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決戦3「史実」探検スレッド
日時: 2005/03/27 01:40
名前: 微々美々

決戦3に登場する時代背景・武将・合戦etcについて
「あの合戦って歴史上はどんな戦いだった?」とか「好きな武将の史実を知りたい^^」とか「装備品の由来は?」などの疑問・質問を是非皆様で考えて見たいと思い、スレッドを立ててみました。(決戦3を楽しむ上で史実を知ると、もっと楽しいかな・・・というのが自分の考えですので)

決戦3に登場する、”歴史”に関するものであれば、自分の知っているもの、調べて何とかなるものであれば、可能な限りお答えして見たいと考えています。
もちろん、知らないことの方が多いのは”当然”なので、そこはこのスレッドの趣旨に興味を持たれた方がいましたら、是非、ご協力頂きたいのですが・・・
メンテ

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Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.1 )
日時: 2005/03/27 15:21
名前: 微々美々

質問形式の一例を兼ねて・・・1つ載せてみますね。

質問
「アマリアの”専用武器「アロンダイト」「デュランダル」”の由来を教えて?」

回答

アロンダイト(初期装備)
アロンダイトは、アーサー王伝説にある円卓の騎士の中で、最も有名な「湖の騎士」ランスロット卿の愛剣です。
アロンダイトは優れた剣であり、刃こぼれもしないと言われていますが、その活躍の場面はあまりありませんでした。著名な場面は、王妃との関係が発覚し王宮からアーサー王の后ギネビア王妃と逃亡する際、円卓の騎士であり親友でもあるガウェインの三人の弟、ガレス、ガヘリス、アグラベインをこの剣で斬り殺してしまった場面です。このことにより、親友との仲が取り返しのつかないものになってしまった場面が有名なものとされています。

デュランダル
イギリスのアーサー王、ドイツのジークフリートと並ぶ英雄が、フランク王国のローランで、その所有する剣がデュランダルです。
5世紀の西ローマ帝国崩壊後、ヨーロッパのほとんどを統一支配していたのがフランク王国(現在のフランス、ドイツ、イタリア)です。8世紀の終わりにこのフランク王国を治めていたのが、シャルルマーニュ大帝ですが、彼自身も数々の伝説がありますが、特に「パラディン(聖騎士)」と呼ばれていた12騎士の存在は広く世に知られています。そして、その中でも最も優れた騎士がローランと言われています。
伝説では、シャルルマーニュが王になったばかりのころ、ローランは天使よりこの剣を授かりました。天使はローランに神の使いとなり、「シャルルにこの聖剣を与えよ」と命じたのでした。当然、ローランは王にこの一件を報告し剣を献上しましたが、王は剣を見るなりその素晴らしさを見抜き、最も優れた騎士ローランに与えるのが良いと考えたのでした。王は剣を「デュランダル」と名付け、「この剣をもって私を守り、私のために戦って欲しい」とローランに与えました。ローランは感激し、王の為に命を捧げる覚悟を決めたそうです。

こんな感じで返答させて頂きますので、疑問・ご質問などありましたら遠慮なくお寄せください^^
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.2 )
日時: 2005/03/27 21:29
名前: 精鋭槍騎馬

青龍堰月刀

三国史で有名な関羽が愛用していたらしいです。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.3 )
日時: 2005/03/27 22:27
名前:

ちょっと気になったんですが。

帰蝶が「今巴」ってのは決戦Vのオリジナルなんですかね。
最近大河ドラマに巴御前が出始めたので「へぇこれが例の」
と思いつつ観てたんですが…
しかしよくよく考えてみると濃姫が武芸が達者だなんて話は
決戦Vくらいでしか聞かないし、いざ「今巴」で検索してみても
帰蝶につながるどころかそういう呼び名で誰かが呼ばれたなんて
話も引っかからないもので。
武将列伝にも「今巴」の文字があるのは「【史実】」の下
じゃないですし。
その辺ちょっとうかがいたく。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.4 )
日時: 2005/03/27 22:28
名前: 微々美々

早速の書き込み、ありがとうございます(嬉)
それでは、「青龍堰月刀って何でしょう?」と言うことで回答させて頂きますね^^

青龍堰月刀
大刀の一種で、重量は82斤(約18kg)あったとか。「三国志」登場の美髭公・関羽の愛用武器ですが、他には関羽の子孫で「水滸伝」に登場する関勝も使用していたとか。
しかし時代考証をすると、三国時代にはまずなかった武器だと言われています。
理由は・・・以下の通りです。
三国志中最も名高い武器の一つ、関羽の青龍偃月刀ですが、長い柄に幅の広い片刃の刀身を付けたこの武器を中国では大刀と呼んでいます。(日本で言うところの薙刀といえるかも)
しかし、「大刀」が確立されたのは唐の時代のことですので、関羽は「偃月刀どころか大刀すら持っていたとは考えにくい」と言うことがわかります。これは、「三国志演義が確立されたのが明の時代」であることに由来していると考えられます。
大刀の史実で著名なところでは、
宋の将軍・岳飛は両翼に大刀を標準装備する重装歩兵によって金軍の誇る重装騎兵を撃退しています。
蛇足で
中国の刀と言うと「青龍刀」と答える方が多いと思いますが、実は・・・間違いだそうです。
中国で一般に刀と呼ぶものは「柳葉刀」のことで、ちなみに「青龍刀」とは「三国志」で有名な「関羽の青龍偃月刀」の事を言うそうです。
(日本刀も中国では剣ではなく「倭刀」と言うそうですが、刀のカテゴリに入るそうです)

メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.5 )
日時: 2005/03/27 23:10
名前: 微々美々

「今巴」「帰蝶」「巴御前」の関連性は?と言うことで回答させて頂きますね^^

まず帰蝶=今巴の史実・・・ありませんでした。
自分が見聞きした史料で帰蝶に関わるのは武功夜話、美濃国諸旧記、改訂信長公記、勢州軍記ですが、武芸達者の記載はありませんでした。
恐らくゲームの設定かと(実は残念なのですが)。
「今巴」の元ネタですが・・・
史実として、過去に立てた女武将史実スレ以外で、武将として知られる女性は、自分が知る限りだと
甲斐姫 (成田氏長娘) 、つや姫(織田信長叔母)、義姫(伊達政宗生母)ですね・・・。
「巴」の名は武器にも付いています。
薙刀は武家の婦女の武術として行われたので、嫁入り道具の1つにもなったそうです。さらに、男型のものを静型、女型のものを巴型と呼称しています。静(しず)とは源義経の妾の静御前、巴は木曽義仲の妾の巴御前の所持という意味だそうです。


メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.6 )
日時: 2005/03/27 23:24
名前: 微々美々

「今巴」の続きです^^
巴御前について載せて置きますね・・・
「巴御前」という人物は、史実として存在はしていませんでした。「御前」はそれなりの身分のある人に使う言葉と言うのが理由ですが・・・。
「静御前」も同様です。白拍子に「御前」とは付かないのが通例ですので。「平家物語」でも、「源平盛衰記」でも、「巴」「静」で記載されています。
みなさんご存知の、「平家物語」では美女(=端女)とされています。説によっては木曽義仲の正室とされているようですが、「源平盛衰記」には、義仲は巴との別れ際に「妻子に自分の最後を伝えよ」と言い残しています。他の諸本では、「源平闘諍録」に巴は樋口兼光の子と記載されています。年齢は諸本によってまちまちです。
鎌倉時代の正史「吾妻鏡」には木曽義仲の身辺に控える巴という女武者について一言も触れられていないことを考えると、彼女は「いた」とも言えるし「いなかった」とも言えるのでは?
最期に武人の由来としては・・・
平家物語の「木曽最期の章」に、巴が大の男と組みうちして、馬から引きずり落としたあげくに首をねじ切った、という記述があります。
むしろ巴御前が女武者として名を轟かしたのは、井上靖先生の歴史小説によるところが大きいのでは?片手に愛する人を、片手に武器を持ち、馬にまたがった巴御前の勇姿は確かにカッコイイですし^^
そこから「今巴」という設定につながったのではないかと推測しています。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.7 )
日時: 2005/03/29 20:23
名前: 微々美々

>「今巴」の元ネタですが・・・
誤解を招きそうなので訂正を。
「今巴」の異名はゲームオリジナルです。
史実としては存在はしていません。念のため^^

ちょっと話がそれますが・・・
帰蝶の初期装備「小袖」に「蝶」の意匠が施されていますが、実は・・・家紋の一種「蝶紋」もモチーフの1つでは?と自分は思っています。

ちなみに「蝶紋」の由来は平貞盛が天慶の乱を鎮圧した功により、朝廷から頂戴した鎧に「蝶」の文様があったので、この文様を平家の家紋としたそうです。この鎧の蝶はアゲハチョウの文様だったので、これを「元紋」ミカドアゲハ(帝揚羽蝶)とし、「副紋」アゲハチョウ(揚羽蝶)を平家の家紋と定めたといいます。
平氏の子孫を称した織田信長も木瓜紋とともに「蝶紋」を使用していました。
織田信長の天下統一が成し遂げられるかと言う頃、当時の政治風潮として源平交代説がありました。平家の後に源氏、それから北条平氏、次が足利源氏、それで次は平家と信長は考えたといいます。そこで、
信長は自分の先祖は平重盛の子、資盛の後裔として平氏の揚羽蝶を用いたという説があります。
なので、信長の正室である帰蝶が「蝶」の鎧をゲームで装備していても、”ミョーに納得”してしまった所がありました。
・・・さすがにコレは「深読みし過ぎだろ!?」とも思っていますが^^;

まだまだ、疑問・質問は募集中ですので、興味をお持ちの方は是非書き込んでください。

メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.8 )
日時: 2005/03/29 20:45
名前: かばちゃん

ほんとすっごい詳しいですねぇ^^
歴史の先生ですか?^^
 
素朴な質問なんですが、史実では帰蝶と明智は昔ほんとに恋仲だったんでしょうか?
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.9 )
日時: 2005/03/29 21:34
名前: 微々美々

自分は単なる「歴史好き」というだけで・・・歴史の先生のようなご大層な身分ではありませんが(笑)
(”人、それを「マニア」という”と言ったところでしょうか^^;)

では、本題に。
「帰蝶」「光秀」は史実上恋仲だったか?について回答させて頂きます。

自分の知る史料で「恋仲」としているものは、「明智軍記」ただ1つでした。
内容としては、斉藤道三と小見の方の間に生まれた唯一の娘帰蝶が一歳年上の信長に嫁いだ時、道三の近習に十兵衛という少年がいました。小見の方は明智光継の娘で、十兵衛の父光綱と兄妹の間柄なので、十兵衛は小見の方の甥に当たり、帰蝶とは従兄妹の関係に当たります。この従兄妹同士は親密だったようです。やがて十兵衛は光秀を名乗り、人知れず将来を誓い合うようになりましたが、父道三が嫌がる濃姫を政略の道具として信長に嫁がせた為に、光秀の信長への憎悪が募り、また帰蝶も意に沿わない結婚であったことから、本能寺の変の時に信長を裏切って光秀に味方したと言われています。
この話が本当かどうかは不明ですが、彼女の史料が少ないことから、歴史小説や講談ではしばしば取り上げられた話題でもありました。

自分は、二人の間に「恋愛関係は無い」と思っていますが・・・

メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.10 )
日時: 2005/03/29 22:00
名前: 微々美々

「帰蝶」「光秀」は史実上恋仲だったか?の続きです。
光秀の妻、煕子(ひろこ)について載せておきますね。
「武家義理物語」によると、煕子(ひろこ)は美濃の妻木勘解由範煕の長女として生まれました。同じ美濃の明智光秀と縁談が決まった後に、彼女は疱瘡にかかってしまい、一命は取り留めましたが顔にあばたが残ってしまいました。
妻木家にとってはなかなか良い縁談だったので、事実を話せば折角の縁談も壊れてしまうと思い、結婚式の当日、妹を明智家に向かわせました。ところが、当日光秀はその事実をしって、自分の相手は妹ではなく、たとえあばたになろうと姉の煕子だといいはり、彼女を迎えにいきました。
彼女はこの事に深く感謝し、献身的な愛を光秀に捧げたそうです。
煕子の逸話としては・・・
「絵本太閤記」に光秀が越前の朝倉義景に仕えている頃、仲間同士で飲んだり食べたりする習慣があり、持ち回り制でしたが、貧乏なため満足な支度ができません。そこで、熙子は自分の黒髪を売りもてなしたと言う逸話が記されています。
ここまでしてくれた煕子に対して、光秀は生涯側室は持たないと誓い、それを実行したと言います。ちなみに、この二人の間に生まれたのが荒木村重の妻や細川ガラシャです。
これ以外に笑えるエピソードも^^
出典は不明ですが、煕子(ひろこ)は絶世の美人でもありました。
光秀が織田家に仕えてすぐの頃、煕子の噂はたちどころに広まった為、ついにある武士が信長に「煕子様は織田家で一番美人だ」とまで言ってしまい、その事を聞いた信長は一度見てみようと思い廊下の角で待ち伏せをしました。そして・・・
煕子がやってくると、信長がうしろから肩に手をかけました。この時、煕子は「無礼者!!」と、持っていた扇子で信長の頭を叩いて逃げてしまったと言います。
 
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.11 )
日時: 2005/03/30 07:41
名前: かばちゃん

戦国無双っていうゲームでは本能寺の変で濃姫が裏切ってたなぁ  意味合い的にはそういうことが隠されてたんだぁ
おいらとしては今回の信長や明智 帰蝶などのキャラクターが一番理想的です^^大河ドラマなどの信長はまさに鬼っぽいとこがあったけどやんちゃな男って感じの方が好感もてるし^^

メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.12 )
日時: 2005/03/30 10:13
名前: 佐々成政ゆかり

明智城について
光秀の居城であった明智城は1.可児市の長山城(現在、私の住んでいる団地の裏山)、2.恵那の明智城の二説がありました。(他の場所という風説もあるようですが)
現在では1.可児市の長山城が通説のようですが、微々美々さんの見解を教えてください。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.13 )
日時: 2005/03/30 21:17
名前: 微々美々

「明智城」の所在は一体どっちだったの?ということで回答させて頂きますね。

明智(明知)長山城 所在 可児市瀬田長山
明智長山城は、康永元年に土岐頼兼が築城したとされており、頼兼は明智氏を称しています。 
美濃国諸旧記によると、康永元(1342)年、明智次郎長山下野守頼兼が明智長山城を築きました。頼兼は土岐初代美濃守護の弟頼重より明智庄を与えられて分家しました。明智庄は15世紀中頃に斎藤氏の支配下にあり、頼兼より代を経て駿河守光継となり、光継の子十兵衛光綱は谷汲の山岸貞秀の娘(小牧)を妻としました。享禄元(1528)年、小牧の方は18歳で光秀を産んでいます。幼名は十次郎(又は十兵衛)といいました。
決戦3にある「明智城救出戦」はこの史実が元ネタになっています。
「天正2(1574)年春武田勝頼2万の大軍を以って、東濃の諸域を攻略、三河、尾張。遠江、駿河への拠点明知城を目指す。城主遠山一行が叔父利景とともに急を織田信長に報じ兵500とともに之を護る。
信長、事の重大さを思い明知城を助けんと、子、信忠とともに兵3万を率い明知城の西方鶴岡山に布陣するも、武田の将、山県三郎兵衛昌景千騎を以って信長の退路を断つ。信長山岳戦の不利を思い、動かずやがて兵を引く。」という内容です。

メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.14 )
日時: 2005/03/30 21:19
名前: 微々美々

続きです。

明智城(白鷹城) 所在 恵那市明智町城山
武功夜話によると、宝治元(1247)年、源頼朝の重臣、加藤次景廉の孫である明知遠山氏の始祖、景重の築城による遠山氏累代の居城であったといいます。要害の築城ではなく、その山麓の砦であったとされています。
明智遠山氏は代々鎌倉幕府に仕えた一族であったとも。11代景行は織田信長に仕えたが、元亀3(1572)年、武田信玄が南信濃より恵那郡を攻めた時、景行は一族を率いてこれを防ぎ、上村(上矢作町)において討ち死にしました。この時明智城も武田氏の支配下に置かれてしまいます。その後信長は長篠戦で武田勝頼を破り、東信濃から武田勢を一掃すべく、恵那郡に軍を進め、岩村城はじめ攻め落とし、明智城も取り返したといいます。
また明知町には、千畳敷公園、龍護寺、八王子神社、光秀の母お牧の方の墓など明智光秀にまつわる伝説や史跡が遺されているが、光秀の出生を実証するものは無いとされています。(残念です)
むしろ、江戸時代の名奉行「遠山の金さん」こと遠山金四郎のお城といった方が有名なのではないでしょうか?ちなみに「遠山の金さん」は明智遠山家の末裔です。
これらのことから、1の説を通説としたのではないでしょうか?
さらに、決戦3で光秀が「織田の白鷹」と称されていますが、お城の名前も元ネタの1つかと。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.15 )
日時: 2005/03/30 21:27
名前: 微々美々

光秀の出生についても知っている部分を載せておきますね。
1.土岐元頼と中洞の娘の子であると(「美濃誌」)という説。
2.若狭小浜の刀鍛冶冬広の息子(「若狭守護代年数」)という説。
3.丹波(京都府)北桑田郡明石生まれの細川家の家人(「校合雑記」)という説。
4.幕府に仕えていたという説。
4.については静岡大学教授小和田哲男氏の説で「永禄六年諸役人附」(「群書類従」第二十九)の足軽衆の中に「明智」とあることを根拠とされています。
これ以外にも岐阜県山県郡美山町も出生地であるとされています。

・・・出生説について、自分の知っている分を抜き出しただけでも、これだけ”ばらばら”な訳ですから、自分の見解としては「両方」共と言ったところでしょうか^^;
(実はどちらにも旅行で訪れたことがあるので、「どっちか」という風に決めたくないと言うのが本音です)
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.16 )
日時: 2005/03/31 10:10
名前: 佐々成政ゆかり

微々美々さん丁寧な解説ありがとうございます。
武功夜話にある土田城(信長の生母土田御前の在所)は国道41号線(旧犬山街道)沿いで明智長山城の西方5〜6Kmの所にあります。土田城からも信長に明智長山城への応援を求めたが得られず落城したと伝えられています。また、明智長山城北側の明智の庄(可児市瀬田)は徳川時代初期に全ての農民を加納(岐阜市加納)に移住させて幕府直轄地となっております。近所の人に聞きますと明治になってから明智の庄(可児市瀬田)に戻ってきた人も多くおり、加納という姓の人が多くいます。
また、No.13 スレッド後段の’天正2(1574)年春武田勝頼2万の大軍を以って、東濃の諸域を攻略、三河、尾張。遠江、駿河への拠点明知城を目指す。城主遠山一行が叔父利景とともに急を織田信長に報じ兵500とともに之を護る。・・・’は恵那市明智の明知城だと思います。明智長山城は交通の要所でも、重要な戦略拠点でもありません。ちなみに、明智長山城と恵那明知城の間は中山道で40〜50Km離れています。
ご存知かも知れませんが、とりあえずご報告致します。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッド ( No.17 )
日時: 2005/03/31 11:26
名前: 辻斬り一代
参照: http://www.gamecity.ne.jp/kessen3/

僕も歴史に興味があります。(ゲーム以外にも史実など。)
教授や先生などではなく、歴史の本を読みあさる者ですが。
頬々美々さんが不明なことは、宜しければ僕が答えます。
ところで、今川義元って奥州で伊達、上杉に加勢したんですか?
メンテ

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