Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.78 ) |
- 日時: 2005/04/05 13:50
- 名前: 織田信長に関すること
- (1534〜1582)
織田氏は尾張守護斯波氏の守護代であり、斯波氏は、細川氏、畠山氏とともに三管領であった。
永禄のころ越前、尾張を支配していた守護斯波氏は衰退し、代わって守護代の織田氏が台頭する。その織田氏にも二家あり、一つは上4郡の伊勢守系で、丹羽、羽栗、中嶋、春日井を支配。もう一つは下4郡の大和守系で、海東、海西、愛知、知多を支配し、清洲城を中心にしていた。
信長の父信秀は、大和守系、清洲織田氏の三奉行の一人で、本家をしのぐ勢いを持ち、尾張半国を手中に今川氏と拮抗、西三河まで支配する戦国大名と化している。
信長は、天文3年(1534)5月、尾張那古野城(現在の名古屋城、二の丸辺り)で誕生。幼名、吉法師。平手政秀、林新五郎、青山与三右衛門、内藤勝助の4人の家老をつけ、育てられた。
天文15年(1546)、元服。三郎信長。翌16年(1547)、三河大浜で初陣。
天文17年(1548)、交戦中であった美濃の斎藤道三の娘、帰蝶を、和睦の証として正室に迎える。帰蝶には、鷺山殿(道三居城にちなむ)、濃姫(美濃にちなむ)など、後世にも呼び名が出来た。
『信長公記』『名将言行録』などには、幼少時より闊袖を着、半袴をはき、燧袋などを腰に下げ、髪を茶筅に結び、朱鞘の太刀、餅菓子を食べながら歩き、遠近国より(風体異様、奇行につき)大うつけ者と言われたと描かれている。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.79 ) |
- 日時: 2005/04/05 13:51
- 名前: 織田信長に関すること
- 天文23年(1554)、信長は清洲に居城を移す。あるいは、天文24年(1555)、叔父、信光とはかり、守護代・織田彦五郎を討ち、清洲城を奪取の上、本拠地とした、とも言われる。城は那古野の方が広いが、美濃攻めに備えたのかもしれない。このあと、弟信行を謀殺。岩倉城の守護代、織田信安を追放。
弘治2年(1556)、斎藤道三は子の義龍と長良川に戦って死亡。道三は信長に、美濃を譲る、と遺言状を送っていたため、これ以後、信長は美濃攻略の長い道のりに取り組む。
しかし、当時の信長の状況は多難で、永禄2年(1559)、上洛し、将軍義輝に拝謁しつつ、駿河の今川義元、三河に松平元康を背に迎えている。
永禄3年(1560)、今川義元が2万5千の大軍を率いて西上。尾張に侵入。5月19日、信長は俄かに出陣の命を下し、5騎と雑兵200を連れ、熱田神宮で残りの部下の集合を待ち、戦勝祈願。善照寺で軍勢は3000。ここで今川方の情報をつぶさに調べた上、兵1000を善照寺の砦に伏せ、旗指物を立てて本陣に見せかけ、残り2000の兵を率いて田楽狭間に急行。
信長が沓掛まで来たとき、突然、豪雨が降り始め、信長の一団はこれに乗じて今川本陣を襲い、義元を発見、殺害、義元の首を清洲に持ち帰った。このとき今川本陣では、織田方の丸根、鷲津の砦が陥落したことを祝い、織田部将の首実検をしながら酒宴を開いていたと言われる。
これが世に名高い桶狭間合戦である。以後、信長の名は天下に知れ渡った。しかしこの戦ののち、信長は生涯、装備の近代化、常備軍団制の当用、機動力重視など、軍制改革を行い、自軍の強化に努める傍ら、ことに武田や上杉といった強敵との直接対決は避けている。
永禄4年(1561)、信長は松平元康(家康)と和睦。翌5年(1562)、清洲城で会見。これ以後、家康は信長の最も有力な同盟者であり、信長の危うい上洛過程において、東部方面の防衛を担わせられるのであるが、今川、北条、武田といった強敵と常に直面していた弱小大名の家康にとっても、信長は後援者でありつづける。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.80 ) |
- 日時: 2005/04/05 13:52
- 名前: 織田信長に関すること
- また、この頃までの信長の部将は、諌死した平手政秀を筆頭に、林通勝(のち追放)、柴田勝家。幹部に丹羽長秀、佐久間信盛(のち追放)、村井貞勝(のち京都所司代)。若手に池田恒興、佐々成政、森可成、前田利家、金森長近、新規召抱えに滝川一益、木下籐吉郎。
以後、美濃攻めを開始するが、戦況の進展なく、木下籐吉郎(秀吉)が墨俣築城に力を発揮。翌6年(1563)、信長は、居城を清洲から、要害の地、小牧山に移す。
前後して、近江の浅井長政に、妹、お市の方を嫁がせ、永禄8年(1565)には、武田信玄の子勝頼に養女を嫁がせる。さらに、松平元康の嫡子信康に、長女徳姫を縁付けた。
ちなみに、信長には兄弟姉妹あわせて24人おり、弟の長益は、のちの文化人、有楽斎としても名高い。また信長には子供も24人(男12人、女12人)あり、後年の事も入るが、嫡子信忠には、信玄の娘、松姫と婚約(のち解消)させ、四男を家来、羽柴秀吉に養子に出し、秀勝の名乗らせている。娘には、蒲生氏郷、前田利長、中川秀政など、有力傘下大名と婚姻させた。秀吉も信長の娘の一人を後に側室にしている。
永禄10年(1567)、斎藤龍興の稲葉山城を降したので、小牧山から稲葉山に城を移し、岐阜城と改名。(斎藤氏を下したのは永禄7年とも言う)
11年(1568)、越前朝倉氏の元から、信長を頼ってきた将軍義昭を奉じ、上洛。途上の近隣大名にこれを通知し、協力を得て、総勢5万の大軍であった。このとき反抗した、近江、観音寺城の六角承禎のみ討った。
義昭は感謝を表し、信長に与えた感状に、「御父織田弾正忠殿」と記した。京に上った信長は、治安維持に努め、堺、大津、草津に代官を置く許可を得、諸国の関所を廃止して通行税を撤廃。経済の発展を促した。
しかし一方、この上洛成功により、信長は生涯、全国の有力大名や本願寺勢力から挑戦され続ける。また、美濃を併呑したものの、尾張、美濃の兵卒は元々資質的に弱兵であったため、鉄砲の大量装備、兵濃分離による育成が必要であり、京に居ても決して安定した日々ではなかっただろう。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.81 ) |
- 日時: 2005/04/05 13:53
- 名前: 織田信長に関すること
- そんな中、翌12年(1569)、三好残党が義昭を襲った。信長が駆け付けると、京近隣の諸武将によって事件は回避されたが、信長は将軍安全のため、二条館(「二条城」とも言うが、家康の築いた物とは違う)を建設し、義昭に進呈し、皇居、内裏の修理も敢行。岐阜に帰ると、岐阜城整備、伊勢征伐。
やや前後するが、この頃の信長の部将には、美濃衆が加わり、斎藤龍興から引き抜いた美濃三人衆の稲葉一鉄、氏家卜全(長島で戦死)、安東守就(のち武田内通、追放)。不破光治、堀秀政(側近)。近江から六角氏旧臣、蒲生賢秀、山崎片家、大和から筒井順慶、松永久秀。足利義昭の連絡をつとめた明智光秀、のちに同じく義昭を見限った細川藤孝。
元亀元年(1570)、将軍の命に応じず、上洛せぬ朝倉義景を討伐のため軍を起こす。これは、浅井氏との約束を破っての軍事行動だったので、逆に浅井長政は信長を攻めた。信長は浅井・朝倉軍の挟撃を危うく逃れた後、浅井・朝倉との間に、姉川の戦いを展開し、勝利。
元亀3年(1572)、武田信玄が上洛軍を起こし、信長の同盟者、徳川家康の領地に迫る。信長は浅井・朝倉と対立中でもあり、家康への救援は佐久間、滝川などの部将と兵を廻したものの、12月、三方ヶ原にて、徳川軍は武田軍に大敗。
天正元年(1573)2月には、信長の勢力を恐れた将軍義昭が、武田、浅井、朝倉と計って包囲網を画策。第一次信長包囲網である。長い間、信玄を敵に回さぬよう、贈り物や婚姻により気を配りつづけた信長だったが、この時期は、生涯最大の危機であったと言えよう。
しかし、信長は逆に義昭を二条館に囲み、朝廷の仲介で一時和解するが、さらに4月12日、上洛途上にあった武田信玄が陣中に病没したため、家康は窮地を脱し、信長は7月、再び兵を起こした義昭を討ち、京から追放した。この直後、朝廷に働きかけ、みずから征夷大将軍になろうとし、果たされなかったとも言われる。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.82 ) |
- 日時: 2005/04/05 13:54
- 名前: 織田信長に関すること
- 同年8月には、小谷に浅井氏を、これの救援に来た朝倉氏を一乗谷城に囲み、ともに滅ぼす。浅井長政、朝倉義景はそれぞれ自刃。
天正3年(1575)5月、長篠合戦において、徳川軍と連合して武田勝頼の軍を破り、翌4年(1576)1月、安土城築城を着工。総奉行は丹羽長秀、普請は森三郎左衛門、大工頭は岡部又右衛門此俊父子。石奉行に西尾山左衛門。総勢3000人体制で城造りをさせ、2月入城。完成は天正7年(1579)5月。
安土城の重要性は、岐阜より京に近く、京と岐阜を結ぶ軍用道路の整備、琵琶湖を利用した水上交通の開発、北国街道を南下してくる上杉軍にそなえる目的などもあろう。
安土城は海抜200m、『信長公記』(太田牛一)によると、七層、各階座敷、外壁すべて黒漆塗り、内装は壁に狩野永徳による絵(鬼、鯱、龍、餓鬼)。最上層は高欄造り、壁面金箔、回縁に朱塗り、軒に風鐸12個を吊り、屋根瓦は金泥。天守は石垣の高さ25.5m、石垣内部に一階部分が組み込まれる。豪壮華麗な名城であり、外人宣教師もよく招いてヨーロッパの洋式を取り入れ、城下町にまでその構想が及んだという。
安土築城の一方で、天正4年(1576)4月、本願寺光佐が義昭と通じ、石山にて信長に反旗を翻したのを討伐。兵農分離により、戦闘員と非戦闘員を分けた信長にとって、ゲリラ戦による一向宗との長い戦いは試練以外の何物でもなく、のちに精神を膿むきっかけとなるに充分な効果があったとすら言われている。また、宗教人を多く殺したことで、良くも悪くも、信長無神論者説を唱えられるきっかけにもなった。
翌5年(1577)、毛利氏討伐に羽柴秀吉を派遣。同年11月、信長、右大臣。これが今後、終生の地位となる。
また多少前後するが、この頃までの信長の部将は、摂津から三好一族の三好康長、政勝、荒木村重(のち謀反)、中川清秀、高山重友。財政面で政策に加わった今井宗久、津田宗及、千宗易(利休)。伊勢から水軍の九鬼嘉隆。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.83 ) |
- 日時: 2005/04/05 13:55
- 名前: 織田信長に関すること
- 天正6年(1578)3月、信長を討ち、まさに上洛せんとした上杉謙信が出陣せず病没。上杉・毛利・本願寺連合の第二次信長包囲網は、これにより挫折。天正10年(1582)2月、長篠以後、永らえていた武田勝頼を天目山に追い詰め、3月11日、これを自刃させ、ついに強敵の存在が無くなる。
この日までに信長の版図は膨張しつづけ、近畿、中部、北陸、東海、中国の東半分……と、30ヶ国以上におよび、日本の約半分を支配下に治めた。石高8百万。可能動員兵力は単純計算で20万人と言われる。
また生野などの有力な金山・銀山を支配したことも、膨大な軍団を支える財政基盤ではあったが、こうした限りある資源のみに頼らず、堺など、商工業都市を手中に、楽市楽座などによって貨幣経済を発展させた合理的手法は、特筆すべき業績と言えるだろう。
彼のこうしたリサイクル型とも言うべき手法は、人材面においても余す事なく発揮され、明智、荒木、滝川、羽柴と言った有能な家来たちは、軍事はもちろんの事、謀略や外交に才のある者は、家柄や身分、履歴に構うことなく重用された。幾度も強敵に包囲されつづけた信長にとって、謀略や外交は特に必要とする所だったと思われる。
逆に譜代の重臣でも、佐久間信盛のように追放の憂き目に遭っている事や、荒木村重、松永久秀のように裏切りや謀反を企てる者が多かった事、同盟者として徳川家康を持つ以外、信長にこれといった特定の軍師や参謀が居なかった事なども特異と言えるだろう。
5月、備中高松城を水攻め中の秀吉から出陣を請われ、信長は出陣を決意。先立って長男信忠が21日に京、妙覚寺宿泊。手勢わずか500人余り。信長は、29日安土を出発、同日京に到着。本能寺宿泊。従う者30人余り(人夫小者含めると100人ほどか)。
6月2日未明、織田家武将、明智光秀謀反。光秀麾下1万3千部隊が本能寺を襲う。信長は弓と槍で防戦したが、光秀家来、安田作兵衛の槍に刺され、近従の斬り防ぐ間に奥の間に入り自刃。信長49歳。その晩年には、自らを”神””第六天魔王”と称していたと言う。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.84 ) |
- 日時: 2005/04/05 22:10
- 名前: 微々美々
- 閑話休題ということで・・・
「ゲームに登場する場面」の史実「番外編」です。 中級以上の難易度では、光秀視点と言える「ムービー」が見られる事はご存知だと思いますが、 その中の演出で「光秀が薔薇の花を散らす」場面があったので、これについて。 (単に「戦国時代に薔薇があったのか?」と言う素朴な疑問だったのですが) 結論から行くと・・・ありました^^ 日本語のバラは古語で「ムハラ」「ウバラ」で、「イバラ」と同じ意味を持ち 江戸時代まで日本にはツルバラしかなく、今日知られるようなバラは「花イバラ」と呼ばれていました。漢字の「薔薇」は墻靡(そうび)(垣根にまとわりつくという意味)の当て字と言われています。 最初は単なる「演出?」と思っていたのですが・・・実際、絵になりますし^^
このスレを見ていただいている方々へ・・・ 武将の史実も充実して来ていますので、武将以外の史実についてもご質問などありましたらどしどし書き込んで下さい。 それと・・・ 史実について書き込んでいただいた方には本当に感謝しております。これからもよろしくお願いいたします^^
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.85 ) |
- 日時: 2005/04/05 23:53
- 名前: 太郎
- 戦国時代にコスモスって有りましたか?
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.86 ) |
- 日時: 2005/04/06 00:50
- 名前: 微々美々
- 戦国時代に「コスモス」があったか?について回答させて頂きますね。
実は・・・ありませんでした。(残念) コスモスは日本では「秋桜」と言う和名がありますが、メキシコからはスペインに渡り、イギリスには1799年に渡来しており、日本には明治初年に入って来た花です。 またコスモスという名前は,1791年スペインのカバニエス神父によって命名されました。 綺麗な花なんですが・・・歴史は比較的新しい部類に入るようですよ^^ ちなみに、薔薇は万葉集の時代から既に日本にあったそうですが。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.87 ) |
- 日時: 2005/04/10 19:16
- 名前: 微々美々
- 多くの方に書き込みを頂き、感謝しております^^
一応、こちらのスレでのご質問・回答・書き込みに関しては「終了」とさせて下さい。 現在、「第二弾」のスレを立ててありますので、今後の書き込みと、ご質問などについてはそちらでお願い致します。 本当にありがとうございました。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.88 ) |
- 日時: 2005/05/06 21:02
- 名前: ブー
- 第二弾おねでとうございます。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.89 ) |
- 日時: 2005/05/06 21:04
- 名前: ブー
- まじかいました、おねでとうではなく、おめでとうでとうでした。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.90 ) |
- 日時: 2005/05/25 15:28
- 名前: 睡蓮
- お市と、その装備の名にもなっている多由也について詳しく教えてください♪
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.91 ) |
- 日時: 2005/05/26 02:25
- 名前: 微々美々
- 「お市と、その装備の名にもなっている多由也」両方について回答させて頂きますね。
お市 別名を市姫。小谷の方。お市御寮人。 織田信秀の娘で信長の妹にあたる。 一説に天文十六年(1547)生まれ。 妹ではなく姉・義妹・従妹であるという説もある。 お市が柴田勝家の許へ再嫁する決心をしたことについて、「お市さま自らの御料簡にて決められ候こと」と語っており、織田信忠や信包の意見ではなかったそうです。 お市の胸中には残された子女の将来と、織田政権を託す人物として年は親子ほど違う老将柴田勝家こそ最適の人物として選択したと考えられます。 亡主信長の追善供養を京の妙心寺で真っ先に行ったのも柴田勝家夫妻で喪主はお市その人であったといいます。 そして安土に菩提寺・総見院を建立しています。先を越された秀吉は大徳寺で追善供養をし、ここに総見院を建て、三者三様の思惑を秘めて織田政権の後継者たらんとしたそうです。 お市御料人は女人ながら織田政権の担い手として自負していたものと思われます。 実は芯の強い女丈夫だったのではないでしょうか?
少しお市に関して新しい説が出たので追加も^^ 実はバツイチ? 通説ではこれがお市の方の初婚とされているのですが、”これがお市の方の二度目の結婚である”という説も根強く主張されています。 理由としては”21歳で初婚というのは、当時としてはあまりにも晩婚である事を理由としています。 ※戦国大名の娘は、12〜15歳の間に結婚をしています。わずか7歳で結婚した女性もいましたので。
万福丸はお市の子供なのか? 浅井長政には5人の子供がいます。 浅井三姉妹(茶々・お初・小督)はお市が産んでいますが、長男の万福丸と次男の幾丸については不明のままです。 万福丸は永禄六年(1563)年生まれなので、もしお市が万福丸を産んでいるとなると、永禄五年には嫁いでないといけないことになります。 ちなみに、お市が嫁いだ年は永禄十年です。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.92 ) |
- 日時: 2005/05/26 02:27
- 名前: 微々美々
- 多由也の装束・髪紐
由来:伊賀忍術の祖、御色多由也より どんな人? 御色多由也(おいろたゆや)生没年不詳 伊賀流、同流忍術の祖といわれる。第七代孝霊天皇の頃(孝霊元〜七十六=前290〜215)の人物としています。 史料では「伊乱記」の中に、「不断未明より午の刻までは士農工商各家業の所作を励まし、午の刻より暮れまではひたすら武法弓鳥の道を磨き別して惻隠術を鍛錬す。上代より伊賀の遺風としてその古の御色多由也より謀術を伝へ」と記されています。 また、徐福の不老不死伝説によると、 孝霊七十二年(前219)に、中国秦の始皇帝の臣徐福が不老長生の仙薬を求めて渡来、仙薬を探したが見つからず帰国を断念、忍術をつたえたそうです。
御色多由也は、その一人に当たり、修行の結果「千里眼の術」「穏形の術」「夜視の術」「水火に入る術」「身が軽くなる術」「一(ひとつ)の身が分形して数十人になる術」など900余りに及ぶ術を使いこなしたといいます。 ・・・ココまで来るとほとんど”漫画の世界”ですが^^;
こちらのスレは一旦「終了させた」スレですので、もし、今後もご質問があるようでしたら、勝手なお願いで申し訳ありませんが、第4弾のスレにお願いできたら・・・と思います^^
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.93 ) |
- 日時: 2005/09/29 12:07
- 名前: coco
- cocoです。
お雪って、実在したのですか?
今、中級に入ったばかりです。初級の適性引き継いでいるので自軍が強く感じます。しかも、装備品売りさばけるのでリッチですね!!
よろしくお願い致します。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.94 ) |
- 日時: 2005/09/30 20:49
- 名前: taka
- それは、ゲームのなかの人物伝に書いてありますよ
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.95 ) |
- 日時: 2005/10/01 12:05
- 名前: 微々微々
- 久方ぶりに・・・書きに来ました。
人物伝だけでは足りないでしょうから^^
お雪は「実在の人物」です。 別名を富田信高夫人とも。
史実が少なく、知っているのはこれだけです^^ 西軍は日本三港の一つとされる安濃津(現在の三重県津市)の城主・富田信高を攻めた。近隣の分部光嘉・古田重勝も救援に入ったが、兵力の差は圧倒的で、城には火が回り、城主・富田信高は討ち死にを覚悟して討って出た。このとき、城内より美しき若武者が行動を共にしたが、この若武者こそが常山記談に「容貌美しき武者、槍を提げてきたり」と書かれている信高の妻であったそうです。 常山記談に「容貌美しき武者、槍を提げてきたり」 と述べられているお雪ですが、彼女は、緋威(ひおどし)の具足に中二段黒革威に半月を打った兜の緒を締め、片鎌の手槍を引っ提げていました。信高は分部光嘉の家来かと思い右馬助に尋ねるが、彼も知らないと言います。そこで右馬助がその人物の兜の内側を覗いたところ、年の頃は二十四、五歳と見え、化粧をしてお歯黒をつけている。彼は驚いて信高のもとへ行き、「あの若武者は眉を描き歯黒をつけ、爪紅をさしています。女に違いありません」と告げた。信高は攻め寄せる敵をあしらいつつその若武者に近寄ったところ、若武者の方から彼に近寄ってきてこう言いました。 「嬉しゅうございます。お討死と聞き、枕をともにしたくてここまで出てまいりました。生きてお目にかかれ、嬉しくて何も申せません」 信高は若武者の顔を見て仰天した。この若武者は彼の妻だったのです。この日の彼女の振る舞いとめざましい働きは、見る者聞く者を驚かせました。これは『武功雑記』にある話ですが、逸話とは言え彼の妻が参戦して奮闘したことは事実です。
妻の活躍にも助けられ(?)、信高もなんとか本丸に戻った。『武将感状記』によると、この時彼女は毛利秀元の家臣で大剛の士として知られる中川清左衛門を討ち取ったといいます。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.96 ) |
- 日時: 2005/10/01 14:42
- 名前: coco
- 微々美々さん、ありがとうございます!
なるほど、だから猛将なんですね・・・
自分ではPS2持ってなくて漫画喫茶でちょくちょくやってるだけです。なので、「ゲームの中の人物伝」を好きな時に見られない私としては助かりましたし,説明にものすごく納得!
ところで、微々美々さんは何でそんなに詳しいんですか?私は「信長の野望・武将風雲録」から戦国が好きなのですが、とてもついていけないほどの知識量で・・・
ありがとうございました!!
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.97 ) |
- 日時: 2005/11/03 14:52
- 名前: セル
- http://www2u.biglobe.ne.jp/~tachi/main.html
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