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決戦3「史実」探検スレッドぱーと3
日時: 2005/04/20 02:51
名前: 微々美々

前回のスレッドにも多くの方にご質問を頂きましたので、
第3弾のスレッドを立てて見ました。
(興味のない方には重ね重ね申し訳ないスレなのですが・・・)
決戦3に登場する時代背景・武将・合戦etcについて
「あの合戦って歴史上はどんな戦いだった?」とか「好きな武将の史実を知りたい^^」とか
「装備品の由来は?」などについて、
是非皆様で情報交換できたらと思っています。

前回同様、決戦3に登場する”歴史”に関するものであれば、自分の知っているもの、
調べて何とかなるものであれば、可能な限りお答えしてみたいと考えています。
もちろん、知らないことの方が多いのは”当然”なので、そこはこのスレッドの趣旨に興味を持たれた方がいましたら、是非、ご協力頂きたいのですが・・・

これから決戦3を始める方々や、決戦3から「歴史」に興味を持った方、やりこんでいる方々にも楽しんで頂けたら幸いです^^

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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.81 )
日時: 2005/05/03 09:30
名前: ブー

すにません、同じ質問おしってしまって。    あと同じ質問にこたえてくれてありが当ございます
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.82 )
日時: 2005/05/04 07:38
名前: 微々美々

閑話休題ということで・・・(前編)
決戦3に登場する武将・合戦・イベントに関する
史実に沿った”オモシロ逸話”を載せておきますね^^

お勝と「塩」
家康の側室に、お梶の方という女性がいます。(後にお勝と名を変えています)
家康が本多忠勝らの家臣との話の中、「何が一番美味い食べ物で、何が一番まずい食べ物か」という話題になりました。
この時、その場にいたお梶の方に意見が求められます。彼女は、一番美味いものは塩、一番まずいものも塩と答えます。
理由を尋ねると、料理の味は塩の加減(この当時の調味料は、ほとんど塩のみであった。)によっていくらでも変わるからと答えたとか。
これを聞いた、家臣達は彼女が男なら、さぞ名将だったろうにと嘆いたとか。
ゲームでの「くのいち」での登場は勿体無いですね・・・。

光秀はバチ当たり?
若き日の光秀が、ある川岸で大黒様の像を見つけた時の事です。
これは縁起がいいと、大切に持ち帰り、知人に大黒像を見せたところ、「大黒様は千人の上に立つめでたい神だから、大切にしたほうがいい」と言われました。これを聞き、光秀は「千人の上にしか立てない様では、武士が大切にする程のものでは無い」と言い、大黒像を捨ててしまいます。
後に万の軍勢を率いた、光秀ならではの逸話なのですが・・・

信玄公は迷信嫌い?
信玄が信濃へ出陣したときのことです。
武田軍の陣中にハトが一羽舞い込んできました。
ハトは合戦で勝利をもたらす、縁起のいい鳥とされていたので、兵士達は「此度の合戦の勝利間違いなし」と大騒ぎをします。
これを見て信玄公は、「今後の合戦のたびに、ハトが来ないから今回の合戦は危ないかもしれない。などと思い込むようになってはいかん。」
と、家臣に命じてハトを鉄砲で撃ち殺させたそうです。さすがですね・・・
でも、実は・・・(後に続きます)
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.83 )
日時: 2005/05/04 07:47
名前: 微々美々

”オモシロ逸話”(中篇1)です^^

信玄公の最大のライバルは「芋虫」?
少年時代の信玄公は芋虫が大の苦手だったそうです。
この事を知った馬場信房は、芋虫を捕まえてきて信玄の目の前に突き出し、笑ったそうです。
ところが、信玄公は苦手なその芋虫を触るだけでなく、なんと握り潰してしまったとか。
よほど負けず嫌いだったのではないでしょうか?
しかし・・・
信玄公、芋虫をつぶす感触のあまりの気持ち悪さに、パニック状態に。←「ぎぃやぁぁぁぁ!!!」となったのでは?
このとき信玄公の指は、恐怖の余り指先まで真っ青になってしまったそうです。
「主、いずれか有能なる?」
「芋虫!」
ですかね^^;

利家の息子は信玄公が嫌い?な「傾奇者」??
「利常公夜話」に記述のある話です。
談臣「豊臣太閤は英雄として見た場合、いかがか?」
利常「太閤の器量は天性のものというべきで、他に比類がない」
談臣「では、織田信長はいかがか?」
利常「勇気があり、戦に強いことにかけては他を圧倒しておる」
談臣「上杉謙信は?」
利常「謙信は常人の及びもつかない」
しかし、信玄公については・・・
「信玄は心が小さくて浅慮で、見識は卑しくて料簡が狭い。取り立てて言うべきほどのこともない」
と言ったそうです・・・。
そんな彼の異名は”鼻毛殿”です^^;
※加賀百万石の安泰の為、幕府に気をつかい、鼻毛を伸ばして登城し、凡庸を装った逸話があります。
やはり血は争えない、ということでしょうか・・・。

福島正則を退散させた人
「猛将」という言葉がよく似合う福島正則ですが、彼に後ろをみて逃走までさせる者がいました。
その人物とは、正則の妻です。
正則が他の女と仲睦まじくしているのを見た正則の妻は、正則が帰宅するや、いきなり長刀をもって斬りつけました。
しかし、さすがに七本槍の一、見事に避けると後ろも見ず逃げ出したとか。
後に「自分は、初めて敵に後ろを向けた。しかし、女の嫉妬は本当に恐い。」と言ったそうです。
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.84 )
日時: 2005/05/04 11:07
名前: 微々美々

”オモシロ逸話”(中篇2(その1))です^^

秀吉の横恋慕?
決戦3でも「お市」に横恋慕?している秀吉君ですが、実は・・・
気に入った女性が”武将の妻”だった場合、夫を戦場等に派遣し、留守中に彼女を召して”モノにする”という悪癖があったそうです。
こんな方々にも手を出そうとしていました・・・トホホ^^;

信長の娘・冬姫(蒲生氏郷と信長が好相性な理由です)
秀吉はお市の方の姪の冬姫に目を付けました。希にみる美人で、蒲生氏郷に嫁ぐが未亡人となってしまいます。
その後、秀吉は何度も側室に上がるよう誘いをかけますが、冬姫は固辞して尼になってしまいました。
秀吉は「家中不和」を理由に蒲生家を格下げし、意趣返しをしたとか。

千利休の娘・お吟
天正19年(1591)利休は秀吉の命で切腹しますが、その理由は利休が娘のお吟を秀吉に差し出すのを拒んだという説があるそうです。ちなみに彼女は堺の商家に嫁いでいた人妻でした・・・。

伊達政宗正室・愛姫
伊達政宗が服属した時に、人質として彼の正室で、美人の誉れ高かった愛姫(めごひめ)を出せと言われたそうです。政宗の家臣たちが、「絶対、手を付けられる。」と大反対し、未遂に終わりました。

立花宗茂正室・ぎん千代
肥前名護屋城に呼ばれたとき、ァ千代姫は、好色の噂がある秀吉を用心して、たすき鉢巻き姿に大薙刀を小脇に抱え、仕える老女・侍女に数人にも同じ姿をさせて、秀吉の御前に颯爽と参上しました。流石に秀吉も仰天したらしく、「流石は立花の妻女である。武家の妻とあれば、平時において、かくも立派心がけである。」と云って大いに褒め称えたそうです。
しかし・・・
秀吉とねねとは、”尾張弁丸出し”で言い合ったし、北政所が従一位という女性としての最高位を得た後も、御所言葉とは無縁であったという、秀吉とねねらしい逸話も残っています。しかも、「ねね様の次には淀君を愛している」と言っていたそうですよ・・・。
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.85 )
日時: 2005/05/04 08:06
名前: 微々美々

”オモシロ逸話”(中篇2(その2))です^^

中篇2(その1)で載せた逸話には、こんな”オチ”がついています。
秀吉があまりに美女を好むので、近習が面白がり、美少年を秀吉の小姓にとりたて、秀吉と二人きりにしました。
やがて、秀吉と何事か言葉を交わしていたその美少年が退出してきます。近習たちは「何を申されたのか?」と美少年に聞くと、
返事は・・・。
「私に”姉か妹”がおらぬかと仰せになりました。」
お後がよろしいようで・・・(笑)

中国大返しの異説?
決戦3でのムービーにも(10章最後だったでしょうか?)あるイベントですが、
詳細は調べているところですが、1582年(天正10年)本能寺の変により、信長は自害し、秀吉は信長の仇を討つため毛利と和睦し中国路を驚くべき速さで返した。
これを、中国大返しと言いますが、実は、これに「秀吉は船を使った」という説があるそうです。
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.86 )
日時: 2005/05/04 08:09
名前: 微々美々

”オモシロ逸話”(後編)です^^

長篠合戦での台詞の元ネタ?
決戦3で「敵を過大に見れば、敵が強く見える」と信長は家康に言いますが、実は・・・この話が元ネタです。
ある時、家康はたくさんのハマグリを広間に並べ、家臣達を呼んで質問しました。
「ここにある貝殻はいくつ有るか、当ててみなさい」
家臣は思うままに、500個とか、1000個以上はあるとか答えますが、実際にはハマグリは300個しかありませんでした。
そして家康は、「300個のハマグリを見て、500個だの1000個以上だのというようでは、合戦での敵の数はどれほど多く見えることか」と言ったそうです。
「敵を過大に見れば、敵が強く見える」ということを教えたかった逸話だそうですよ。

鹿は狼より強し?
決戦3でも槍適性10と強力な武将である山中鹿之介ですが、槍適性の高い理由はこんなところにあるかもしれません^^
1562年、毛利軍6万の大軍に囲まれた月山冨田城で、山中鹿之介が毛利軍を散々苦しめていた時の事です。
毛利側の槍の名手「品川大膳」は、いつか鹿之介を討ち取り武名を上げようと、その期会を狙っていました。
品川大膳は鹿之介に一騎討ちを申し入れるのですが、この際に品川大膳は、「我こそは、品川”狼”之介勝盛なり〜」と名乗りをあげたそうです。
「鹿」に勝つのは「狼」だと考えての事だそうですが、奮戦空しく品川大膳は討ち取られてしまいます。
大騒ぎの味方に対し鹿之介は、「敵兵を一人倒したに過ぎない」とそっけなく答えたそうです。
カッコイイですね・・・。

「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.87 )
日時: 2005/05/04 14:41
名前: ブー

織田信長と徳川家康、戦ったら、どちらが強いですか。「どちらも、兵30000万で。」
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.88 )
日時: 2005/05/04 22:42
名前: 微々美々

「織田信長と徳川家康、戦ったら、どちらが強いですか」について、回答させて頂きますね・・・。
かなり難しい「ご質問」ではありますが^^;

兵力の多寡に関わらず、自分としては「引き分け」かな・・・と思います。
単純な戦闘による比較であれば、二人とも拮抗した実力ではないかと思いますので・・・
これが謙信公であれば、戦術のみで己の政治能力の欠如をカバーしてあまりあるほどの戦果を治めてきた人物なので、比較がしやすいのですが・・・
謙信公の他には真田幸村、島津義弘、立花道雪、雑賀孫市も挙げられると思います。

史実的な側面から両者を検討してみました・・・。
織田信長の戦術
特筆すべきは「特徴がない」ことに尽きます。
桶狭間の戦闘は成功させるのが非常に困難である上に、歴史的に見ても成功例の少ない戦法ですし、
美濃攻めの時はゲリラ戦を、京都入城や姉川では圧倒的な大軍を揃え、一向宗との戦いで四面楚歌に陥ったときには軍団制を導入、それを使い回すことで事態を収拾、長篠では鉄砲の集中運用を行い、伊賀忍者を根絶やしにしながらも、情報戦を重視し諜報活動の充実に努め、毛利相手には経済戦を挑むなど、ほとんど「何でもアリ」だったからですが・・・。
戦略面は基本に忠実だったと思います。
信長の史料を色々とひっくり返して見ましたが、
実際の戦闘に至るまでの過程、例えば敵に対する切り崩し、内部工作、周辺勢力に対しての外交交渉、またその軍事行動を円滑に行なうための軍事力の向上、そしてそれらに基づいた作戦計画の作成と実行、これらをほぼ完璧に行なったうえで信長は常に行動していたのではと考えています。

結論として、勝てる環境を整えた上で自由自在な戦術を駆使したことが、信長の勝利した合戦を有名にしたのではないのでしょうか。
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.89 )
日時: 2005/05/04 22:49
名前: 微々美々

徳川家康の戦術
基本は太原雪斎に学んでいますが、完成形は信玄公のものです。
三方ヶ原で家康が得たものは非常に大きかったと考えています。彼は、自分を敗った敵の能力を認め、「甲陽軍鑑」にあるように、武田家の兵法、武田家の騎馬隊、甲州法度などの政治方針などを研究し、積極的に自分の国・軍隊に取り入れています。

そんな家康流戦略・戦術を幾つか「孫子」と照合しながら。
「諸侯を屈するには害を以てし、諸侯を役するには業を以てし、諸侯を趨らすには利を以てす」
※諸侯を屈服させるには害を与えるといって脅迫し、諸侯をよく働かせるには充実感や名誉を感じさせ、諸侯を誘うには利益をかざせば良い。
分かりやすい例としては、
・前田利長(利家の後継者)に対して濡れ衣を着せ、服従しなければ攻め込むと脅迫した事。
・関ヶ原でなかなか寝返らない小早川秀秋に目掛けて鉄砲を撃った事。
・大阪の陣では淀殿に大砲を目の前まで撃ち込ませた事。
ですね・・・。

「勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む」
※名将はあらかじめ勝てる態勢を整えてから戦いを始め、凡将は戦いを始めてしまってから勝とうとする。

良い例は関ヶ原の戦いですね。「鳴くまで待とう」と表現される家康ですが、織田信長・秀吉に仕えている時でも、「何もせず待つだけ」ではなく、勝てる態勢を整えていたと考えています。実際に秀吉、利家の死後、コレを好機と見るや、各武将への根回しを徹底、不敗の態勢を(可能な限り)作りだし、関ヶ原で石田三成ら西軍相手に見事勝利を収めました訳ですし・・・。
このぐらいでしょうか・・・
余り回答になっておらず、大変申し訳ないのですが・・・
「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.90 )
日時: 2005/05/05 09:00
名前: ブー

ありがとうございました
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.91 )
日時: 2005/05/05 09:27
名前: ブー

織田信長と毛利輝元と北条氏康の四天王はだれですか。                     
それと、信長が長秀のことお芋侍と、なずけたときに、信長が、「北条めかかったな」と言いました、信長は、北条に何おしたんですか。教えてください
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.92 )
日時: 2005/05/05 15:32
名前: 微々美々

「織田信長・毛利輝元・北条氏康の四天王」は?
と2章のムービー中の台詞「北条めかかったな」の意味は?について回答させて頂きますね・・・。

織田四天王:柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀
です。
毛利輝元の場合は、毛利家にある「毛利四宿老」が該当するかと。
毛利四宿老:吉川元春・小早川隆景・口羽通良・福原貞俊
※毛利輝元自身、自分の能力をよく把握しており、「両川」の叔父である、吉「川」元春・小早「川」隆景の言う事を良く聞き、
事に当たったそうです。
決戦3での敗北の台詞も納得です^^
「こりゃ〜帰ったら叔父貴たちに怒られるだろうな・・・」
広島弁の台詞がとても”ステキ”なのですが・・・
ちなみに彼が装備している鎧が源氏八領の鎧の一
沢瀉(おもだか)の具足です。

北条氏康の場合は「四天王」ではなく、「三家老」でした。
氏康三家老:大道寺政繁・遠山綱景・松田憲秀

ちなみに・・・決戦3に登場する大名、織田信長・今川義元・武田信玄・上杉謙信・北条氏康・豊臣秀吉(木下藤吉郎/羽柴秀吉)は、「七雄」(残りの1人は毛利元就)と呼ばれています。
※戦国最強の英雄七人を指し、いずれも天下人たる器量を備えていたと言う事だとか。

「北条めかかったな」の史実
天文23年(1554)、駿・遠・三の太守で「東海一の弓取り」と呼ばれた今川義元を牽制するべく”北条氏康と提携”して、駿河東部を攻撃させたことが該当すると思われます。
決戦3にはありませんがこの3年後・・・
弘治3年(1557)11月、家督争いを展開していた弟・信行を清洲城にて謀殺。(_ _)/'チーン
信長の”尾張統一”が始まる訳です・・・

後のイベントで、道三が光秀に「北条答礼の折り、うつけに救われておろうが」と言っていますが、ゲームで言えば2章「尾張統一」の部分で行われている合戦と、史実を突き合わせてみましたが、この間(1547〜1557年までと、一応桶狭間も含めて1560年まで)北条家が尾張・美濃に対し”何か”を仕掛けたという記述はありませんでした。
1557年の長良川の合戦のアレンジかと思われるので、こっちの方はゲームの演出かな・・・と思います。
若き日の光秀君が”いじらしくて”好きなんですが^^;
「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.93 )
日時: 2005/05/05 17:43
名前: ブー

ありがとうございます
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.94 )
日時: 2005/05/05 17:56
名前: ブー

姉川の決戦が終わって、義明が将棋おやっているムービで、義明が、斉藤龍興に「あの者にもよろしのぉ」と言って、いましたが、あの者とは、誰ですか。教えてください。
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.95 )
日時: 2005/05/05 18:44
名前: 微々美々

「あの者にもよろしくのぉ」のアイツって誰?について、自分なりの回答をさせていただきますね。

多分、「光秀」君ではないか・・・と思いますが。
史実と関連付けるのであれば、斉藤龍興=朝倉義景=明智光秀で「線」はつながりますよ・・・
この頃の「公方様」の陰謀と言えば、畿内各勢力、本願寺、武田にも御教書を発行、根回しをしていましたし・・・
1570年が姉川の戦いですし、合戦後、公方様の檄に応じ本願寺と通じた三好勢が再起したのは野田・福島の戦いになるので、ゲームとのつながりもありますし・・・ココはゲームの流れ通りの解釈で良いのではないでしょうか?

仮に「光秀」君と仮定すると、決戦3でのあの”したたかさ”を思わせる史料があったので、載せておきますね・・・。
ルイス・フロイスの「日本史」より、信長のことだけを抜粋、翻訳・注釈を加えた本で「回想の織田信長-フロイス「日本史」より-」を読んだことがありますが、
ココでの光秀君の描写はまさに「決戦3の光秀君」そのものでした・・・
・その才略、深慮、狡猾さによって信長の寵愛を受けていた。
・主君とその恩恵を利することをわきまえていた。殿内にあって彼は余所(よそ)者であり、外来の身であったので、ほとんどすべての者から快く思われていなかった
・光秀は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己れを偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。
・光秀は誰よりも、絶えず信長に贈与することを怠らず、寵愛されるために、彼を喜ばせることは万事につけて調べていた。
・友人たちに光秀は、人を歎くために七十二の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していた。
と書いており、
このような術策と表面だけの繕いにより、あまり謀略に精通してはいない信長を完全に瞞着した
と、まとめています・・・
何か、”ひどい書かれ方”だと思い、読み終わった後、不快になったことを覚えています。
しかし・・・
決戦3のムービーを「信長・光秀」に絞って見ていると・・・
何故か「納得」の行くところがあり、コレはコレで不思議なのですが^^;
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.96 )
日時: 2005/05/05 19:57
名前: ブー

ありがとうございます。それと、どうやったら、微々美々さんみたいに、歴史に詳しくなるんですか。「いいたくなかったら、いわなくて、いいです」
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.97 )
日時: 2005/05/05 21:31
名前: 微々美々

詳しくなる方法は・・・何なのでしょうね???
正直なところ、自分も歴史は「好き」というだけですし・・・

強いて言うとすれば、自分の場合は本・博物館・美術館・刀剣美術館・神社仏閣・古戦場跡などの城址を訪ねる・・・というフィールドワーク?が”メイン”ですが・・・
後は、歴史で起こったことは変えようが無い事なので、あらゆる解釈の可能性を探るようにしていることと、好きな歴史も古今東西を問わず、また神話・民俗・オカルト・古典など、何でもアリなのが自分のスタンスだからでしょうか(苦笑)
人、それを”無節操”と言うのでしょう・・・多分^^;
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.98 )
日時: 2005/05/05 21:52
名前: ブー

森可成は、ゲームみたいに、柴田勝家に、偉そうな態度おとったのですか。それと、柴田勝家は、ゲームみたいに、力こそがすべと思ってたのですか。
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.99 )
日時: 2005/05/05 21:58
名前: ブー

教えてくれてありがとうございます。「詳しくなる理由」
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと3 ( No.100 )
日時: 2005/05/05 22:08
名前: 微々美々

「森可成は、ゲームみたいに、柴田勝家に、偉そうな態度おとったのですか。それと、柴田勝家は、ゲームみたいに、力こそがすべと思ってたのですか。」

こちらのご質問は決戦3「史実」探検スレッドぱーと4(史実編)で回答させて頂きますね^^

多くの方にご質問を頂き、ありがとうございました。また、御覧になって頂いた方、貴重な話を書き込んでいただいた方、管理人様に心から感謝しております^^

一応、こちらのスレでのご質問・回答・書き込みに関しては「終了」とさせて下さい。
現在、「第4弾」のスレを立ててありますので、今後の書き込みと、ご質問などについてはそちらでお願い致します。
本当にありがとうございました。

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