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決戦3「史実」探検スレッドぱーと2
日時: 2005/04/06 01:13
名前: 微々美々

決戦3「史実」探検スレッドに多くの書き込みを頂きましたので、第二弾のスレを立てて見ました。
(もうそろそろ100の大台に乗りそうでしたので)
書き込んで頂いた方や、御覧になって頂いた方、管理人様には本当に感謝しております。
(興味のない方には本当に申し訳ないスレでもあるのですが・・・)
前回同様「決戦3」に関わる「史実」の疑問・ご質問であれば、自分の知っているもの、調べて何とかなるものであれば、可能な限りお答えしたいと考えておりますので、どしどし書き込んで下さい。

これから決戦3を始める方にも楽しんで頂けたら幸いかな・・・と思っています^^
メンテ

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Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.79 )
日時: 2005/04/16 17:52
名前: ブー

藤堂高虎と大名の家紋について教えてください何度もすみません
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.80 )
日時: 2005/04/16 21:09
名前: 戦国マニア

では藤堂高虎について
藤堂高虎 弘治二年(一五五六)生
     寛永七年(一六三〇)没

源助虎高の二男として近江犬上郡藤堂村に生まれました。幼名を与右衛門(一説に与吉)。初めは浅井長政の臣、やがて織田(津田)信澄に従って、後さらに羽柴
秀長に仕えて禄三千三百石。天正十一年(一五八三)、
賤ヶ岳合戦の功により秀吉から直接五千石を受けています。秀長が大和へ移封したとき、一万石、天正十五年、
九州征伐に参陣して功があったので一万石加増、従五位
下佐渡守に叔任しています。天正十九年、大和大納言秀長が没すると、猶子秀俊に仕えています。文禄の役(朝鮮出兵)で水軍を指揮しましたが、朝鮮の水師提督
李スンシン(漢字忘れました)の軍に連戦連敗。主君
秀俊の死に遭い、敗北の恥と主君の死を嘆いて剃髪し、
高野山に入りましたが秀吉の召還に応じて伊予板島に七万石を与えられています。関ヶ原合戦では東軍に属し、
功により伊予半国二十万石。その後、備中の内に二万石を加増。慶長十二年(一六〇七)、和泉守と改称。翌十三年、大坂に対する要地伊賀一国と伊勢安濃津の地に移封、二十二万九百余石。大坂夏の陣では、八尾で長宗我
部盛親と交戦。落城の後、家康から焼け跡の金銀を与えられ、その金で茶釜を初め茶湯台子一式を作っています。また、大和・山城の一部と下総香取の地を併せ、
三十二万三千九百余石の大藩主となりました。











メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.81 )
日時: 2005/04/16 22:21
名前: 微々美々

「家紋」って何?という事で回答させて頂きますね。
※「大名の家紋」だけではご質問が漠然としており、ちょっと載せるのに莫大な量になってしまうので・・・
もしよろしければ、今後は「○○氏の家紋」と言うような形式でお願いできますでしょうか?
(もちろん知っているものには限りがありますので、ご希望に添えない事もあると思いますが)

家紋の始まり
家紋はもともと公家から始まったとするのが定説とされています。
平安貴族たちは自家の牛車や調度などに当時流行していた文様を付けて、他家と区別を行いました。
巴紋や木瓜紋はその名残とされていて、これが次第に世襲的になり、家紋が発生したようです。
当時、武士には家紋はなかったようで、何らかの目印で敵味方の区別をしていたようですが・・・
源氏の白旗、平家の赤旗などはその例になるのでは?
平安後期に至って武家にも家紋が登場するようになりました。自分の功名を大将に認められることで、先祖代々の土地を守る事が理由となります。
それには、自分を大将に印象づける印が必要となるので、家紋を付ける事になったとか。

武家の家紋はシンプル
単純な意匠の方が大将の目に残りやすいからと言うのが理由だそうです。

武家の家紋の大別
1.五布よりなる陣幕の染め分けの引両紋(新田氏・足利氏)・黄紫紅紋(三浦氏)
2.旗の文言・図案・神仏号・祈願文・神仏具紋・神使紋
3.旗の招きの依代の笠(少弐氏)・団扇(児玉党)・傘(名越氏)・扇紋(佐竹氏)
4.文様(鎧の直垂などの絞り、織文様からの転用)。目結(佐々木氏)・鱗(北条氏)・格子(遠山氏)・三つ柏(葛西氏)・梶の葉(諏訪氏)
ですね・・・
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.82 )
日時: 2005/04/16 22:29
名前: 微々美々

「藤堂高虎」の逸話について2つほど・・・
「史実」は戦国マニアさんが詳しく書いておられますので・・・
(ものすごく助かります^^&勉強になります)

博打は男の甲斐性?
藤堂家に家財を失った家臣が5人出ました。
5人のうちの2人は遊里に通い続けたのが原因で残りの3人は博打が原因です。
高虎はそれに判決を下しますが、遊里に溺れた2人は改易のうえ、追放処分。博打が原因の3人は、家禄3分の2没収という比較的に軽い処分でした。
高虎に理由をたずねると、「女に溺れて、だまされて家財を失うような男にはなんの取り柄もないが、博打にはまだ見所がある。確かに好ましくないことではあるが、博打を打つ男には人に勝とうという野心が窺える。侍にはこの心が大事である。」
と答えたそうです。

ワシは誰も死なせない?
高虎は自分の死後のことを思い、「わしが死んだときに、殉死する者は姓名を書いてこの投書函に投書せよ。」と触れを出しました。
投函した家臣は73名に達したそうです。高虎はこの函を幕府の御用室に持ち込み、「この函に投函した者達は、わが家の宝でござります。この者達が殉死すればわが家は天下の先鋒の役目を果たすことが出来ませぬ。どうか幕府の命令を持ってわが死の後にこの者達が殉死するのを禁止していただけますよう。」と申し出たため、
藤堂家では高虎の死に際して殉死した家臣が一人も出ませんでした。

「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.83 )
日時: 2005/04/17 07:40
名前: ブー

戦国マニアさんと微々美々さんありがとうがとうございます
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.84 )
日時: 2005/04/17 10:11
名前: ブー

武田信玄の家紋
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.85 )
日時: 2005/04/17 14:21
名前: 微々美々

「武田信玄の家紋」って?について回答させて頂きますね。
(ブーさん、こちらの勝手な要望にお応え頂き有難うございます^^;)

戦国の家紋と言えば武田?
確かに戦国を代表する有名な家紋の1つです。
武田氏は、「四つ割菱」を用いています。
ちなみに「四つ割菱」は武田氏の専用ですので、やがて「武田菱」の名で呼ばれるようになりました。
武田氏の一族は「菱」を家紋として用いているのが特徴ですが、宗家の「四つ割菱」を立てて、家紋の形を変えています。
例としては、「四つ割菱」の線を太くしたり、「花菱」にしたり、菱を減らして「三つ菱」にしたものがあります。

いつから「菱紋」?
武田氏が菱紋を使うようになった由来は、前九年の役(1050年)の時、源頼義、義光親子が住吉神社に夷賊平定の祈願をし、そのとき神託によって拝領
した鎧の袖に割り菱(武田菱)の紋があったからとされています。
「見聞諸家紋」という史料にこの話が記されています。

自分は菅田神社にある「楯無の鎧」を見た時、鎧に割菱・花菱両方ともあったことを覚えています。

武田菱のモチーフは?
武家の家紋は名字を表したものが多いので、恐らく、武田の「田」の字を文様化したのでは?
また、ひしゃげた菱形にすることで武田の「武」を表現したものと言われています。
また「花菱」も用いていますが、これは裏紋または控え紋として用いたそうで、女性などがやさしさを表わすために多用したとされています。
この花菱も菱形を花の文様に変化させたものでした。

山梨は「武田菱」だらけ?
中世に新羅三郎義光の子、義信が荘官として甲斐国に土着し、甲斐源氏の基礎を作りました。
以後武田氏の滅亡まで、甲斐国は他国の侵略を受けず、長い年月、武田氏の支配が続いています。
この為家紋の種類においても武田氏および武田氏に関係した一族の家紋が非常に多いそうです。
菱紋(割菱、花菱、三階菱)の使用割合は日本でもダントツだとか。

「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.86 )
日時: 2005/04/17 16:46
名前: ブー

これからも疑問や質問おするので、お願いします。それと上の説明ありがとうございます。
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.87 )
日時: 2005/04/18 16:10
名前: ブー

上杉景勝はどんなときに笑ったんですか
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.88 )
日時: 2005/04/18 19:26
名前: 大内新左衛門村広

そういえば、景勝は生涯一度しか笑ったことがないと
伝わっていますね
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.89 )
日時: 2005/04/19 01:38
名前: 微々美々

回答が遅れまして申し訳ありません・・・

早速、”寡黙の名将”「上杉景勝」が「何」に対して笑ったのか?+αについて回答させて頂きますね。

景勝とサル?
実は、景勝の逸話にこんなものがあります^^
景勝は猿を飼って可愛がっていました。この猿はよく人の気持ちを理解することが出来たとか。
ある時景勝が部屋に入ってみると、この猿が彼の脱いだ帽子をかぶり、彼の座所に上って腕を交差し、うむうむと頷いて、まるで家臣に指図するような素振りをしました。これを見て景勝は初めてにっこりと笑いましたが、近臣達が景勝の笑顔を見たのは、ただこの一回限りだったそうです。

景勝が寡黙になった訳
景勝が十歳の時、父長尾政景が野尻湖で舟遊び中に事故死するという出来事が起きました。これは謀反の噂のあった政景を宇佐美定満が舟遊びに誘って独断で差し違えたとも、謙信の命により定満が政景を殺害したとも伝えられていますが、真相は不明だとか。
これを景勝の「寡黙」の理由としている方もいるそうです・・・。

実は文人?
ある年の春、秀吉が景勝に「お国元変わった言葉もあるだろう。何か方言を入れて歌を詠んでみて欲しい」と頼んだ時のことです。
景勝は即座にこのような歌を詠みました。
「鶯よ 初音つんだぜ聞くべいぞ その如月の十六夜のころ」
さすがですね・・・(拍手)

「決戦3」に登場する「史実」の疑問・ご質問はまだまだ募集中ですので、どしどし書き込んで下さい^^;
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.90 )
日時: 2005/04/19 07:27
名前: ブー

微々美々さんいつもありがとうございます
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.91 )
日時: 2005/04/19 15:45
名前: ブー

秀吉はどうして千利休お殺したんですか。教えてください
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.92 )
日時: 2005/04/19 20:29
名前: 戦国マニア

千利休切腹の説は諸説あります。しかし、真相は今だに謎です。茶器の鑑定で私服をこやしたという説、石田三成ら官僚たちとの確執、娘を秀吉の側室に出すのを断ったからという説。


余談1:大徳寺の木像
利休は大徳寺山門の上に自らの木像を安堵しましたが、そのことが利休の命を短くしてしまう理由の一つになってしまいました。山門を通るには秀吉であれ天皇であれ、利休の木像の下をくぐらなければならず、それが
秀吉の怒りに触れてしまったのです。木像は一条橋で磔にされ、利休は切腹を命じられてしまいます。
余談2:利休の亡霊
利休が切腹して数日後、秀吉が数奇屋というところに
立ち寄って茶をたてようとすると、突然巻き起こる一陣の風。見ると黒頭巾を被った利休の幽霊が。苦しそうに息をしながら口から火焔を吐いています。待女は気を失ってしまいましたが秀吉は動じず、「頭巾姿でわが前に現れるとは無礼ではないか」というと、すると幽霊は下座に下がったといわれています。   以上です
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.93 )
日時: 2005/04/19 20:47
名前: ブー

戦国マニアさんありがとうございます
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.94 )
日時: 2005/04/20 00:07
名前: かばちゃん

主要人物のキャラってこのゲームみたいな感じだったのでしょうか・・・。
っていうか前田利家のあの歌舞伎物っぽいしぐさ
丹羽さんのあの頼りなさ?^^あんな二人組みだったらおもしろいなぁぁ
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.95 )
日時: 2005/04/20 02:54
名前: 微々美々

回答が遅れがちで申し訳ないのですが・・・

千利休の切腹の異聞を追加しますね^^
実は、「佐々成政」の初期装備「冷血漢の鎧」についても関連があるようです・・・

佐々成政の伝説に「黒百合伝説」というものがありますが、この逸話が関連します。
かなり陰惨です・・・
「絵本太閤記」によると、
秀吉の妻、ねねの推挙により、肥後国国主となる事ができた成政は、
お礼として白山(石川県)の山奥、千蛇ヶ池に咲く黒百合を献上することにしました。
当時黒百合は、黒く可憐で、珍しい花だったそうです。
ねねはとても喜び、側室・淀殿に見せて自慢しようと考えました。そこで、早速茶会を催し、その席で黒百合を披露することに決め、千利休の娘・「綾」に活けさせました。
茶会当日、ねねは得意げに銀の花入れに活けた黒百合を披露し、淀殿もそれをほめそやしました。
がっ、しかし・・・
偶然にもその話が淀殿に漏れてしまっていたのです。淀殿は負けじと、使者を使って黒百合をどっさりと取り寄せました。
そして、茶会が終わって三日後の花摘み供養の会のときに事件はおきました。
淀殿は竹筒に、当時卑しい花といわれていたツツジ等の花に混ぜて、黒百合を活け捨てにしたのです。
しかも、黒百合はねねのものよりも色が濃く、活き活きとしていたそうです。
ねねはこの事に激しい屈辱を感じ、成政を憎み、綾を疑い、秀吉にも様々な告げ口をしました。
そのため、成政は切腹に追い込まれたというのです。
ちなみに、花を活けた綾の父・”千利休も切腹”させられています。
※この黒百合、実は佐々成政に惨殺された愛妾、「早百合」の化生とも言われています・・・
ちなみに「早百合」伝説はあまりに”エグイ”話なので割愛させてください・・・
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.96 )
日時: 2005/04/20 01:59
名前: 微々美々

決戦3のキャラ、「利家」と「長秀」の人物像について回答させて頂きますね。

前田利家
利家は実際、喧嘩好きの”かぶき者”でした。
じつは・・・「記録」が残っています。
「利家さま、お若き時はかぶき御人」と書かれているとか。
利家は派手な格好に加え、途方もない長さの槍(約6m)を携えて往来をのし歩き、「又左の槍」と、”ひんしゅく”を買ったという逸話をのちに残していますが、同時に推定身長”約180cm”、容姿端麗だったといわれています。
ちなみに死ぬ間際も「かぶき者」でした。
おまつに「あなたはさんざん戦場で人を殺してきたのだから、地獄に堕ちないように経帷子を着けて下さい」と言われたのに対し、「儂が人殺しをしたのは戦場だけじゃ。無意味に人を殺したことなど一度もない」と笑って断ったそうです。

ちなみに前田慶次は・・・戦場でこんなことを仕出かしました^^
前田利家の影武者を務めたことがあるそうですが,戦場で「われこそは”利家”の影武者なり」と大音声で駆けまわったそうです。
コレでは「影武者」にならないですよね・・・
こらー(^^; by利家というところでしょうか。

丹羽長秀
「木綿藤吉(読み:もめんとうきち)、米五郎左(読み:こめごろうざ) かかれ柴田にのき佐久間」
とは、信長の重臣を指した名句ですが、
米五郎左(=丹羽長秀):地味だけど、米のように絶対不可欠な存在。だけあって、
他の3人は”あれば便利”ですが、丹羽だけは「無いとダメ」と思われていたと考えられます。
温厚な人柄で、降伏する際は「長秀に間に入ってもらえば安心」とまで言われたとか。
残念?ながら「芋」ではないようですが、「食べ物」に関連するほど貴重な人物だったようですよ^^
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.97 )
日時: 2005/04/20 02:15
名前: 微々美々

ついでに・・・戦国の”あだ名付け名人”
織田信長の”奇妙な命名”一覧も載せておきますね^^

正室
濃姫:本名は帰蝶ですが、「マムシの娘」が「蝶」でもないだろうということで「濃姫」になったとか。ひ、ひどい・・・。

側室
お”鍋”(料理の道具ですか・・・)
男の子
奇妙・茶筅・三七(3月7日に生まれたから)
坊(おーい^^;)・酌(小杓)・人・縁
小洞(小さな洞穴)だとか、
女の子でも判明しているところでは・・・
五徳(これって”調理器具”じゃないですか・・・)
冬・鶴(適当な・・・)
家臣については言わずと知れた、
秀吉=はげネズミ(秀吉の浮気癖に悩むねねに対し、信長が手紙を書いて慰めますが、この手紙に書かれています)
光秀=金柑(きんか頭)
ですね・・・
メンテ
Re: 決戦3「史実」探検スレッドぱーと2 ( No.98 )
日時: 2005/04/20 02:47
名前: 微々美々

多くの方にご質問を頂き、ありがとうございました。また、御覧になって頂いた方、貴重な話を書き込んでいただいた方、管理人様に心から感謝しております^^

一応、こちらのスレでのご質問・回答・書き込みに関しては「終了」とさせて下さい。
現在、「第三弾」のスレを立ててありますので、今後の書き込みと、ご質問などについてはそちらでお願い致します。
本当にありがとうございました。
メンテ

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