦3で光秀が「織田の白鷹」と称されていますが、お城の名前も元ネタの1つかと。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.62 ) |
- 日時: 2005/06/04 06:33
- 名前: ブー
- ありがとうございます
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.63 ) |
- 日時: 2005/06/08 16:29
- 名前: ブー
- 武将特技で、単騎でかけるのがあるじゃないですか、あんなふに戦国武将も単騎でかけたんですか。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.64 ) |
- 日時: 2005/06/08 19:03
- 名前: 微々美々
- 単騎駆け=一騎打ちとして回答させて頂きますね^^
(単騎駆けであれば、むしろ三国志演義の話になってしまうので、史実と解釈するには難しいところもありますので・・・)
「合戦は一騎討ちが主流」と言う説もあるわけですし、戦国時代にもあったとは推測できますが・・・ しかし、史料としては「甲陽軍鑑」の信玄公VS謙信公ぐらいしかないのも事実ですね(苦笑) 自分としては、集団戦闘の中での”偶然の産物”と考えていますが。 あとは武将ごとの逸話にその名残があるくらいでしょうか・・・ (蒲生氏郷君の逸話はカッコ良かったですよ^^)
ちょうど大河ドラマ「義経」も佳境に入ってきたことですし、 少し単騎駆けのルーツを載せておきますね
「今昔物語集巻二十五 源充と平良文と合戦せる語 第三」が出所だとされています。 源充と平良文は、二人の間でお互いを悪く告げ口する者があって、合戦におよぶことになります。二人は口で争っていても仕方がない、と言って一騎討ちをすることになり、互いに騎馬で弓を射合うのですが、勝負がつかず、引き分けになります。お互いの力量を認め合った二人は、その後仲良くなったという話です。 この話は数多くの歴史書籍に引用されています。そのために、武士の戦いは一騎討ち、と言われ、すべての武士は正々堂々と戦ったと思われるようになったのではないかと言われています。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.65 ) |
- 日時: 2005/06/08 19:04
- 名前: 微々美々
- しかし、文中に「各五六百人許の軍有り。一町計を隔て、楯を突き渡したり」とあって、楯突戦(たてつくいくさ)であり、楯を並べて弓を射合う弓射戦で、その中で一騎討ちがおこなわれたことになっているのですが・・・。
当時の合戦は馬上で弓を射る武者と、それを補佐する薙刀や弓を持った徒歩の従者たちを最小単位とした戦力構成でした。楯突戦と騎射戦という弓射戦が主流であり、一騎討ちは成り行きでおこなわれたと見る考え方の方が有力なようです。
本当の所は昔も今も・・・ 「我れ弓箭の道に足れり。今の世には討勝を以て君とす。何を憚らむや」と、平将門が豪語しているように、 「力で打ち勝つ者が君主なのだ。何をはばかることがあるか」というのが本当だと思います。
余談も^^ この話が出ると、「義経の戦い方は卑怯だ」と言う批判が良く上がりますが、史実では・・・ 「平家物語」「源平盛衰記」などの軍記物語、「愚管抄」、鎌倉幕府編纂「吾妻鏡」には義経の戦いが汚いと非難した形跡がありません。 当時の人たちには、義経の戦い方が卑怯だという意識は無かったようですよ^^; このぐらいでしょうか・・・
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.66 ) |
- 日時: 2005/06/10 06:43
- 名前: ブー
- ありがとうございます
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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(歴史全般編) ( No.67 ) |
- 日時: 2005/07/10 11:40
- 名前: 微々美々
- 最後のご質問からちょうど丸1ヶ月経過しましたので、こちらのスレは一応”終了”とさせて下さい。
たくさんのご質問を頂き、本当にありがとうございました^^
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