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決戦3「史実」探検スレッド
日時: 2005/03/27 01:40
名前: 微々美々

決戦3に登場する時代背景・武将・合戦etcについて
「あの合戦って歴史上はどんな戦いだった?」とか「好きな武将の史実を知りたい^^」とか「装備品の由来は?」などの疑問・質問を是非皆様で考えて見たいと思い、スレッドを立ててみました。(決戦3を楽しむ上で史実を知ると、もっと楽しいかな・・・というのが自分の考えですので)

決戦3に登場する、”歴史”に関するものであれば、自分の知っているもの、調べて何とかなるものであれば、可能な限りお答えして見たいと考えています。
もちろん、知らないことの方が多いのは”当然”なので、そこはこのスレッドの趣旨に興味を持たれた方がいましたら、是非、ご協力頂きたいのですが・・・
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.58 )
日時: 2005/04/04 12:54
名前: 伊達政宗に関すること

続き
政宗は二本松城を攻めようとしていたが、畠山義継は50人ほどの兵を連れ、小浜城にいた政宗にわびに来て、所領はけずられたが許された。翌日義継は、御礼と称して輝宗の陣所の宮森城(小浜城)に来た。

義継は礼を述べた帰りがけ、門まで送ってきた輝宗をとつぜん拉致し、脇差を輝宗の胸元につきつけながら、二本松に去ろうとした。

主人を人質にとられた伊達家の家来たちは手出しできず、畠山主従の一団をとり囲みながら、阿武隈河畔の高田ヶ原(高田の渡し)まで追ってきたところで、この日早朝から鷹狩りに出ていた政宗が急報を聞き、駆けつけた。

輝宗はこのとき、政宗に「義継を討て。自分にかまって伊達の恥にするな」とさけんだと言われる。政宗は家来に鉄砲の一斉射撃を命じ、義継は輝宗を刺し殺して、小高い丘に上がり切腹して果てた。残りの畠山の従者は一人残らず討ち殺され、伊達の家来たちは義継の死体を切りさいたという。

この事件の原因は、畠山方の計画的な行動だったとも、輝宗が義継を斬るという風聞があったためとも言われるが、真相はわからない。

こののち政宗は、父の仇の義継の嫡子、国王丸の二本松城を攻めるが、佐竹、芦名らは連合軍3万となり援軍に寄せたため、8千の兵をもって応戦。人取橋の戦となる。一族伊達成実の奮戦で勝利をおさめ、8ヵ月後に二本松は降伏。以後、政宗は近隣の小豪族を討ち平らげ、苛烈なほどに所領を拡大していく。

天正17年(1589)、摺上原の戦においては、磐梯山の麓で芦名、佐竹連合軍1万6千に対し、2万3千の大軍で立ち向かう裏で、芦名氏の家来、猪苗代氏の内応などもあり、圧勝の上、葦名氏を追放。居城黒川城を奪い、本拠を米沢城から黒川城(今の会津若松城)に移す。芦名義広は実家、佐竹氏に身を寄せた。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.59 )
日時: 2005/04/04 12:56
名前: 伊達政宗に関すること

続き
これにより政宗は奥州66郡の半分、30余郡(沿岸を除く福島、宮城両県と岩手県南部、山形県南部)を手中におさめたが、中央で天下を握っていた秀吉は、この事を叱咤。これに対して政宗は、適当な申し開きをしている。このころから秀吉をはじめ、その周辺の権力者と文通し、贈り物などしつつ中央の情報にもある程度通じていたと思われる。

政宗が実力で奥州を制覇していた時期はわずか5年ほどであり、この後、侵略や統一の戦はしていない。

政宗の家臣団は、一門、一家、準一家、一族などがあり、血縁や臣従の過程の違いにより分類される。

一門は一族衆の中でも伊達姓を許され、代表として伊達成実がいる。他に石川、留守、亘理、白石、岩城などの諸氏。一家は遠戚による譜代重臣であり、鮎貝、小梁川、石母田など。準一家は外様衆で、芦名氏や二階堂氏の旧臣、大名家などから政宗の代に臣従した氏族。一族は譜代で、大立目、遠藤、茂庭、原田などがあり、茂庭義直、綱元親子がこれである。

一族以下に宿老、着座、太刀上、召出などがあり、片倉重綱は着座であったがのちに一家に昇格。遠藤元信も商人の出身であったが、政宗はこうした低い身分からも登用したという。

天正18年、秀吉が小田原征伐を開始。かねてより文通のあった秀吉の側近前田利家や、浅野長政からも知らせもあり、また政宗の放っていた情報網からも窺い知れたに違いないが、政宗はなかなか腰を上げなかった。

理由はよくわからない。当時、四国の長宗我部氏、九州の島津氏が結局、征伐を受けるまでは従わなかったが、この心境に似たものか、中央から距離を隔てていた事に安心していただけか、城中の重臣の意見が分かれたとする説もある。

しかし、次々に入る知らせを受け、ようやく小田原参陣を決意。ここでまた事件勃発。

通説では、政宗が出発する前日、母に食事に招かれたが、政宗の膳を膳番が毒見したところ、血を吐いて倒れたという。政宗は直ちに帰って弟小次郎を呼びよせ、これを斬った。

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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.60 )
日時: 2005/04/04 12:57
名前: 伊達政宗に関すること

ホント長いんです
すでに秀吉の怒りにふれた政宗を毒殺し、弟小次郎を立て、伊達家の安泰をはかろうとした母の計画で、その黒幕は、母の実家最上氏であったともいい、また一説には、母がかねがね伊達家の家督を小次郎に継がせたっており、領国を留守にするにあたって、政宗が打った大芝居だともいう。何しろこのあと、政宗の母は実家最上氏のところに去っている。

天正18年5月9日、会津を発ち、北条の領地をさけて回り道して、6月5日に小田原到着。

秀吉は面会を許さず、底倉(神奈川県箱根町)に蟄居を命じ、それまでの振る舞いについて詰問させたが、政宗は理由を申し開きし、6月9日、構築中の石垣山城に呼ばれて秀吉に面会し、領地を削られはしたものの伊達百余万石を安堵され、6月25日会津に帰国。7月、秀吉の命に従って米沢に移った。

このとき秀吉は、白衣(死装束)で現れた政宗の首を、杖で打ち、「もう少しおくれて参着したら首が危なかったものを」といったという。

また、自分の刀を政宗にもたせて伴をさせ、石垣山の頂上から小田原の布陣を説明したので、政宗は秀吉の肝の大きさに驚いた、などと伝わっているが、今さら秀吉を害せば返って伊達家の破滅は免れないので、恐らくは後世の付会であろう。

小田原城を落とした秀吉は8月9日、会津にて奥州の配置を定め、会津に蒲生氏郷を42万石で入れ、政宗は岩出山城に移った。

この際、検地や新領主らの不手際により、大崎、葛西氏の旧領を与えられた木村吉清(5千石から30万石の大名に抜擢)の所領をはじめ奥羽各地に百姓一揆が起きた。

蒲生氏郷と政宗は鎮圧を命じられ、氏郷は鎮圧に活躍したが、政宗はむしろ一揆を煽動したと言われている。

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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.61 )
日時: 2005/04/04 12:59
名前: 伊達政宗に関すること

はぁまだまだ
この頃、会津黒川にて92万石の大大名に一躍昇進していた蒲生氏郷は、秀吉により政宗の監視を命じられ、氏郷は政宗に謀反の疑いありと報告したとも言われ、政宗は、新任大名たちの失政を煽り、奥羽全領の支配をねらったと見なされ、秀吉から京に呼ばれて詰問を受ける。

この時、政宗が死装束に金箔の磔柱を用意して弁明につとめた話が有名だが、実際には、蒲生氏郷の突然の病死と、徳川家康や前田利家のとりなしという好材料に恵まれて無事を得たと見る方が妥当だろう。

が、政宗自身に知己が多かった事も確かで、特に和歌の教養は、秀吉主催の歌会に多く呼ばれている事からもしのばれる。他に茶道、書道、能、香道などが知られている。

文禄元年(1592)の朝鮮の役にあたり、政宗は千人の将兵を引き連れて上洛し、軍装の壮麗さで秀吉にほめられている。予備軍として肥前の名護屋城につめ、翌2年(1593)4月から8月の間は渡海。南朝鮮で戦い、9月名護屋に帰陣。

文禄4年(1595)岩出山に帰国。7月、関白秀次が秀吉のために自殺すると、政宗はこれに連座して秀吉の怒りを招き、伊予に転封させられそうになったが、家康のとりなしにより無事を得た。

関ヶ原の戦いでは家康に通じ、会津若松の上杉景勝を攻撃。戦後は千代(仙台)に城を築きはじめた。

岩出山城は居城としては手狭さで、地理も悪かったため、千代の築城では、規模や領国統治の条件を考慮し、城が完成し、千代を仙台と改めると城下町の経営に力を入れている。

仙台城は、大手門を肥前名護屋城から移し、桃山風の書院造りなどは、秀吉の好みにも似て豪華なものであったが、天下も定まり、領土拡大の不可能を見通したのか、武備としての天守、城の飾りとしての天守の趣きは感じられない。

この時期、政宗は秀吉の遺命を破り、長女五郎八姫と家康の六男忠輝との婚約を成立。この後も嫡子忠宗に、徳川二代将軍、秀忠の養女振姫を正室に迎えるなど、徳川家と密接になっていく。

ちなみに政宗は、十指に余る子供に恵まれている。嫡子となった忠宗は正室愛姫の生んだ二男であり、庶長子、秀宗は分家の上、四国の宇和島伊達氏の藩祖となる。また九男宗実は、伊達成実の養子となっている。



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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.62 )
日時: 2005/04/04 13:01
名前: 伊達政宗に関すること

続き
政宗には逸話が多いが、徳川政権が安定してからは、武将としてより外様大名として保身する話が多い。

家康が政権を握ると、外様大名はつぎつぎと江戸参勤して妻子を江戸に居住させ、家康に二心なきを証明したが、政宗は諸大名に先がけて子の秀宗をいち早く江戸に送った。

あるとき、政宗が京都から歌舞伎の一団を仙台に呼んで興行させたが、武将の中には、かつての勇武な政宗と比べて嘆く者も多かった。が、加藤清正は、「さすがに伊達」と、さっそく熊本にも歌舞伎を呼んで興行させた。これも大名たちが遊芸にふけっている方が、幕府に怪しまれないと思ったからだという。

慶長16年(1611)ごろ、宣教師パードレ・ソテロによって切支丹に興味をもち、城下での布教を許したが、同18年(1613)にローマに派遣した支倉常長が、元和6年(1620)に日本に帰る間に、切支丹禁令が発せられたため、帰国した常長を牢につなぐことになる。

大阪の陣においては、はじめから徳川家に荷担。夏の陣で豪将、後藤基次を討ち取っている。

元和元年(1615)、伊達家江戸屋敷が火事にあったが、修理は小規模で済んだ。しかし政宗はこわして新築しようとしたので、重臣は万一のための軍資金をこそ案じた。政宗は「天下太平で戦乱の起きる心配もない今、万が一には公儀から軍資金は借用すればよい」と一笑し、屋敷を建て直した。これも、江戸に贅沢な屋敷を建てて幕府に見せ、警戒を解くためという。

徳川家光が将軍就任のとき、諸侯を集めて「祖父家康、父秀忠は諸侯の授けを得て将軍となったが、自分は生まれながらの将軍であるから、すべての大名方は今後は臣従の礼をとるべきだ。異存があれば直ちに国元にて一戦の準備をされよ」と言った。政宗は居並ぶ諸侯の前に出て、「政宗はもとより、諸侯にも異存のあるはずがありません」と平伏したので、みな同じように頭を下げたという。

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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.63 )
日時: 2005/04/04 13:02
名前: 伊達政宗に関すること

終わり
政宗は家光の前では、常に腰の大脇差を控えの間に置いて席に着いたが、家光は、家康、秀忠、家光の三代に仕えた政宗に報いて、特に脇差を許した。政宗は、「家康公、秀忠公二代には、戦場で御恩に報ゆることもできましたが、上様にはそれらしきこともできませんのに、ありがたお言葉をいただき、御恩は死んでも忘れません」と答え、心地よく酩酊して大いびきをかいて寝てしまった。家光の近習が政宗の大脇差を抜くと、中身は木刀であったという。

政宗の晩年は家光によく愛されたようであり、政宗が病床につくと、家光は直接見舞ったり、医者の手配をしている。

寛永13年(1636)5月24日、江戸の桜田藩邸にて政宗死去。70歳。官位は従三位権中納言、陸奥守。近年の発掘調査によると、死因は食道噴門癌による、癌性腹膜炎と診断された。

辞世「曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照してぞ行く」。
他に「馬上少年過ギ、世平白髪多シ、残躯ハ天ノ赦ス所、楽シマザレバ是レ如何」が有名。

のち伊達騒動などの危機もあったが、伊達家は安泰で明治を迎えた。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.64 )
日時: 2005/04/04 13:39
名前: 辻斬り一代

さすがです。7レスにも及ぶ伊達家の真実・・・・・
魔可ですね〜(笑)ほんっとに伊達の情報はありがたいです。それより名前は何ですか?(HN)
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.65 )
日時: 2005/04/04 14:23
名前: 武田信玄に関すること

(1521〜1573)

武田氏は八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光の末裔で、義光が甲斐守として甲斐に来て以来、義光−逸見冠者義清(義光次男)−清光−信義(清光次男)。この信義が武田の地に住み、武田姓を名乗った。

信義は源平の時代、頼朝を助けて甲斐源氏の頭領格となり、以後武田氏は徐々に甲斐国を領して、代々守護職をつとめた。

信義から14代の信虎は親族との抗争に勝ち抜き、甲斐統一を果して戦国大名へと成長し、武田氏はまさに隆盛期を向かえた。ちなみに守護大名から戦国大名に脱皮した大名は他に、今川氏、島津氏、大友氏があげられ、これらと並んで大変な名家とも言える。

大永元年(1521)、信玄は信虎の長男として、石水寺山城にて誕生。母は大井氏。この時信虎は、駿河の豪族、福島氏が甲斐に侵入したためこれを迎え撃ち、福島を討ち取ったので、勝利に因んで、生まれたばかりの長男に勝千代と名付けたと言われているが、一般的な幼名は、太郎とされる。

武田氏の居館は躑躅ヶ崎館であり、一通りの武備を施してはいるが、万一の時には信玄の生まれた石水寺山城(積翠寺山城)を要害の地として立てこもった。信虎時代のこの頃には、居館としても用いられていたようである。海抜800メートル余り、要害山頂にあり、大きな天守や櫓は無いが、篭城の配慮をなし、詰めの城と言える。

天文5年(1536)、元服して晴信と名乗る。後奈良天皇の勅使により、大膳大夫信濃守に叙任。さらにのちに来た勅使、三条公頼の娘を妻に迎えたので、この正室は三条夫人と呼ばれる。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.66 )
日時: 2005/04/04 14:24
名前: 武田信玄に関すること

晴信には前妻として、河越城主、上杉朝興の娘が正室だった時期もあったらしく、これは早世したと見られる。

同年冬、父信虎は、海野口城の平賀源心を攻めたが攻めあぐね、いったん兵を引こうとしたところ、晴信は殿を申し出て、海野口城に取って返し落城させた。

平賀源心は武田氏と同じく新羅三郎義光の末で、「力七十人力」とも、「四尺三寸ばかりの太刀を使える」とも言われる豪傑であったが、信虎は晴信の戦功をあまり評価しなかった、などと言われる。

天文10年(1541)、晴信は、父信虎を駿河の今川義元に預けたまま、信虎の追放に及ぶ。

信虎は勇猛である反面、粗暴な振る舞いが多く、わずかの罪で重臣を手打ちにしたり、妊婦の腹を裂いて胎児の成育状況を調べるなど、残虐行為が多かった、と言われ、晴信は家臣や領民が武田家から離散することを恐れ、重臣とはかった上で計略をもってした、という所が一般的な解釈である。

また、信虎には八男八女があり、その中でも信虎は次男の信繁(左典厩)を愛し、晴信の廃嫡をもくろんでいた、などとも言われるが、これが真実であったとしても、この後から、のちの川中島の戦いで信繁が戦死するまで、晴信と信繁の間に亀裂は見られない。弟は他に、信廉(逍遥軒)、信実(長篠で戦死)、信龍などがいる。

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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.67 )
日時: 2005/04/04 14:25
名前: 武田信玄に関すること

天文11年(1542)6月、晴信は、高遠頼継に諏訪氏と争わせて、上原城に諏訪頼重を攻め、頼重が桑原城にこもると、そこも攻めて城と国を簒奪の上、降伏した頼重には死を与えた。

諏訪氏の領土は甲斐と隣接し、頼重は晴信の妹を娶って親族であった上、諏訪氏は代々諏訪大社の神官であった。晴信は、この頼重の娘を娶り子を成し、諏訪氏を継がせて諏訪四郎としたが、これがのちの武田勝頼である。

晴信(信玄)には七男五女(六女ともいう)があったらしく、長男義信(のち自害)、次男竜宝(芳)(出家)、長女と次女までが、母を三条氏としている。三男は早世。長女は外交として、いわゆる三国同盟により北条氏政に、次女三女は、穴山信君(ご親族衆)と木曽義昌にそれぞれ嫁いで、主に内政を支え、内外ともに充実した婚姻政策であったと言える。他の子女については、また後で触れる。

諏訪氏攻略後は連戦連勝。同12年(1543)9月、大井貞隆を攻め、同14年(1545)、高遠頼継を攻め、高遠城を攻略。同15年(1546)、信濃守護、小笠原家の一族、大井貞清の居城、内山城を落とす。同16年(1547)、北信濃の村上義清の属城、志賀城を落とした。

同17年(1548)、上田原に村上義清と直接対決した時はじめて敗北し、重臣、板垣信方戦死。

その後二年かけて挽回し、天文19年(1550)には林城の小笠原長時を追い、同20年(1551)、村上氏の属城、砥石城を落としたため、二年後の天文22年(1553)、村上義清を破って、ついに村上氏の本拠、葛尾城を攻略した。

居城と領地を奪われた村上義清、小笠原長時などは越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、川中島合戦が勃発。これも含めて信濃攻略戦に20年を費やした。

信玄は領国の防御体制をきわめて厳重に固める武将でありながら、一方で始終、行動的に他国へ進出を続けたが、その第一歩が信濃攻略であった。

甲斐は山に囲まれて守りには堅い一方、決して豊かな国でもなく、重農主義経済の時代にあって、攻撃は最大の防御という考え方に基づかざるを得なかったと推測できる。

また、後にいわゆる三国同盟を結ぶものの、武田氏には東に北条氏、南には今川氏という強敵の存在があったため、中小の豪族が割拠する信濃進出以外に道はなかったのだろう。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.68 )
日時: 2005/04/04 14:27
名前: 武田信玄に関すること

それだけに信濃攻めは、長期戦ひいては自国への併呑まで前提にしたかのような用意周到さが全てにおいて見られ、運輸、補給のため、甲斐と信濃の国境付近に建設された棒道は、あまりにも有名である。

さらに、好んで使われた孫子の旗に一端が現れる情報重視の点も有名で、領国内の要所に狼煙台を設け、ネットワークを張り巡らせたとともに、諜報手段に優れた組織(諸国使い番など=山本勘介がそうであったとも言われている)を有していた事も特徴として上げられ、謙信の出陣を甲府に居ながらにして、二時間以内に知った、とも言われる。

信玄の家臣団は、俗に言う武田24将が有名でもあるが、仕分ければ、まず親類衆に先に触れた弟や男子と穴山氏、木曽氏など。家老格に初期の板垣信方、甘利虎泰、のちに加えて馬場信房、山県昌景、内藤昌豊、高坂昌信、小山田信茂、原昌胤、秋山信友。旗本とするなら、真田昌幸、曽根昌世。

他に信濃方面より真田幸隆、西上野の小幡衆、駿河の朝比奈氏、飛騨の江間時盛。のちに触れる駿河侵攻の際の水軍組織として、土屋貞綱、小浜景隆、向井正綱など。

信玄の生涯で10年以上もの歳月を費やす結果となった川中島合戦は、『甲陽軍鑑』には十数回に及んだように記されているが、2〜3回とも言われ、現在の定説として11年間に5回ほど、と言われている。

第一回は、天文22年(1553)8月、川中島一帯を晴信が得て、長尾景虎は春日山に引き上げた。

第二回は、弘治元年(1555)7月、 晴信は犀川の南岸、大塚に、景虎は信濃の善光寺城山に各々布陣。200日睨み合い、今川義元の仲裁で引き分け。

第三回は、弘治3年(1557)8月、晴信が上杉の属城、葛山城を落し、飯山城を攻めるところで、景虎が善光寺に兵を進め布陣したため、上野原で大戦、武田方の不利で撤退。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.69 )
日時: 2005/04/04 14:29
名前: 武田信玄に関すること

永禄2年(1559)4月、景虎の上京の隙に、信玄は出兵し越後に侵入。翌3年(1560)、上野に北条氏に追われた上杉憲政を援けるべく出兵した景虎の隙をついて、北条氏と結んだ信玄が、前進拠点として築いた海津城(のちの松代城)に入城。(ちなみに、この永禄3年は、桶狭間において、今川義元が織田信長に討たれた年である)

これを聞き、小田原城を攻めていた謙信は急遽帰国。永禄4年(1561)8月、春日山城を発し、川中島の妻女山に布陣。兵力約1万3千。

これが最も有名な、第四回の川中島合戦であり、すでに晴信は徳栄軒信玄と号し、景虎もこの年の3月、関東管領職につき上杉政虎を名乗っている。

出家は、以前より学問(とくに孫子)の師である長禅寺の岐秀元伯が立ち合った。これは甲府に開設した五山の内の一寺であり、信玄は関山派に帰依している。

以後、特別に宗派を限定した向きはないが、信玄は生涯神仏をよく保護し、神道の中では、源氏一門が崇拝する八幡信仰、今一つは武門の守護神、諏訪信仰であり、有名な孫子の旗「風林火山」とともに、「南無諏訪南宮法性上下大明神」を軍旗とした。

仏教では、のちの信長の叡山焼き討ちに対抗し、天台宗の延暦、園城と関係が深く、権僧正に任ぜられ、信玄も叡山の高僧をかくまっている。とくに重んじたと言われる臨済宗では、妙心寺派の高僧たちを甲斐に招き、中に恵林寺の快川招喜がいる。

なお、信玄の学問の知識は豊富で、四書五経、和歌、漢詩に通じ、絵画、書道にも長けていたが、弟の信廉(逍遥軒)は武将であるとともに、殊に絵画の才を持った人物でもある。

8月18日、信玄は甲府を出発。24日、川中島を挟み、妻女山の謙信と相対する茶臼山に布陣。兵力約2万。

9月10日未明、妻女山を下って善光寺方面に向かう上杉軍を、待ち伏せの武田軍が迎撃の形で開戦。当日早朝は広い一帯に深い霧が立ち込め、大軍同志の出会いの瞬間を、のちに頼山陽が漢詩に現して一躍有名となった。曰く、

「鞭声粛々夜渡河
暁見千兵擁大牙
遺恨十年磨一剣
流星光底逸長蛇」


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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.70 )
日時: 2005/04/04 14:30
名前: 武田信玄に関すること

この一戦は講談などでもよく持て囃され、特に、謙信が名馬、放生月毛に乗り、三尺六寸の太刀をふるっって、床机に腰掛けている信玄を切りつけ、信玄は軍配で受け止めた、という逸話はあまりにも有名になり、現地(長野市八幡原古戦場跡)には、今でも一騎討ちの銅像が立っている。

この折、謙信は三太刀切りつけ、信玄は二ヶ所の傷を負い、信玄の旗本、原大隈が信玄を救うため謙信の馬を槍で殴り、馬が狂奔して走り出したため信玄は危機を脱した、などとも伝えられてきた。

しかしこの合戦が長年持て囃された真の要因は、おびただしい死傷者を出しながら、勝敗が明確でない点であり、武田側からは信玄の弟、左典厩信繁、原大隈、諸角豊後、山本勘介など、戦死者を多く出したから内容的に上杉の勝ち、撤退したのは上杉軍であるから結果的に武田の勝ち、両陣の不利を見て総合的にいたみわけ、など、いろいろ言われてきた。

だが、結局のところ、信州の大半を手に入れたのは信玄であり、これによって山県昌景を飛騨に侵入させ、謙信は川中島に又もや出兵。

これにより、第五回は永禄7年(1564)8月とされているが、信玄が戦いを避けたため、川中島合戦はこれで終了した、と見なされる。

信玄の業績は戦国史の中でも特に秀れており、戦術、治世、人間管理、築城など、あらゆる分野に才能と処世述が垣間見られる。

その生涯において、信玄は努めて無用な戦いを避け、ことに領土を得られる確率の薄い戦いには手を出さなかった。その一方、謙信の越後も決して豊かであるとは断じがたいが、謙信は領土欲に薄く、合戦では勝敗を決する型を重んじる武将であった。両者の価値感の違いを考慮すると、一概には勝ち負けを断じにくい。

が、その信玄が、永禄4年の戦いのみ謙信と正面から雌雄を決しようとした事は確かで、その後、第五回の頃、長男の義信(母は三条夫人)と不和になり、義信を幽閉。やがて死に追いやった事情なども合わせ、さらにその後、駿河侵攻以後5年の命であったことを考え合わせると、この辺りが、信玄の番狂わせの始まりだったようにも思わされる。

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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.71 )
日時: 2005/04/04 14:33
名前: 武田信玄に関すること

義信の自殺は、永禄10年(1567)8月。義信の夫人は、いわゆる三国同盟によって嫁いで来た今川義元の娘であったが、一説に、信玄の今川討伐に義信が反対したためとも言われ、そこから義信に謀反の疑いをかけられた、などの憶測も出るようである。

また、駿河侵攻の動機については、上洛および天下統一のため、または資金不足ゆえに今川領の安部金山獲得を目指していため、など様々に言われている。

なお、資金源として何かと持て囃される黒川金山は、甲斐領国内山中にあったが、勝頼の代に生産量が減じたとも言われている。

後に生まれた、側室油川氏を母とする、信玄の五男盛信、四女・五女のうち、一女(信松尼)は、この今川領攻略の布石として織田信長の嫡子、信忠と婚約するが、のちに織田家との関係破綻により解消。

今一女は、これも後に書く信長包囲網強化のため、伊勢長島一向一揆の司令部、顕証寺一門と婚約。勝頼の代になり長島壊滅後に、上杉景勝に嫁いでいる。

永禄11年(1568)、信玄は北条氏と共同して上野に進出。その西半分を獲得して、東海道に侵攻の道を開く。同年、先に義元を失い勢力の衰えた今川家を、徳川家康と共謀して討ち、今川氏真を遠江に追った。(この年、織田信長上洛)

この時、遠江を家康、駿河を信玄、という先の密約により今川領を分割したが、駿河を手に入れた信玄は、元亀3年(1572)10月、兵2万5千を率いて上洛の途につき、遠江、三河攻略を目指して、今度は家康と対決。この後の信玄の動きは、浅井、朝倉、本願寺との連携による、いわゆる織田信長包囲網へと繋がっていく。

遠州に入ると徳川氏の諸城を攻略。12月22日、家康2万の軍と三方ヶ原に決戦。信玄の大勝により戦陣に越年。

またこの上洛戦では、信玄は優勢であり、飛騨、東美濃、東三河、遠江など、全線にわたって織田、徳川の勢力圏を侵食しぬいている。ここまでに信玄の版図は最大となり、越中の一部も加えると、九ヶ国にまたがる拡大を遂げ、同時期の信長には劣るものの、石高約130万石、動員兵力3万人。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.72 )
日時: 2005/04/04 14:34
名前: 武田信玄に関すること

兵力に関しては、騎馬軍団が有名であるが、特別に騎馬軍団が存在したわけではなく、もともと甲斐には馬の放牧が多く、甲斐の黒駒は有名でもあり、名馬には恵まれたようだが、軍団組織(足軽、槍、弓、騎馬)の諸要素の中で、騎馬の比重が他国よりやや多かったにすぎない。

むしろ信玄の得意戦法は、騎馬組織による敵軍の撹乱(騎馬団の突破力を利用し、敵の隙をついて兵を用いる術)であったと思われ、このような、勝利より不敗に徹した作戦は信玄には多く、特に三方ヶ原にはよく見られるとも言う。

天正元年(1573)1月11日、三河野田城を攻略途中に病を得て、甲斐に引き上げる途中、信州伊那の駒場において、4月12日永眠。53歳。

信玄の死因については諸説あり、結核とも肺炎とも言われ、胃癌を唱える人もいる。また『三河後風土記』には、野田城攻略途中、城内の村松芳体なる笛の名手の笛の音に、信玄が心動かされて夜毎聞き入り、これを鳥井三佐衛門なる鉄砲の名手が射撃したところ、信玄の耳を撃ち砕き、この傷がもとで死亡した、ともある。

長い間患う病なら、無理を押しての上洛という不可思議な行動に疑問が残る。笛と狙撃の逸話は、他にも聞くものであり、あまりにも作り話めいているようではあるが、急死でなくては納得できない、後世の人の心理も一因するように感じられる。

また、よくよく有名な信玄の遺言、「三年喪を伏せ」も、上洛戦を考えると疑問が残る。

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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.73 )
日時: 2005/04/04 14:36
名前: 武田信玄に関すること

跡を継ぐこととなった四郎勝頼は、正式な後継者とされてなかったとも言われているが、天正2年(1574)には美濃の明智城、遠江の高天神城を落すなど、一時期、信玄の版図をさらに広げたものの、翌3年(1575)には三河長篠城を囲んで、徳川・織田の連合軍と戦う事になり、長篠合戦において、山県昌景、内藤昌豊、馬場信房など、信玄以来の30人もの重臣を戦死させた上で大敗北。

凋落の中で勝頼は北条氏と結び、勢力の挽回をはかったが、家康と信長の攻撃に親族や家臣の離反などあいつぎ、天正9年(1581)7月、躑躅ヶ崎館と石水寺山城を去り、西北16キロ先の要害、新府城を建築。一説に穴山信君(梅雪)の献策とも言う。

よく、信玄は国内に自分の城を持たず、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という言葉まで残されているかのように流布されるが、むろんこれらは真実ではなく、新府城の築城が、すなわち信玄と考えを異にするというのは当てはまらない。

が、この話の出典は『甲陽軍鑑』であり、この書は、当時の戦争、政治、生活の記録として全30巻にわたって信玄の武将、高坂昌信が残した記録を、甲州流軍学者の小幡景憲が編纂したと言われている。

また同じく『名将言行録』にも、信玄が国内に城を作らなかった、居所は構えも堀も浅く、堀は一重のみ、とした上で、これを心配する老臣たちに述べた信玄の以下の言葉が書かれている。

「史実に城にこもって運を開いた例は少ない。(中略)三ヶ国ほどの大将なら、大きな城に兵力を温存するより、国境で勝敗を決するべきで、大将というものは、兵士を敬い、法度、軍法を定め、合戦を朝夕の仕事と心得、城を造るより作戦を考えるのが大切」。

この一方で、以下の付け足しもある。

「しかし8〜9日ほどの道のりにある国境の城は堅固な地を見立て、丈夫に普請すれば、敵の包囲にも援軍を出して決戦できる、城が堅固でなくては援軍は出せない。合戦と城取り築城は、車の両輪のようなものだ」

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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.74 )
日時: 2005/04/04 14:38
名前: 武田信玄に関すること

勝頼の場合、逆に城を守りぬく兵力に欠けたため新府城での篭城を諦め、これに火をかけざるを得なくなったのだろう。

新府城を出た後、勝頼は天目山に登ろうとしたところ土豪の反抗にあい、天正10年(1582)3月11日、田野にて織田軍の攻撃を受けたため一族自刃。勝頼37歳。勝頼嫡子、信勝(母は織田氏)16歳。これにより武田家滅亡。

夫人北条氏には、その実家である小田原への逃亡を勧めたが聞き入れず、これも自害19歳。

余談ながら、この天目山の周囲には、武田家埋蔵金伝説が多いと言われている。武田氏終焉の同年、家康の紹介を得て、武田家の親族、穴山梅雪が信長に進呈した金2000枚(現在にして50億円ほど)などが、風聞の元なのだろうか。


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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.75 )
日時: 2005/04/04 17:35
名前: 微々美々

>信長が焼香の灰を投げ付けた万福寺

すみません、万福寺→「万松寺」の間違いです。
信長が父の位牌に灰を投げ付けたお寺が、後に「信長」の生命を救う・・・何か因縁めいたものがありますよね・・・。ちなみに「身代わり餅」なかなか美味しいですよ。

ついでに「足利義昭」の異名も追加しておきますね^^
「陰謀将軍」です。こっちの方が”カッコイイ”感じがするので追加しておきます。

もうひとつは、”浅井長政に「側室」がいた”ことですね・・・。
自分的に「コラー^^」な感じなんですが・・・

旅行中に見つけた時の話です。
愛知県春日井市牛山町に「浅井長政銅像」が立っていますが、牛山町に伝わる話だとか。
小谷城落城を前に、多くの女子供が城から落ちて行きました。
その中に長政の側室「八重の方」とその子七郎がいたそうです。
八重の方は、七郎君を連れて美濃に遁れましたが、元禄元年(1592)七郎君20才のときこの地牛山村に移り住み、慶安3年(1650)穏やかに世を去りました。
その子孫はこの地に居住し庄屋の家として幕末まで続きましたが、9代新七は大正2年(1913)故あって神奈川県藤沢市に転居し今日に至っているといいます。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.76 )
日時: 2005/04/04 18:15
名前: 毛利輝元に関すること

毛利輝元(もうり てるもと) 1553〜1625
○幸鶴丸 少輔太郎 右衛門督 右馬頭 侍従 参議 権中納言
◇父:毛利隆元 室:宍戸隆家女、児玉元良女、羽根元泰女、井上就正女 子:毛利右近衛権少将秀就、日向守就隆
 父の死後、安芸・毛利氏当主となるが若年の為、祖父元就、その死後は吉川元春、小早川隆景の両叔父“両川”の後見を受けるが、凡庸な武将であったという。羽柴(豊臣)秀吉と講和して以後は、秀吉に従い、朝鮮出兵では大将として渡海、豊臣家の五大老の一人に列せられた。関ヶ原の戦いでは石田三成や安国寺恵瓊に担がれて、西軍の総帥格になった。合戦では積極的には出なかったが、責任を取らされて防長2国に減封となった。
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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.77 )
日時: 2005/04/05 12:25
名前: 微々美々

「ゲームに登場する場面」の史実パート2です^^
オープニングにも登場する、「鉄甲船」の史実について。(「行くぞっ!」の声がステキです^^)

ヨーロッパで船舶の材料に鉄が使われるようになったのは19世紀に入ってからなのですが、実はそれより以前に建造されていたのがご存知、織田信長が毛利水軍と戦うために建造した6隻の軍船「鉄甲船」です。
天正4年(1576)7月13日、木津川口に展開して、石山本願寺への海上補給路を封鎖していた織田信長の水軍は、本願寺へ兵糧を送り込もうとする輸送船団護衛の毛利輝元の水軍と激しく激突した・・・のですが、結果は織田水軍の大敗。
毛利水軍は得意の焙烙火矢攻撃によって織田水軍に壊滅的な打撃を与え、本願寺への兵糧輸送を果たしてしまいます。

しかし信長はこの敗戦の後、すぐに伊勢の海賊大名・九鬼義隆に新しい大型軍船(鉄甲船)の建造を指示し、わずか2年後に見事な「リベンジ」を果たしています。
重い鉄で装甲した巨船が実戦で役に立つはずもないとたかをくくっていた毛利水軍は、得意の焙烙火矢攻撃は、まったく通用せず、1貫目玉の巨砲の威力にまったく太刀打ちできなかったそうです。

詳しい記録が残っていないので、想像に頼る部分が多いですが、2階建ての戦闘用矢倉の上に3層の天守閣を構え、大砲3門にさらに多数の鉄砲を備えたその偉容は、造船技術で当時圧倒的な先進国だったポルトガルの宣教師オルガンティーノいわく、「王国の船にも似ており、このような船が日本で造られていることは驚きだ」と述べています。
西洋において同様の鉄甲船がヨーロッパで登場したのは、それから約300年後のクリミア戦争の頃でした。

信長の発想はスゴイですよね・・・
メンテ

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