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決戦3「史実」探検スレッド
日時: 2005/03/27 01:40
名前: 微々美々

決戦3に登場する時代背景・武将・合戦etcについて
「あの合戦って歴史上はどんな戦いだった?」とか「好きな武将の史実を知りたい^^」とか「装備品の由来は?」などの疑問・質問を是非皆様で考えて見たいと思い、スレッドを立ててみました。(決戦3を楽しむ上で史実を知ると、もっと楽しいかな・・・というのが自分の考えですので)

決戦3に登場する、”歴史”に関するものであれば、自分の知っているもの、調べて何とかなるものであれば、可能な限りお答えして見たいと考えています。
もちろん、知らないことの方が多いのは”当然”なので、そこはこのスレッドの趣旨に興味を持たれた方がいましたら、是非、ご協力頂きたいのですが・・・
メンテ

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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.18 )
日時: 2005/03/31 22:35
名前: 微々美々

佐々成政ゆかり さんへ

>また、No.13 スレッド後段の’天正2(1574)年春武田勝頼2万の大軍を以って、東濃の諸域を攻略、三河、尾張。遠江、駿河への拠点明知城を目指す。城主遠山一行が叔父利景とともに急を織田信長に報じ兵500とともに之を護る。・・・’は恵那市明智の明知城だと思います。

仰る通りです^^自分の手違いで、長山城の方に載せてしまいました・・・。


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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.19 )
日時: 2005/03/31 22:42
名前: 微々美々

「今川義元って奥州で伊達、上杉に加勢したんですか?」について、回答させて頂きます・・・と言いたいのですが、自分はこの話については”初耳”ですので、全くわからないのですが・・・

自分の知る義元の関わる合戦は、家督継承と花倉の乱(天文5年(1536))、後北条氏と河東の乱(天文6年(1537))、松平氏と今橋合戦、松平氏と岡崎の医王山砦合戦、戸田氏と田原合戦、織田信秀と小豆坂合戦、同安祥城合戦、奥平定勝と作手合戦、菅沼氏と田峰合戦、松平忠茂・家忠と青野合戦、鈴木日向と寺部合戦、最後の桶狭間合戦しか史実として知らないので・・・。

代わりに、自分が知っている「今川義元」の史実について載せておきますねm(-.-)m
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.20 )
日時: 2005/03/31 22:46
名前: 鈴木家拾壱代

僭越ながらこの私が。

今川義元が上杉家と手を結んだことは確かに天文14年(1545)に有ります。
しかし、それは元長尾家(謙信の上杉家)ではなく、
長尾景虎(後の上杉謙信)に姓と関東管領職を譲った上杉憲政なのです。
今川氏の領地である駿河の国は、現在の静岡県の中部および東部にあたります。
ですから、地理的に見ても今川義元が奥州まで出て行くことは
なかったのではないでしょうか。
今川義元が駿河から目指したのは西の京の都ですしね。
伊達は、この場合は論外ですね。

以上の事柄はある程度年齢のいった歴史好きなら標準的な知識でしょうね。
いや、もちろん私は自分の知識が微々美々さん以上にあるとは
口が裂けても言いませんけども。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.21 )
日時: 2005/03/31 22:59
名前: 微々美々

肥満、公家かぶれ、短足で馬に乗れない。およそ今川義元について良いイメージを抱いている人は少ないようですが、実は有能な人物だったそうです。
まず、彼のイメージ図?ですが・・・
お歯黒で肥満体、馬にも乗れず手足が短いなどの話は、「江戸中期ごろ書かれた書物」に載っている話で信用性は低いとされていますし、馬に乗れないと言うのも間違いで、「信長公記」には、桶狭間では騎乗していたと書かれています。
実際、自分も大聖寺所蔵の義元の人物画を見たことがありますが、かなり凛々しい感じでした。
「戦国無双猛将伝」の「志村けんのバ○殿」のイメージとは大違いです。(あれはあれで好きなのですが^^)
実際の義元は、検地を行なって年貢と軍役を定め、楽市により商工業の自由化を図り、また法度を定めて内政を整備するなど、領国経営にも優れた手腕を発揮した英君だったそうです。
ちなみに、義元の母上「寿桂尼」はもっと”スゴイ”お方でした・・・。
史実では、戦国時代の武将夫人で領国支配の文書を出したのは寿桂尼だけで、「女戦国大名」と呼ばれる所以とされています。女性領主のゆえか領地拡大は目立ちませんが、当主若年の中でも他国の侵略を許すことなく、また氏親の代からの駿府の発展の道筋も途切れることなく、成人した氏輝に領国は手渡されましたと言います。
最後に義元の異名「東海道一の弓取り」の由来についても。
鉄砲が伝来するまでは、弓が日本のいくさの主武器であった。武将から平侍に至るまで弓をたしなみ、その上手、名人が強者ともてはやされた。どこそこの弓取りと称せられる事は、武士にとって名誉な事だったそうです。
知っているのはこのぐらいですね・・・。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.22 )
日時: 2005/03/31 23:31
名前: 微々美々

鈴木家拾壱代さんへ
丁寧な解説を本当にありがとうございます。
さすがですね・・・参りました^^;

なるほど、関東管領・山内上杉憲政とも結んで北条氏綱を伊豆国境まで退け、駿東・富士の二郡を支配した史実ですか・・・それなら自分も知っていますが、正直なところ、「盲点」でした(苦笑)。

それではお礼を兼ねて「名門」今川家についての史実を。今川家の祖は源義家にルーツがあるわけですが、
室町時代の伝承に「御所(足利将軍家)が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」というものがあります。
この吉良氏は「忠臣蔵」でも有名なあの「吉良氏」の家系です。清和源氏足利氏流で、今川氏と同族の家系です。吉良氏の祖の長氏の兄義継は「吉良系図」によると、蒔田吉良氏、奥州吉良氏の祖とされています。
なので・・・まんざら「奥州」と関わりがないわけではありません^^
ちなみに「義元」の方は駿河今川氏 の家系です。
他には・・・今川氏には駿河とは別に、九州深題の要職を勤め、「難大平記」を著わした今川貞世を祖とする遠江今川氏が戦国末期まで存続していたそうです。 (決戦3とは関係の無い話で申し訳ないのですが)
それから・・・他の皆様にも。
自分の歴史の知識も”たかが”知れているものなので、至らないところが多々あると思います。補足・訂正などありましたら遠慮なく書き込んで下さい。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.23 )
日時: 2005/04/01 18:43
名前: かばちゃん

荒らされたみたいなので とりあえずこのスレだけあげさせてもらいますね
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.24 )
日時: 2005/04/02 01:09
名前: 微々美々

史料を整理していたら、こんな”爆笑ネタ”がありましたので、一応載せておきますね^^

「武田信玄」が「高坂弾正」に当てたラブレターです
          一     一   一
              `    `  `
        の 富 が 別 も い 弥 了 弥
    て 内 な 士 い し 寄 わ 七 簡 七
    `々 り `迷 て ら ん 郎   郎
  七 明 宝 `白 惑 知 ず や 伽 な に
  月 日 印 よ 山 に 音 候 昼 に く 頻
春 五 重 に っ `候 申 の 夜 寝 候 り
日 日 ね て て 殊 °し 事 と さ °に
源   て 申 件 に こ た °も せ 全 た
助   な す の 八 の き   弥 申 く び
と   り べ 如 幡 条 ま   七 し 我 た
の   と く し 大 々 ゝ   郎 候 が び
    も 候   菩 い `  と 事 偽 申
    申 へ   薩 つ 色   か こ に し
    す ど   `は 々   の れ な 候
    べ も   諏 り 走   儀 な く へ
    く `  訪 候 り   な く 候 ど
    候 甲   上 は 廻   く 候   も
      役   下 ば り   候 °  `
      人   大 `候   °こ   虫
      多   明 当 え   な の   気
      く   神 国 ば   か 前   の
      候   の 一 `  ん に   よ
      あ   罰 `か   ず も   し
      い   を 二 え   く そ   申
  晴   だ   蒙 `っ   今 の   し
  信   `  る 三 て   夜 儀   候
  ∧   白   べ 大 御   は な   あ
  花   紙   き 明 う   存 く   い
  押   に   も 神 た   じ 候   だ
  ∨         `      °  `
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.25 )
日時: 2005/04/02 01:29
名前: 微々美々

すみません、原文のまま載せてみたら、トンデモない表示になってしまいました・・・トホホ。

改めて、手入力で載せておきます(原文です)
一.弥七郎に頼りにたびたび申し候へども、虫気のよし申し候あいだ、了簡なく候。全く我が偽になく候。
一.弥七郎伽に寝させ申し候事これなく候。この前にもその儀なく候。いわんや昼夜とも弥七郎とかの儀なく候。なかんずく今夜は存じも寄らず候の事。
一.別して知音もうしたきまゝ、色々走り廻り候えば、かえって御うたがい迷惑に候。この条々いつわり候はば、当国一、二、三大明神、富士、白山、殊に八幡大菩薩、諏訪上下大明神の罰を蒙るべきものなり、よって件の如し。
内々宝印にて申すべく候へども、甲役人多く候あいだ、白紙にて、明日重ねてなりとも申すべく候
晴信  七月五日 
春日源助との(高坂弾正)

です。ちなみに現存しているものです。
           
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.26 )
日時: 2005/04/02 01:36
名前: 微々美々

意味は大体こんな感じだそうです。
自分が弥七郎をくどいた事は何度もあるが、いつも
腹痛と言って断られた。これは本当のことである。
これまで弥七郎と寝たことはない。もちろん昼夜ともそんなことはしていないし、まして今夜は思いもしない。おまえと親しくしようと思って、いろいろ手をまわすと、かえって疑われる事になり、困っている。これらのことにもし嘘があれば、甲州一の宮(山梨県一宮町浅間神社)二の宮(山梨県御坂町美和神社)三の宮(山梨県甲府市玉諸神社)の大明神、富士(富士宮市富士浅間神社)、白山(山梨県河口湖町白山神社)ら領内の神々、ことに八幡大菩薩、諏訪上下明神の罰を受けるだろう。本当なら正式な起請文の紙に書くべきであるが、役人の目がうるさいので、白紙に書いた。明日にでも書きなおす予定である。
信玄が弥七郎という少年と寝ているという噂を聞いた源 助が立腹しているので、信玄が書いた言い訳の手紙だそうです。
スゴイ「言い訳」だな・・・と感心しつつも、爆笑してしまいました。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.27 )
日時: 2005/04/02 07:32
名前: かばちゃん

・・・Σ( ̄(エ) ̄lll)
たしかにすっごい言い訳だなぁ・・・
そもそも武田信玄はホモだったんかぁ・・・
どうにもこうにもおれはホモの気持ちが理解できないんだよなぁ``r(・(エ)・;) ポリポリ
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.28 )
日時: 2005/04/02 14:04
名前: 微々美々

「武田信玄はホ○だったのか?」について回答をさせて頂きますね。

実は信玄に限らず・・・自分の知る限りでは、信長と利家、伊達政宗とその小姓も「男色」関係があったと言いますし、史料も残っています。
政宗の場合は、酒を飲んで衆道関係の小姓に八つ当たりをして、その小姓から腕を刺した誓いの手紙を受け取ると可愛いほどの慌てぶりを見せたそうです。「私もそうしたいが、孫もある身で…」と書かれており、ミョーに笑えます^^
利家の場合は「亜相公御夜話」という加賀藩の資料によると、若き日の信長の寵愛した小姓に「前田利家」がいたとされ、信長が安土城完成パーティを開いた時に末席にいた利家に対して「そなたはワシの秘蔵っ子であったな」「若い頃はよく側に寝かせたものだ」と声をかけ周りの武将を羨ましがらせたという内容が記されています。

最近、武将の人物像についていろんな角度から史料を読み漁っていますが、その中で、かなりの頻度で「男色」の話が載っているので、少し調べてみました。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.29 )
日時: 2005/04/02 14:30
名前: 微々美々

続きです。自分の知る学説では・・・
日本の男色の文献上の初見は、「日本書紀」神功皇后摂政元年二月条、小竹の祝と天野の祝である。書紀からは読み取る事は難しいですが、祝という神に近い存在の間に男色が存在したことは、日本社会に古くから根付くものであることを示しているのではないでしょうか。
「色」という表現は、恋において肉体関係と精神的関係を明確に二分することなく前者をも包含し、かつ、それを抑圧し、低俗と見なさない点に特色がある。そしてまた「男と女の恋」にかぎらず「男と男の恋をも含めたもの」でした。これをさして「色道ふたつ」という表現が生まれたとされています。 色道とは無秩序な性の欲望を噴出させる道ではなく、書道、華道、茶道など様々な道を動員し、人生のひとときを美的な、非日常的な時空間にするための手段だったのです。そしてこのことがゆえに性は俗ではなく、聖の領域にあったことを読みとることが学説としては重要とされていました。中世の稚児物語においては、主人公(主に僧侶だが)は大抵場合、桜の木の下で美少年と出会い、美少年の恋と死が、現世のはかなさの比喩として現れているのである。仏教が無常というものを美しい者の滅びやすさという面から説くのに利用されています。世阿弥の「風姿花伝」では、「少年は時分の花」という言葉がなによりもその心を表していると思います。(世阿弥自身、藤若として足利義満に侍っていたことはすでにあきらかとされる)。桜がその象徴とされています。
戦国期に入ると武士たちの間に、男色が流行しはじめる。そこには、女性の排除による男性集団の結束の緊密性の確保、より高度な礼と義の関係を築く、という新しい目的意識=尚武の気風があります。義として浮気を堅く戒め、命を捨てる覚悟(葉隠)。これは「二君に見えず」という思想=主君への恋心に通じるとされ、それゆえに衆道の美意識は、「刀」に尽きると言い切れるのではないでしょうか。桜の下、白い着物をつけた美少年、切腹による赤い血はイメージ通りでしょうし、江戸初期、死を賭した恋として、仇討ち、殉死が頻発したのではないでしょうか。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.30 )
日時: 2005/04/02 14:43
名前: 微々美々

・・・結論が抜けていました。
自分の考えでは、信玄公と高坂弾正の手紙もそうですが、いわゆる「イヤらしい」感覚での「手紙」や「関係」では無いと思っています。(爆笑するネタではありますが)
ただ、現代の感覚と当時の感覚ではかなり開きがあったんだな・・・と思っていますが・・・。
フロイスの「日本史」にも女性は「歯をわざと黒くし、顔を白く塗りたくり過ぎて、まるで「化け物」のようである」といった記述もありましたし^^;

メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.31 )
日時: 2005/04/02 17:42
名前: かばちゃん

この時代の「寝る」の意味は同じフトンで寝るってことですかねぇ?それとも肉体関係になってしまうんでしょうか・・・
だとしたら信長と利家・・・ショックだなぁ・・・
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.32 )
日時: 2005/04/02 23:26
名前: 加藤清正に関すること

加藤清正(かとう きよまさ)
生没年:1562(永禄5)年〜1611(慶長16)年 仕官先:豊臣家
別名・通称・官位:虎之助・従五位下・主計頭・従5位上・侍従・肥後守
親族:父 加藤正左衛門清忠 妻 清浄院

    父は尾張の土豪。生まれは尾張国愛知郡中村。
幼時に父を亡くし、母が豊臣秀吉の生母の叔母に当たる事から、秀吉子飼いの将になる。
(すなわち・・・血縁関係的には清正の方が上?(秀吉の生母と従兄弟になる?))
天正4(1576)年、秀吉の居城長浜村付近に秀吉から170石を与えられる。
同11(1583)年、賤ケ岳の戦いに於いて抜群の戦功を上げ、
「賤ケ岳の7本槍」の一人として、3千石の加禄となる。
同13(1585)年には、従5位下・主計頭に叙任(任命の事)される。
そして、秀吉の九州征伐にも従軍し、佐々成政が肥後を没収されると、
同15(1587)年に、肥後半国25万石を与えられ、熊本に居城する。
文禄・慶長の役では、朝鮮の2王子(順和君・臨海君)を捕らえるなど数々の軍功をたてた。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.33 )
日時: 2005/04/02 23:28
名前: 加藤清正に関すること

続き
しかし、この朝鮮出兵頃からの過程で石田三成・小西行長らと不和になる。
その後、秀吉の勘気をこうむるが、
慶長元(1596)年、京都の大地震に際し伏見城に赴いて、秀吉の勘気を解いた事は、
「地震加藤」としての逸話として有名。
しかし、関ヶ原の合戦では三成嫌いが高じて徳川方につく。
この時清正は黒田如水と連携して、九州の諸城を落とした。
戦後は肥後全域52万石に封ぜられる。
同10(1606)年には「従5位上侍従・肥後守」に叙される。
戦後の清正は、名護屋城の普請等の工事を率先して引き受ける一方で、
秀吉の旧恩に応えて秀頼の保護にも尽力。
同15(1611)年の二条城における秀頼と家康の会見においては、
懐に短刀を忍ばせて秀頼を守ったという。
しかし、翌16(1612)年に、熊本にて死去。
槍の名手であると共に、築城・干拓・治水の名手としても知られる。
武に優れながらも政にも通じた名将ですね(^^
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.34 )
日時: 2005/04/02 23:38
名前: 上杉謙信に関すること

上杉謙信(うえすぎ けんしん) 1530〜1578 
○長尾氏 虎千代 平三 景虎 輝虎 政虎 弾正少弼
◇父:長尾為景 養子:上杉景虎、景勝
 当主の兄長尾晴景と争って勝ち、越後守護代を譲られる。関東管領上杉憲政や信濃の諸豪族を援け、利よりむしろ義を通して各地を転戦し、相模・北条氏、甲斐・武田氏等の強敵と度々争った。特に武田氏との5度にわたる川中島の戦いは有名。又、2度上洛して天皇、将軍に謁見献納している。1561年上杉氏に改姓して、憲政より関東管領職を譲られた。一方北陸方面にも勢力を拡大して加賀能登を制し、1577年には織田信長軍を加賀・手取川に敗っている。兵の総動員を発して上洛を図るが、出陣を前にして49歳で急死。毘沙門天を崇拝し、一生不犯を通したといわれている義将。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.35 )
日時: 2005/04/03 13:16
名前: 微々美々

これはスゴイですね・・・。
さすがです^^。改めて勉強させて頂きました。
お礼を兼ねて、こちらも幾つか逸話を載せて置きますね^^

まず、清正公こと、加藤清正について。
清正公社を訪れたことがあるのですが、そこのお祭りに興味深いものがありました。「鬼祭り」というものです。
加藤清正が少年時代に、叔父の家に寄寓していた頃、深夜に賊が侵入したとき、清正が鬼の面をかぶって現れると賊は驚いて逃げ去ったという逸話があるのが、この神社で、この鬼の面をかぶり、鬼退治を模した行列が町を練り歩くのが「鬼祭り」です。
もう1つは歌舞伎の演目でもある、「地震加藤」について。逸話としては、こんな”オチ”が付いています(笑)
慶長元(1596)年、京都の大地震で豊臣秀吉が造らせた京都方広寺にあった大仏も倒壊しました。
秀吉は「国家安穏を願って造った大仏が、地震の予知も出来ないとは。この役たたずめ!」と怒りながら、大仏めがけて矢をいかけたという話が残っています。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.36 )
日時: 2005/04/03 13:34
名前: 微々美々

続きです。”越後の龍”上杉謙信公についての逸話を。
上杉神社にも訪れたことがあるので、そこに伝わる謙信公の恋歌を。
「つらかりし人こそあらめ祈るとて 神にもつくすわがこころかな」
史料としては、「松隣夜話」というものに謙信公の「恋」の話が記されています。相手の女性は、上野の平井城主、千葉采女(うねめ)の娘、伊勢。謙信と深い仲となるも重臣により、二人は引き離されてしまいました。その後伊勢は、年明けに青龍寺という寺で尼となったと言います。寺の老尼の話では、17歳で髪を切った伊勢は、寺坊に閉じこもり時折、涙を流していたそうで、
「諸共に見しを名残の春ぞとは けふ白川の花の下かけ」と言う歌を残しています。

本当かどうかは不明ですが、切ない話だな・・・と思います。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.37 )
日時: 2005/04/03 16:50
名前: 辻斬り一代

明智光秀
あけち・みつひで
?〜1582
明智光隆の子。織田氏家臣。前半生は不詳とされる。が、1568年頃までに朝倉氏家臣となった。15 68年足利義昭が織田信長に身をよせるにあたって、その仲を取り持つ役目を勤めた。同年、織田信長 が、足利義昭を奉じて上洛すると、これに従った。その後は足利義昭と、織田信長の両陣営に属して、 京都の諸政にも関与した。織田軍の有力武将として各地を転戦し、1571年には近江坂本城を与えら れる。このころから足利義昭と疎遠になり、1573年、足利義昭が織田信長に反旗を翻すと、進んで この征伐に参加した。1575年から丹波攻略を手がけ、松永久秀、荒木村重らが織田氏に対して反乱 を起こすとこの討伐にも参加した。1579年まで各地を転戦しながらも丹波の制圧を完遂、丹波一国 を与えられる。1582年、武田攻めに参加。同年、京都本能寺で中国地方の毛利氏攻めを準備してい た織田信長を急襲、織田信長を自害に追い込んだ。さらに二条城を攻め、織田信忠も討ち取る。同年、 羽柴(豊臣)秀吉が兵を返して京都へ侵攻すると、これを山崎で迎え撃つが大敗。坂本へ退却しようと する途中で土民に殺害された。武将としても有能であったが、経済、政治にも非凡な能力を発揮。また 茶の湯や、連歌などの文化的な教養も持ち合わせていた。
メンテ

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